ガァデン・レイズピア「調査結果が出たよ」
「……なんの話だ?」
植物園の一角が、物々しい空気に覆われた。何気ない薬草採集の最中、ルークは視線を移す事もなくそれを告げる。余りにも、唐突な切り出しだった。
トレイはそんな神妙な面持ちのルークを眺めると、手にしていた薬草の束を籠に収める。こんな作業の合間にする話ではない。彼の空気が、それを告げていた。
「『仮定』の話さ。しかし、分かったことはあまり色良くない話でね」
『仮定の話』そう先に告げられて、トレイには思い当たる節があったらしい。あれか、と脳裏にいつしか交わした会話の記憶が蘇る。
「よろしくないだって? お前が言うんじゃ、そりゃ大層よろしくないんだろうな」
茶化すような台詞も、どこか心が伴わない。心臓が、嫌な鼓動を響かせていた。
ルークはやがて薬草の束を籠に収めると、軽く作業用手袋に付着した土を払った。漸く視線を持ち上げる決意ができたらしい。物憂げな瞳が、トレイをじっくりと捉えた。
「『人魚の妙薬』に関する、リスクについての話さ」
植物園一帯を、魔導式の風が吹いた。亜熱帯エリアから吹き荒んだそれは緩く、頬を嬲る。
居心地の悪さに身を捩りながら、そうしてトレイは、はくっとひとつ息を吐き出した。
ガァデン・レイズピア
持ち上げる目蓋の重さに、もはや癖になりつつある眉間に皺が寄る。二度三度瞬いた瞳が、乾きを訴えていた。頬に触れる空気はどこか湿潤を帯びていると言うのに、随分と不思議な感覚だった。
覚醒を促すように脳へと酸素が送り込まれる。鼻で吸い上げた匂いに心が凪ぐのを感じた。ラベンダーだ。トレイは枕の上で身動ぐと、乾いた瞳を擦り上げぼんやりとした明かりを目に映した。
桃色珊瑚の光が眼前に広がった。淡く、柔らかく、女性的で全身を包み込むような色彩。さながら胎内回帰だ。ふかふかの布団も、それに拍車をかける。
その光を覆う乳白色の花弁はゆらゆらと揺れ、水面ように揺蕩っていた。
桃色珊瑚の色彩は、海を渡る際のお守りとも言われた。身を守る母の色彩は、この世界を照らす唯一無二と言って良い光だ。
一般的に男性を虜にする色彩は、さながら人魚の誘惑にも似ている。その感覚を知っていた。
トレイはそんな光に照らされたジェイドの横顔をぼんやりと捉える。いつもより、いくらか血色が良く見えた。
「……ジェイド?」
「トレイさん。お加減はいかがですか?」
「お加減って、……いっ!」
途端、ズンとした痛みが腹部を襲う。トレイは再びラベンダーの匂いに誘われるがまま、持ち上げかけた頭を枕に埋めた。
「ああ、まだ動かないで。鎮痛剤もまもなく錬成終わります」
ジェイドの肩にかけられていた赤と黒のタータンチェックのストールが落ちる。見覚えのあるものだった。そんなストールを見下ろしながら額を撫で上げる手が冷たくて心地良い。トレイは浅い呼吸を繰り返すと、患部であろう鳩尾の辺りを摩りながらジェイドを映した。
「ちん、つうざい?」
「……覚えて、いらっしゃらないのですか?」
相変わらず視界は不鮮明。眼鏡を外しているせいだと気付いたのは、それからすぐの事だった。ジェイドが作業をしていたであろう卓上に、見覚えのあるフレームを捉えた。
ジェイドは深い溜息を吐くと、申し訳なさげに片手で自身の顔を覆う。そんな顔をさせてしまうような事件があったらしい。トレイは患部を摩る手とは逆の手でジェイドの指先を握り締めた。
「僕の不注意です。脚立を運んでいる際に余所見をしたばかりに、トレイさんのお腹をドンとひと突き」
「ドンとひと突き」
「キッチンで作業をしていたらしたと思ったので、貴方を前方に捉えた時は肝が冷えました」
トレイの指先に懇願するようジェイドが頬を寄せた。こんなにしおらしい態度も珍しい。記憶は曖昧だが、余程のショックを受けたのだろう。語る唇も、どこか冷たかった。
「本当に申し訳ありませんでした。……ああ、倒れた際にぶつけた後頭部もこんなに腫れて」
触れられた後頭部から、確かに鈍痛が走った。ジェイドがなぞるその場所は、確かにポッコリと妙な形を浮かび上がらせている。
触られなければどうという事はない。トレイはジェイドの手をやんわりと躱すと、悲哀に満ちた表情を照らすべく笑ってみせた。
「は、はは。大丈夫だって。それより、今何時だ? だいぶ暗いな」
桃色珊瑚色の照明がなければ、至近距離にある筈のジェイドの顔も朧げだっただろう。窓から差し込む淡い青も、どこか闇色に混ざっているように伺えた。
「暗い、ですか? ……まだ11時を少し過ぎたばかりです。ほら、東の方がまだ青くて明るい」
懐から取り出した懐中時計らしきものを見下ろしたジェイドの瞳が丸くなった。
「うん? ……そう、か? ちょっと目が疲れてるのかな。ここは? お前の部屋か?」
「……何を、仰っているのです? ここは僕と貴方の寝室じゃありませんか」
「……うん?」
ゆっくりと起き上がり、トレイは真正面にジェイドを捉えた。
困惑する表情はしかし、次の瞬間にふっと綻んだ。
「……ふふ。僕を驚かせるおつもりですね。もう何年一緒にいると思っておいでで?」
「えっと……?」
「いいでしょう、お付き合いして差し上げます。ここは『常闇の国』。昼間は東に青を浮かべるだけの、年間を通して『ほぼ』極夜と言われる小さな島。僕と貴方は、ナイトレイブンカレッジを卒業してこの島に家を建てた」
ラベンダーの香りに混じって、微かに樹木とジェイドがすり潰していたであろう薬草の匂いがした。窓の外は、言われた通りの青い光が東と思しき方角で揺れる。それ以外は、深い藍色の空が広がっていた。
「貴方は調理師としての免許を取得し、この島でお菓子を作るパティシエ。僕はそれを島の外へ売りに出る行商」
「……決して裕福じゃないが、二人で生きる道を選んだ。海に続く川に面した小さな家」
そんな風に音を続ければ、ジェイドがふっと唇を綻ばせた。
「観念なさいました?」
「頭を打った拍子に記憶後退。よくある話だろ?」
「ふふ。相変わらず、僕のトレイさんは悪戯っ子です」
柔和な空気を感じ合った二人が、どちらからともなく唇を重ねる。決して深くなり過ぎない、挨拶のようなキスだった。
「鎮痛剤を飲んだらランチにしましょう。お腹ぺこぺこです」
くぅっと控え目に鳴ったジェイドの腹を見下ろすと、トレイはふはっと眉根を下げながら苦笑いを漏らす。そっとそんな薄い腹に手を伸ばせば、呼応するように再び掌に音が響いた。
「ん。悪かったな、待たせて」
「……僕のお腹に話しかけないでください。稚魚なんていませんよ」
「ジェイドがいればそれでいいよ」
差し出されたマグカップを受け取りながらジェイドの頬を優しく撫で上げると、ぷぅっと膨らんだ頬がほんのりと赤く染まった。
「……僕だけの稚魚さん(トレイさん)は調子が良過ぎます。ランチの担当を代わって差し上げようかと思いましたが気が変わりました」
恐らく現状を憂いての事だろう。
しかし、こうして機嫌を損ねてしまったジェイドは梃子でも動かない。トレイは薬草の匂いを凝縮させた鎮痛剤を一気に飲み干すとその頬を弄ぶように二度三度指先で小突いた。
「大丈夫だよ。数分もすれば薬も効くだろうから。ランチのリクエストはございますか?」
「……コテージパイがいいです」
「うん。付け合わせは裏の畑からスターキャロットと常闇レタスを取ってきて温野菜にするか」
「中のマッシュポテトには」
「ニンニクを一欠片とマッシュルームは乱切り、みじん切りにしたブラックオニオンを混ぜて……っと」
とんっと音を立てて胸に額を押し付けたジェイドが、ぎゅっとトレイのシャツを握り締めていた。よく見れば僅かに震えている。胸に充てがわれた額も、心なしか冷たく感じられた。
「本当に、僕の事お忘れになっていませんよね?」
(……少し、意地悪が過ぎたか?)
ほんの些細な悪戯の筈だった。
いつからジェイドはここまで弱くなってしまったのだろうか。
この恋を学園で実らせた時は、それこそ毎日がジェイドに振り回されるような日々だったと思う。決して粗相をするような男ではない。それでも心が、毎日踊らされていた。
トレイはあやすようにジェイドの背中を撫でると、潮風の匂いを纏った頭皮に鼻梁を埋めた。
「……ランチが済んだら灯台百合を摘みに行こう。明日の分がまだだったろ?」
「それが済んだら」
「そうだなぁ。バスケットにクルミを練り込んだスコーンとジェイドの淹れた紅茶を詰めて、歯車丘でティータイムにしようか」
最高のデートコースに、持ち上がった顔が華やぐ。鎮痛剤の効きも早いようで、触れた腹部に痛みはもう存在しなかった。
トレイはベッドサイドに置かれた眼鏡に手を伸ばすと、漸くクリアになったジェイドの表情を確認して、約束だと言わんばかりに額へとキスを降らせた。
「先に中庭で収穫をしています。トレイさんはどうぞごゆっくりいらしてくださいね」
一頻り戯れてはみたが、低い音を響かせ始めた腹には到底敵わない。ジェイドはベッドから起き上がると、トレイへ衣服を手渡した後に部屋を後にした。
麻のノーカラーシャツに綿のゆるりとしたパンツに腕と脚を通す。部屋着の着心地も悪くはなかったが、これもやけに肌馴染みがいい。トレイはパンツのウエストリボンを腰骨に合わせて結ぶと、リビングへと足を運んだ。
ジェイドが作ったテラリウムの展示ガラスに、灯台百合の淡い光が差し込んでいた。ガラス棚に収められたいくつものテラリウムは、先程水を与えられたばかりらしい。キラキラと音を立てるような世界にトレイの目元が綻んだ。
キッチンの奥にある勝手口から顔を覗かせれば、さながらその庭はジェイドの作り上げた精巧なテラリウム畑が広がる。多種多様な野菜に始まり、イチゴなどの果実は温度管理を徹底している為小さな温室に収められていた。傍の花壇には、色とりどりの花が咲く。休日の大半はここで過ごす事が多い。トレイは野菜畑にしゃがみ込むジェイドを見つけると、自身もまたその隣へと腰を下ろした。
「お。スターキャロットも随分育ったな」
「はい。常闇レタスも食べ頃ですね。魔力濃度の高い国ですので、害虫の類が存在しないのは嬉しいです」
「その分、きちんと手入れしてやらないとすぐにダメになるけどな。害虫って言っても、所詮持ちつ持たれつだよ」
「海の食物連鎖のようなものでしょうか。長く山を楽しんできましたが、やはりまだ植物の世界は奥が深いです」
収穫したばかりのスターキャロットと常闇レタス、ブラックオニオンを2、3個籠に放り投げる。二人だけの食卓であれば、これでも十分な量だった。
トレイは土を払いながら立ち上がると、後を追うようにして立ち上がったジェイドの腰に手を回した。
「おや、どうされました?」
「いや……。さっきな、寝ている時に夢を見たんだ」
「夢、ですか?」
小首を傾げながらその手に甘んじるジェイドの瞳がくるりと丸まった。
「ああ。学園時代の夢だよ。確かルークが出てきたかな。内容は……あんまり覚えていないんだが、なんだか懐かしくなってな」
「ルークさん、ですか」
声に微かな翳りがある。トレイはジェイドの瞳を覗き込むと、何かを察知したように意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「ジェイドはルークの事、苦手だったよな。観察対象にされるのが嫌だって」
「それもありますが……、貴方の夢に入り込めなかったのが残念です」
「ええ?」
しおらしさに輪がかかる。やはり先程の虐めが過ぎたのか、トレイはコツンと合わせられた額に擦り寄ると、小さく膨れ上がった頬に微苦笑を浮かべた。
「この国では確かに僕と貴方の二人きりですが……。夢にはどうしたって干渉できません」
「可愛い嫉妬だなぁ」
「どうとでも。言ったでしょう? 僕、これでも一途で独占欲が強いんです」
それは学園でのある日。
ジェイドがぽつりとトレイの背中に漏らした言葉が波のように全身を攫った。
『トレイさんはご存知ですか? 人魚とは総じて、一途で独占欲が強いんです』
『お前が一途だって?』
『ええ。一度捕らえたものは、死ぬまで離しません。離せないんです』
俄には信じがたいと、その時は度肝を抜かれた。
何しろジェイドは、そう言った情熱的な面を一度たりともトレイに見せていない。いつも凛とした、冷静の衣を被った横顔が印象的な男だ。
その音に、心が攫われたのを良く覚えていた。
(もう何年前になるかなぁ……)
「やめましょう、このお話は」
感慨に耽っていると、やがてジェイドがするりとトレイの腕から逃れた。髪を梳きながら先を歩くジェイドの頸が、微かな朱色を浮かべる。どうやら少し気恥ずかしくなってしまったらしい。
これ以上話を続ければ、漸く直った機嫌がまた下降してしまう。
それだけは阻止すべくトレイは、それ以上を語らなかった。
「……そういや明日は納品の日だったか?」
「ええ。品物の一覧はこちらに」
すいとマジカルペンで弧を描いた。ひらりとトレイの手に落ちてきた小さなメモ書きには、ジェイドの整った文字が並ぶ。
タルトタタンが3ホール、アイシングクッキーの詰め合わせが20セットとライムゼリーが10個。
頭の中でレシピを思い浮かべながら、同時に道すがら食料庫の中を覗く。昼食で使用するジャガイモを4つ手に取り、リンゴのストックを覗き込んだ。
「3ホールだとリンゴが4つくらい足りないな」
「後程、灯台百合を摘みに行った帰りにでも果樹園に寄りましょう。ティータイムは歯車丘なのでしょう? 道中いくつか取っていけば丁度良いかと」
「賛成だ。その前に」
食料庫からジェイドの方へ向きを変えれば、またぐぅ……と低い音が鳴った。
「……すみません。また粗相を」
「ははっ! 元気があって何よりだ。すぐにランチ作るから、お前はその間に今日の紅茶選びと採取の準備をしておいてくれ」
「かしこまりました」
やがてキッチンに戻るや、トレイはワークテーブルへ向かい、ジェイドは紅茶の缶が並ぶ棚を吟味し始めた。
魔法で剥かれるジャガイモとブラックオニオンの皮。鍋を熱する炎も、パイを焼く為の煉瓦造りのオーブンも勿論魔法頼りだ。
常闇の国は、元より住居には不向きの場所と言われていた。
電気も電波も水道も、何もかもがこの国には通っていない。全てが魔法頼みの小さな島国だった。
そのインフラ整備のされていない立地から、魔法士たちにとっては一種のサバイバル島などと呼ばれていた。
スパルタ教育にはもってこいの無人島はしかし、住めば都とも言い換えられる。限られた魔法士のみが居住を許される場所。選ばれた魔法士の高級住宅島と言っても過言ではなかった。
誰にも干渉されず、二人きりの時間を満喫できる。何より川を下れば海にも直結していた。ジェイドが人魚である以上、これ以上の共存空間もそうはない。
トレイは棚に飾られた二人分の卒業証書と居住許可証を眺めると、やがて視線に気付いて振り返ったジェイドに微笑んだ。
「何か?」
「……いや、幸せだなって」
「幸せ、ですか?」
どうやら今日の紅茶が決まったらしい。珍しい三角錐の形をした缶を手にキッチンまで歩みを進めたジェイドが、再びトレイの頬に自身の頬を擦り寄せた。
「疑うのか?」
「いいえ。疑う隙もない程に、僕も幸せですよ」
「ちょっと不便ではあるけどな」
「ふふ。この国を出る為には、午前9時の渦潮に乗らなくてはいけませんからね。そう安易に里帰りもできません。それでも、貴方は本当に幸せですか?」
水中呼吸の魔法薬を服用したとしても、ジェイドの背に掴まって近隣のインフラ整備のされた島まで2時間はかかる。過酷な里帰りには変わりない。
それでも、二人で生きるこの道を選んだ。
「お前がいればそれでいいよ」
「もう少し、歌うようにお願いしても?」
「歌……えぇ?」
「ふふ。冗談です。僕も、貴方がいればそれで構いませんよ。そうでなければ、こんな隔絶された空間になど、すぐに飽きてしまいます」
朝食を二人で食べて。
庭の世話と果樹園での採取を行い。
昼食を二人で食べて。
トレイは納品用の菓子を作り、ジェイドは3日に一度の納品日でなければテラリウムに手を加える。
夕食前に次の日の分の光源、灯台百合を摘みに行き。
夕食を二人で食べて。
夜は飽きるまで愛し合う。
ルーチンは決して崩れない。毎日、同じ事の繰り返し。予定調和を嫌うジェイドが、何故そんな生活に甘んじているのか。
それは偏に、トレイが共にあればこそだった。
「あー……ええっと」
「?」
「き、君の〜存在は〜、俺にとっての灯台百合で〜」
「……ん、ふふっ! それで?」
「あ、青い昼の空も〜、藍色の夜の空も〜、君がいれば〜……え、ええっと」
「日々がみずみずしいね〜」
「っ! ジェイドッ!」
調子っ外れな音に合わせた絶妙な歌詞の群勢に、ジェイドが懐かしいものを重ねる。流石に恥ずかしさが臨界点を突破したのか、豪快に笑うジェイドをトレイは思わず羽交い締めにしていた。
「すみ……ふふっ! とても、ンフッ、素敵なお歌をありがとう、ございます」
「笑いながら言うな! ああもう! お前はもう黙ってスコーンの下拵えでもしててくれ!」
「ふふふっ! はぁ……、こんなに笑ったのは久しぶりです」
「ジェイド」
「かしこまりました」
凄むように名前を呼べば、従順になった途端にボウルと計量カップが宙を舞った。
適量の薄力粉と強力粉に砂糖、卵に牛乳がゆらりと宙を踊る。トレイの仕事風景を眺めているせいか、はたまた学生時代ラウンジで培われた何某か、ジェイドは手際良く作業に当たった。
温まった煉瓦造りのオーブンにコテージパイを収める頃には、すっかり発酵段階にまで差し掛かる程だ。たまの大量発注の際、これ程までに強力な助手もいない。纏わりつく怒りと羞恥を冷ましながら、そうしてトレイは漸く凪ぎ始めた心にジェイドの奏でる鼻歌を取り込んだ。
「……ジェイド」
「おや、バレてしまいましたか?」
そのメロディラインは、長くトレイの汚点として君臨し続けたあのメロディだった。トングの柄でコツンとジェイドの頭を小突けば、シャリっと耳心地の良いピアスが音を立てる。
兄弟や幼馴染との時間よりこちらの手を取ってくれた事に僅かな優越感が芽生える。生涯そのピアスだけは外さないで欲しいと懇願したのは、他でもないトレイ自身だった。
「明日はラウンジに納品なんだろ? アズールやフロイドにもよろしくな。ああ、別に何か手土産でも持って行くか?」
「お気を遣われなくても結構ですよ。それよりも、後程買い出しリストを作らなければなりませんね。卵と牛乳がもう残り少なくなっていました」
「ほぼ毎日使ってるからなぁ。どうせなら牛と鶏も飼うか?」
「動物の世話は慣れておいでですものね。庭の裏手をもう少し拡張させれば飼えないこともありませんが、世話にかかりきりな貴方を見たら嫉妬してしまいそうです」
チョコチップが発酵を終えた生地に練り込まれていく。なんでもない風を装ったように漏らされたが、そこにぐっと来ない程トレイは歳を重ねてはいない。むしろ、何年経ってもそんなジェイドの物言いには心を鷲掴みにされ続ける事だろう。
温野菜にしたスターキャロットと常闇レタスを皿に盛り付けながら、スコーンを形成する指先のひとつにさえ愛おしさが込み上げる。
「……もう少し、収入が安定してから考えるか」
「是非そうしてください。仕込み、終わりました。オーブンに空きはありますか?」
「こっちはもうまもなく焼き上がるよ。こいつを出したらスコーンを入れて昼食にしよう。出かける頃には粗熱も取れるだろ」
こんがりと狐色に染まったパイシートを見下ろして頷く。棚からカトラリーを出し始めたジェイドに続いて、トレイはキッチンカウンターへと昼食を並べた。
「お待たせ致しました、泣き虫のお腹様」
「もう……。いただきます」
カウンターの上で揺れる灯台百合の色彩が、二人の時間を柔らかく包み込む。花弁の部分が先程より開き始めていた。
灯台百合は夕刻の蕾を手折り、翌朝花開く。雄蕊と雌蕊がその際に触れ合い、光を放つ。その光は一日限りの儚いものではあるが、この常闇の国では決して欠かすことのできない光源でもあった。
魔法で光を生成するのは容易い。しかし魔力の使用を控えるのもこの国で長く生き続ける秘訣でもあった。
花の一輪に命を握られている。
そんな風に言えば少し大袈裟かも知れないが、事実その光は生命線と言って遜色ないものだった。
西側の未開拓地である森の奥には、凶暴な魔物が潜んでいるとも聞く。不可侵条約さえ破らなければ、彼らは決してこちら側へはやって来ない。トレイもジェイドも、この国に来て一度たりともその姿を見た事はなかった。
「ああ、そうだ。明後日の分の灯台百合は俺が摘んで来るからな」
「それでしたら僕も」
「お前は納品があるだろ?」
温野菜にマヨネーズとチーズ、アボカドを混ぜ合わせた特性ソースを絡めながら口に運ぶ。アボカドの収穫が少し早すぎたのか、微かな苦味を感じた。
ジェイドの仕事である納品の日は、朝から忙しない。9時にはこの家を出て、戻って来るのは17時を少し過ぎた頃が常だった。往々にして、フロイドに捕まるか否かが戻り時間を決める。
18時になると東の空に浮かぶ青はゆっくりと沈む。そうなると辺りは藍夜原の世界だ。灯台までの距離はおよそ10分程の平坦なものだが、それでも弱まる光源を頼りに歩くのは心許ない。
「帰ってからでも十分間に合います」
「効率が悪いよ。それに、お前は仕事明け。俺は休日。適材適所だ」
コテージパイを半分平らげる頃には、語尾の弱まるジェイドを眺める時間になっていた。
一緒にいたいのだと、言い淀む視線がカウンターの上で踊る。ジェイドにしては随分と下手なダンスだった。
「しかし」
「俺がしたやりたいんだよ。たまにはゆっくり休んでくれ」
「……もう。トレイさんは自分勝手に決めてばかりですね」
やがて観念したのか、ジェイドがカチャリとフォークとナイフを置いた。しかし、物言いにどこか棘がある。
「自分勝手だって?」
「せめて一言相談して頂けませんか? 僕の身体を思っての事とは言え、一人でなんでも決めてしまわれるのはトレイさんの悪い癖です」
二人きりの世界なのだから。
音にはされなかったが、確かにジェイドの瞳がそれを告げていた。
置いて行かれるのが寂しいのだと、灯台百合の光を吸収したオリーブとアンバーの瞳が揺れる。
観念する他ない。
トレイは両手を持ち上げると、マッシュポテトの付着したジェイドの口の端を親指で拭った。
「そう、かもな。けど、お前に何かあってからじゃそっちの方が困るんだよ。二人きりの世界、だろ?」
「ん。……お互い譲れない部分もきちんと話し合えば分かり合えると信じています。明日の件は了承します。ですが、次はきちんと相談してくださいね」
「了解」
約束のキスが頬に降る。
トレイからジェイドへ。ジェイドからトレイへ。
絡まり合った視線はやがて、二人きりの暖かな昼食の味を連れたキスに変わった。
家を出て流れの緩やかな川を左手に進む。時折置かれた石に差し掛かると耳心地の良い音を立てた。
ぴちゃぴちゃ、ぱちゃぱちゃ。
愛らしい音を左に、ジェイドの声音を右に。心なしか、今日のジェイドはお喋りだとトレイは笑った。
ディナーのレシピ、日付を跨ぐ作業になるであろうトレイに提案される夜食のレシピ。食は心を潤す。ジェイドとの会話の大半は食にまつわるものが多い。別段、それ以外の会話がない訳ではないが、話は自然とそちらへ傾倒していた。
二人きりだからこそ、二人が楽しめる娯楽と言えばそんな料理が筆頭に挙げられる。ジェイドの家庭菜園も、そんなレシピに色を添えるべく始められたものだった。太陽の光ひとつ降り注がないこの国では、やはりその辺りも魔法頼りになる。トレイもジェイドも、疲弊しない程度に擬似的な太陽の光を編んだ。
決して急ぐ育成ではない。ゆっくりと、歩くような速度でだって構わなかった。
「……後はシナモンも追加で頼む」
「かしこまりました。卵、牛乳、生クリーム、豚バラブロック、牛もも肉、デミグラスソース、コンソメ、バター、シナモン。後は気になったものを僕が買い付けておきます」
「持てるか?」
「無茶な買い出しでしたら、ラウンジ時代に散々やらされました」
果たして両手で収まるだろうか。防水魔法を施すとは言え、帰り道だって激流に飲まれ続けるような二時間だと聞く。トレイは脳内にダンボールを引く人魚姿のジェイドを思い浮かべると、思わず笑い出していた。
「帰りはゆっくりで良いからな。灯台百合は俺が摘んでおくから」
「……やはり、お待ちいただけませんか?」
「今日はやけに突っかかるな」
「そうではありません。貴方が灯台百合を剪定する姿が、好きなんですよ」
キュンと胸の奥が可愛らしい音を立てた。
ジェイドは時折、もとい、この二人だけの生活が始まってからやけに素直になったように思えた。昔はここまで素直な『好き』を口にしていた記憶が薄い。
こうしてジェイドを少しずつ変えたのが自分だと思うと、妙な優越感が芽生える。トレイはそれを隠すように一歩前を歩くと、ジェイドの手をさりげなく握った。
「一日位我慢しろって。これから飽きる程見せてやるから」
「僕、我儘なもので。全部じゃなきゃ嫌なんですよ」
「貪欲」
「毎日だって飽きたりしません。貴方の全てを、この目に焼き付けていたいんです」
情熱的な言葉と共に、ジェイドのひんやりとした手が僅かに熱を持ったような気がした。トレイはそんな手を離すまいと、ぎゅっと握り締める。愛おしさに、眩暈を起こしそうになっていた。
「けど、明日は我慢、な? 帰ってきたらたっぷり労ってやるから」
「……バスルームでもよろしいですか?」
「明日の買い出し、お前が前に欲しいって言ってたバスキューブも買ってきていいぞ」
「あの天然の蜂蜜を使用したバスキューブ、3粒で6,000マドルしますよ?」
「1回のバスタイムに2,000マドルかぁー。……その分、仕事取って来れるだろ?」
質素なその日暮らし、たまの贅沢。
振り返らずとも、ジェイドが笑っているのを感じる。トレイは「決まりだ」と再びジェイドの手を握り締めると、やがて眼前に浮かび始めた桃色珊瑚の光に目を細めた。
高さ20メートル程の小さな灯台は、今日もその仕事を放棄していた。海域を渡る船は少ない。ともすれば年に一度光るかどうかと言った仕事っぷりだ。
怠惰な灯台の下を、一面の光りが覆う。その百合が灯台百合と呼ばれる所以だった。花開いたものは恐らく、明日を知らずに枯れる。東の空に浮かぶ青を眺める母の色彩は、何を思っているのか。そんなノスタルジックな気分にさせる程には、その光が生命を叫んでいる。
枯れゆく灯台百合は、その光を失う寸前に一粒の涙を落とすとされていた。その涙こそが次の命、次の花になる。
全てを剪定しない限りは永遠にこの光は失われない。植物の永久機関程に神秘的で刹那的なものはないだろう。
トレイはバスケットから剪定用の鋏を取り出すと、まだ蕾の状態を維持した一本を切り落とした。