朋の音 いつからか、弟には少し奇妙な癖があった。
元々「少し」どころか大層変わったところのある弟だったが、その癖は「少し奇妙」というのがふさわしい。なにしろ、特にこれといった特徴のないところで歩みを止めるというだけだ。
甘味処、橋の上、通り、舞台、河原、はたまた誰が住んでいるかもわからぬ民家に打ち捨てられた堂。人がいるなしも、天気も、日にちも特に関係がなかった。同じ場所でも素通りのこともある。ならば弟自身に理由があるのかと思えばそうでもない。
足を止めるといっても動かぬようになるわけでもなし、すぐに再び歩き出す。皆大して気に留めず、「またか」と思うばかりだったのを尋ねたのも、また大した理由などなかった。
「お前はいつもそうして何をしているのだ」と軽い調子で掛けられた言葉に、弟は少しだけ口元に笑みを浮かべて答えた。
「あいつの音を聞いているのです」
息を、飲んだ。
久しぶりだったのだ。面じみたものでない、感情が漏れ出てしまったという貌も、柔らかな声音も。どれもこれも、ずいぶん昔に失われてしまったものだった。
そして何より、弟の答えが悲しかった。
「あいつ」が誰かわからぬほど愚かではない。なのに、聞くまで気づかずにいた自分を恥じた。よくよく考えてみれば、この癖が生まれた時分などはっきりしていたのだ。
呪が解けて暫く。弟の隣からとある琵琶法師が喪われた時から、始まっていた。
「聞いた音だと言っていた。だからでしょうか。時折、聞こえる。すぐに消えてしまうが」
優しく緩めた瞳に映しているのが目の前の景色ではないのはすぐにわかった。
弟は大層変わったところがあったが、その実、無邪気でひたむきなただの子供で。楽しそうに舞う姿も、朋と共に戯れる姿もよく覚えている。それがいつから奴そのものの舞を失い、隣にある姿もなくしたかも、ありありと。
望まれるように振る舞い、美そのものを得た弟は、けれど肝心なものを失ってしまったように見えた。
そんな弟が自ら聴きたいと願う音などただひとつだろう。否、ふたつか。
まだ己の耳にもかすかに残っている。
高らかに歌い上げる声と、空気を揺らす琵琶の音。
「俺の世界から音色は消えたが、あいつの音だけは消えんのです」
「……そうか」
そうだろうとも、と。すまぬ、と。思えど言ってやることは出来ない。弟自身が決めた道ではあるが、その背に負われているのは自分も同じだ。
「……残念だが、俺には聞こえぬ。都の音がするばかりだ」
「はは、兄者にはそうかもしれませんな。だが、俺には聞こえる! ならばこそ、いつか必ず辿り着いてみせましょう」
「……そうか」
力強い言葉に目を伏せた。肝心なものを失ったなど、とんでもない思い違いだった。この弟は手を離すつもりなど早々ないのだ。考えてみれば、幼きころからそうだった。犬ころと同列に扱った自分達から、姿を目に入れようとさえしなかった母上から、才に気づきながらもついぞ認めようとしなかった父上から。どのように扱われようとも、弟は舞っていた。歌っていた。諦めなかった。そうして並んだ朋を何より尊んでいたのに、投げ出すはずもないだろう。
(お前なら為すだろうよ、犬王)
盛者必衰。栄華は続かず、咲き誇れども花は散る。
けれど、かつて弟とその無二の朋とが消え逝くばかりだった物語を歌い空に昇っていったように、弟の想いも報われることを祈った。
弟の少々奇妙な癖は、それからも止まず。誰ぞが邪魔することもなかった。