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    できあがっている王最が喧嘩して、仲直りする話です。
    王馬くんの誕生日祝いとして書きました。
    王最オンリーイベント「やさしい嘘は最後まで5」で無料頒布した小話でした。お手に取ってくださった皆様、どうもありがとうございました。

    白と黒 昔はもっと可愛かったのに。
     そう言ったら、彼はきっと「お互い様だろ!」と怒鳴ってきただろう。王馬はすかさず嘘だねと言い返し、昔のオレを可愛いって思う余裕なんてなかったくせにと、鼻で笑ってみせる。悔しげな最原の出来上がりだ。
     今となっては、そんな面白い最原を作ることは不可能だ。自分一人になったリビングで、王馬は小さくため息をついた。
     喧嘩をすることが初めてであるはずがない。王馬と最原だ。出会ってから今まで、喧嘩を何度も繰り返してきた。手が出たこともあるし、延々と言い合ったこともある。拗れ切ってお互いに目を合わさなくなり「いい加減仲直りをしなさい」と赤松や東条に仲裁されることもあったし、連絡が月単位で来なくなったこともあった。
     いろんな理由で、いろんな形の諍いを起こした。でも高校を卒業して数年経つのに、最原との繋がりは切れてはいない。
     ここまで拗れたのは久しぶりだ。今まではどうやって仲直りしたんだっけと思いながら、王馬はソファーから立ち上がった。喉が渇いたなと思ったのだ。あれだけ言い争いをすれば、流石に何か飲みたくなってくる。
     キッチンにつくと、シンクを通り越して冷蔵庫を開けた。中には、王馬がよく飲むペットボトルは入ってはいなかった。そういえば全て飲み切っていた。炭酸を飲みたい気分だったけれど、買いに行くのも面倒だ。
     水でいいかと思ったとき、目についたものがあった。白い冷蔵庫の中で妙に目立つ黒だ。アイスコーヒー。一リットルが入る容器の中に、黒い液体がなみなみと入っている。最原が作ったものだった。
     最原は変な奴だ。常識がないとは言わないが、時折、指を差して「変な奴!」と叫びたくなる瞬間がある。コーヒー一つをとっても、数年間でストックされた変な奴エピソードがいくつも浮かぶ。
     例えば、最原は王馬に指摘されるまで、インスタントコーヒーを飲んだことがなかった。すごく喉が渇いたと言いつつ、豆を挽き始めたときは、貴族かよと爆笑してしまった。ちなみに、今では普通にインスタントコーヒーも飲む。「すぐ飲めるから便利」と言っていた。タイムスリップしてきた人かよと、思わず突っ込んでしまった。
     水出しアイスコーヒーに出会ったときも、よくわからないが感動していた。飲む前は半信半疑の顔をしていたが、飲んでみたら美味しかったらしく「水を注いだだけなのに」という表情で驚いていた。それから少しの間、タイムスリップしてきた貴族だという設定で最原に接してみたが、憤りつつも恥ずかしそうな様子が堪能できてすごく面白かった。
     そんな彼が気に入っている水出しコーヒーは、冷蔵庫の中で八時間抽出してようやく飲めるようになったのに、当の本人は帰ってしまった。このままだと、数日後には捨てる羽目になりそうだ。あの剣幕では、数週間か下手したら数ヶ月間、最原は王馬の前に姿を現さないかもしれない。
     気まぐれが働いて、王馬はグラスを取りに行った。いつ作ったアイスコーヒーかわからなくなり、飲まずに捨てるぐらいなら、少しだけ飲んであげようかなと思ったのだ。王馬は最原ほどコーヒーが好きでもないけれど、彼に付き合って飲むこともあった。
    「キミも飲む?」と尋ねてくる最原の、薄茶色の瞳の色を思い出しながら、黒い液体がグラスに注がれていく様を、ぼんやりと眺めた。
     本当に、今まではどんな風に仲直りをしていたんだっけ。グラスの半分ほど注いだところで、王馬は手を止めた。香り始めたコーヒーの匂いは、鼻に残る。ホットコーヒーだと、さらに部屋中に充満する。そういう匂いが部屋に混じるのも、別に嫌じゃなかった。好きにすればいいし、好きに過ごせばいいと思って、王馬は自宅に最原を連れて来た。
     高校を卒業して、会う場所がお互いの自宅になったり、行ったことのない場所になったりしながらも、王馬は最原に会いに行った。最原もそうだ。どこに呼び出しても、文句は言うけれど結局来る。高校の頃のような空気の中で話をして、見慣れた表情で王馬を見た。
     変わらないままの最原の手を、王馬は引いてみることにした。そうして、関係は少し変わっていった。水が染みていくようにゆっくりと、着実に。
     グラスを持ち上げて、口をつけた。冷たさの後に感じるのはほのかな苦味だ。だけど嫌になる程のものではなくて、もう一口飲む。飲みやすいと最原が言っていたのは本当で、王馬もこのコーヒーを何度か飲んでいた。
     グラスを置くと、ふと思いついて歩き始める。そういえばあった気がすると開けた扉の先には、買った覚えのない牛乳パックが置かれている。それを持ち上げ、冷蔵庫を閉じた。
     最原が買ってきて、冷やしておいたらしい。自分では飲まないくせに、なんで買ってくるんだろう。賞味期限を見るとまだ余裕がある。コーヒーと牛乳。見ているうちに、ふと以前の記憶が蘇ってきた。
     王馬の部屋に最原がいることにも慣れきった頃の思い出だ。梅雨前線が日本上空で停滞し始め、じめじめとしているくせに湿度の高い日本の夏の、始まりを示すような季節。
     くせ毛の王馬の髪は普段より多めにくるくると丸まるが、最原の髪は湿度など関係なく、いつもまっすぐだ。肌の色に馴染む青みがかった黒髪を揺らしながら、起きたばかりの最原がまずすることが、コーヒーを淹れることだ。
     最原家では朝にコーヒーを飲むらしい。身についた習慣は、朝に弱い人間すら活動的にさせてしまう。いつものように飲むか尋ねてくる声に、王馬は熱いのはいらないと答えたような気がする。蒸し暑かったからだ。最原は少し考えたあと、アイスコーヒーを作り始めた。
     初めて作ったらしい。水の分量を間違え、すごく濃いコーヒーが出来上がった。多分エスプレッソぐらいの苦さだった。にっげーと舌を出して笑っていると、最原が困った顔をしながら牛乳を持ってきた。王馬のグラスにそれを注ぐと「母さんはいつもこうして飲んでるんだ」と説明した。
     二対一ぐらいの割合にすると飲みやすいとか言ってたけどと言いつつ、最原は眉を下げた。今度は牛乳を入れすぎたらしい。その様子に笑ってから飲んでみると、コーヒーはまろやかになっていて、美味しかった。オレもこれ好きと言って顔を見ると、安心したような表情を浮かべた後に「そっか」と呟いて笑った。
     それ以来、王馬の家の冷蔵庫には、梅雨が始まる頃からアイスコーヒーが常備されるようになった。そしてその隣に、買った覚えのない牛乳パックが時折置かれている。牛乳を入れたコーヒーならば、王馬がよく飲むからだ。
     封を開けた牛乳パックを傾け、一瞬で混じり合う白と黒の混濁を眺める。この飲み方をするたびに、そろそろ夏が来るんだなと感じる。それほどの期間を、最原と一緒に過ごしているということだ。
     よく冷えていて美味しい。そう思いながら、王馬は頭の隅でずっと考えていたことに対する結論を出した。
     仲直りなんて、そもそもしたことがなかった。王馬が最原に謝ったことなんてないし、逆もそうだ。気がつけば元通りになっていた。
     言葉にして明確にする。そういうことを、王馬はあえてしない。言葉はツールだ。どうにだって弄れるし、操作できる。言葉のもつ力を十分に理解し使いこなしておきながらも、誰よりも信頼していないのが王馬なのかもしれない。
     そういうスタンスを、最原もおそらくは理解している。王馬が信憑性のないことを言うたびに「嘘だろ」と彼が言うのを、今までに何百回と聞いてきた。その瞳に呆れと、少しの寂しさをのぞかせながら、最原は諦めたようにため息をつく。
     お互い以外に見せない表情を向け合う関係になってからも、最原は詮索をしてこなかった。「何をしているの」とか「どこに行くの」という、気づけば口から溢れ出そうになる言葉を、彼は幾度となく飲み込んでいた。聞いても無駄だ。そして、詮索されることを好まない。そういう王馬を、最原は本質的な部分で理解していた。境界線を見極めることが、異常なほどに得意な人間だからだ。
     でも時折、最原はその線を乗り越えようとした。看過できない秘密や不満が溜まり切った頃、最原は口を開く。心のどこかでは諦めながらも、王馬に真意を尋ねてくる。もしかしたらという気持ちは、人に軽はずみな行動をとらせるということを、職業柄よく知っているはずなのに。
     今キミは何をしているの。危ないことはしないで。いつも通り、でも普段よりも真剣な表情と硬い声色で、最原は王馬に言葉を投げかけた。王馬は取り合わなかった。いつものように嘘を吐いて、質問には答えない王馬を見て、最原は傷ついた顔をした。
     それでも彼が諦めず、言い争いをするまで返答を待ったのは、今回王馬が動いている件について何か掴んでいることがあったからだろう。何かを知った上で、放っておけないと思った。だから珍しく、王馬の事情に踏み込んできた。
     長い言い争いの末、王馬は結局何も言わなかった。最原は「もういい」と言うと、部屋から出ていった。ドアが閉まる音を聞きながら、王馬は表情を消した彼の白い顔を思い出していた。つくづく卑怯な顔だ。感情を消すと、元々の顔の造りが怖いぐらいに際立って見える。
     普段怒らない人間を怒らせると厄介だと聞いたことがあるけれど、最原もそういう類の人間だ。普段から怒らないわけではないけれど、心の底から怒ったときは、彼の心の中で何かがぷつんと途切れたときだ。生来のお人好しで気性の穏やかな彼が、もういい、知らないと、相手を切り捨てる。よほど腹に据えかねることがあったのだと、普通なら思うだろう。
     アイスコーヒーの入ったグラスをシンクに置く。美味しかったし、もうあと一口で飲み干せる量だ。それなのに、なぜか気が向かなかった。コーヒーの苦味が喉にこびりついたような気がして、もういらないと思った。
     窓の外では雨が降っている。今年も梅雨はゆったりと長く続いていて、毎日じめじめと蒸し暑い。窓の外で降り落ちる雨の粒を眺めながら、王馬はリビングを通過していく。
     最原の定位置になりつつあるソファーの前を通り過ぎるとき、彼が忘れていった小説が目に入った。しおりの位置から推測すると、あともう少しで犯人が明らかになる終盤まで読み進めていそうだ。しかし残念ながら、謎解きはお預けだ。この部屋に最原が戻って来るのは、しばらく先のことになるだろう。
     寝室のドアを開けながら考える。最原はあれで頑固なところもあるし、コミュニケーションを厭う内向的な一面もある。あそこまで感情を露わにして怒ってきたのだから、溜まっていた不満も全て吐き出したはずだ。性格上、しばらくは王馬の顔を見られないし、見たくもないだろう。
     ベッドに横たわる。枕もブランケットも二つあって、見ているうちにうんざりした。最原の物が増えた王馬の家と同じように、最原の家も王馬の物が増えて、着替えやら消耗品が常備されているような状況だ。
     そういえば、携帯ゲーム機を最原の家に置きっぱなしにしていたことと思い出し、最原の小説のことを揶揄できないなと思った。ゲーム機の中に入れっぱなしのソフトは、もう少しでクリアできそうなところまで来ていた。最原と同じくしばらくお預けだ。つまらなく思いながらも、王馬はごろっと寝返りを打った。
     開けた覚えのないカーテンが開いている。最原が開けたのだろう。白いカーテン越しに、先ほどより大きくなった雨粒が窓を叩き、濡らしているのが見えた。最原は今頃びしょ濡れだろう。傘を持って出ていったようには見えなかったし、ここを出ていった彼が自宅に到着するにはまだ早い時間だ。
     まぁでも、子どもじゃないし、どこかで雨宿りするなり傘を買うなりしているだろう。そう思ってから、目を閉じた。眠気は感じない。だけど雨だから、どこかに行く気にはなれないし、ゲーム機もない。さらに言うなら、揶揄って遊べる最原もいなくなってしまった。こういうときは寝てしまうに限る。
     つらつらと考え事をした。まとまりも法則性もなく、思ったままに思考を巡らせる。組織のこと、今している仕事の内容、ふと思い出したニュースやゲーム、雑誌の内容。先ほど聞いた最原の言葉、感情を振り落とした、能面みたいな表情を思い出す。
     すっげー怒ってたなと思いつつ、王馬は薄く目を開けた。目前に、昨晩最原が潜り込んでいたブランケットが見えた。それを少しでも持ち上げれば、青みがかった黒髪が出てきそうな気さえする。最原が今ここにいないということに、変な違和感があった。
     王馬と最原は仲直りをしない。ほとぼりが冷めた頃に、何もなかったように顔を合わせて、お互いに仕方ないなと感情を飲み込むのだ。そうするしかない。切り捨てることも、関係を断ち切ることも、できなかったからずっと一緒にいた。
     嫌いになれた方が、お互い、色んな面倒がなくて楽だったのかもしれない。
     次に最原を見るのは、どれぐらい先だろう。一週間、一ヶ月、半年——一年? それとも、もっと先だろうか。アイスコーヒーは賞味期限切れになり、最原はソファーの上の小説のことを忘れてしまうだろう。王馬は新しく携帯ゲーム機を買うかもしれないし、冷蔵庫の中に買った覚えのない牛乳パックが入っていることも起きない。
     もしかしたら、次はもうないのかもしれない。今までそうだったからといって、今回もそうとは限らない。なんの保証もないし、約束もない。王馬は謝る気なんてないし、それは最原だってそうだろう。
     きっと、このままだって王馬は生きていける。組織の活動は順調だ。やることや興味のあることだって、山ほどある。自分らしい人生を、面白おかしく過ごしていくだけだ。ただ、そこには最原がいない。少しばかりつまらなくなった、元通りの世界だ。
     瞼を閉じる。二度寝なんて最原みたいだ。浅い眠りに落ちていくのを感じながら、王馬は思考を手放した。
     なんでいつも、僕には何も教えてくれないんだよ。
     喧嘩の最後に呟いた最原の言葉が、耳の奥で微かに聞こえた気がした。
     
     眠りにつきながらも、王馬は頭の中で考えを巡らせていた。
     そうする中でつくづく感じたのは、他人と暮らすということは面倒が多いということだ。例えば、空調の温度一つとってもそうだ。王馬は暑がりで最原は寒がりだから、夏も冬もエアコンの設定温度で揉める。
     寒がりではあるものの、最原は暑さにもしっかりと弱い。しかし、エアコンで冷えた部屋で長時間過ごすと、微妙に体調を崩すという面倒臭い体質でもあったりする。だから夏の本番が目前の六月の夜なんかは、エアコンを切って窓を開けて寝ることもあった。
     開けた窓から雨音が聞こえると、最原は少し表情を緩ませた。彼は雨が嫌いではないらしい。むしろ子どもの頃は、雨が降ると喜んでいたのだそうだ。その理由は、あの手この手を使って白状させた。「雨だと、両親が家にいることが多い気がしたから」と、最原は渋々答えた。
     多忙な両親と、雨によって隔絶されたように感じる自宅の中で、一緒に過ごした経験があったのだそうだ。なかなか家族全員が集まることは少なかったから、嬉しかった。彼は恥ずかしそうにしつつも、そう説明した。
     湿気でくねる王馬の髪を触るのも好きなようだった。「いつもより曲がってる」と笑って、一筋掴み上げる。指の先に見える瞳は柔らかく綻んで、王馬だけをじっと見つめていた。可愛いとか言ってきそうな雰囲気だったが、最原は黙っていた。数年間に渡る交流で、王馬の逆鱗を知り尽くしているのだ。
     しっとりと湿る空気の中、眠くなるまで話をしながら、少し熱く感じる体に触れた。触るたびに体を硬くしていた最原は、もうここ数年は見た覚えがない。慣れたわけではないようだけれど、自分の体に触れたのが王馬だとわかると、身体からふっと力を抜く。意味がわからない。王馬が触っているのに、気を抜くなんて馬鹿みたいだ。
     名前を呼ぶ声。触れ返してくる手のひらの感触。薄闇の中で見える瞳はいつもよりも濃い色をしていて、王馬が何か言うたびに形を変えた。そのうちに、眠気に負けて閉じ始める瞼を指先で引っ張るようにしながら「オレより先に寝ちゃダメ」と命令した。嫌そうにしながら目を開ける、最原の顔を見るのが好きだった。
     まぁでも、それもしばらく見られないけれど。
     そう思いながら、王馬は目を開けた。少し寝てしまっていたようだ。体を起こしながら周りを眺める。少しずつ鮮明に見え始める寝室の風景の中に、見慣れた黒が混じっていた。
     軽く目を見開いて、まばたきをする。気配に気づいたのか此方を振り返る、薄茶の瞳には王馬の姿が映っていた。
     ベッドの端に最原がいた。無表情のまま、王馬を見つめている。それを確信した瞬間、思わず口を開いてしまった。
    「……オレ、一週間ぐらい寝てたの?」
    「……寝ぼけてる?」
     最短でも一週間というのが、王馬の推測だった。それぐらい最原は怒っていたから、二度寝から起きたら帰ってきているはずがない。
    「……お早いお帰りじゃん、最原ちゃん」
     煽るようなことを言ってしまうのは、性分なので仕方がない。言葉にしてしまってから、最原はまた怒って帰ってしまうかなと思った。別にそうさせたいわけではなかったけれど、最原を見るとつい揶揄ってしまう。
     案の定、最原は眉を歪ませた。表情から、最原の体の中ではまだ怒りが渦巻いているのが見て取れる。頑固だし、生真面目だ。そんな彼の頭が冷えるのも、怒りよりも大きくなっていく感情に耐えられなくなるのも、もう少し時間がかかるはずだった。
     どういうわけか、最原の髪は濡れてはいなかった。急に降り出した雨に濡らされることもなく、最原はこの家に戻ってきていたようだ。何かの補正とか調整をされているかのように、最原は妙に運がいい。微妙に不運な王馬からすると、少しだけ羨ましくなる。
     手に持っている小説は、先程までソファーに乗っていたものだ。最原はベッドの縁に座って、今までそれを読んでいたのだろう。王馬が二度寝をしていたから、この家でいつもそうするように時間を過ごしていたのだ。
     馬鹿みたいだと思った。最原も、自分も。王馬は少しうつむくと、目元を手のひらで覆った。気配に気づかずに寝ているなんて、自宅とはいえ気を抜き過ぎている。
    「……帰ってくる気はなかったよ。でも……カレンダーを、見てしまったから」
    「それ、どーいう暗喩ー?」
     よくわからない言葉に、思わず顔を上げて突っ込んでしまった。最原は一層嫌そうな顔をして、王馬から目を逸らした。長いまつ毛を上下させながら、何もないであろう床なんかを熱心に眺めている。
     カレンダー、予定、日付。そう連想したあたりで、王馬は最原の言葉の意図に気づく。
     窓の外では依然として雨が降りしきっている。梅雨の真っ盛りでしかないような天気の今日、日付は——六月二十日。
     ふは、と吐息が漏れた。細い眉をさらに歪ませて、王馬の大好きな表情をする最原が見てとれた。
    「……なに? 明日がオレの誕生日だから帰ってきたんだ。あんなに怒り心頭だったのに」
    「うるさいな……。なんで人を煽るようなことはいくらでも言うくせに、肝心なことは一切話さないんだよ」
     悔しさの滲む声色を、王馬は笑ったまま聞いた。出会った頃よりも低くなった声は、相変わらず王馬の耳の中で凛と響いて、鼓膜を震わせる。顔だけじゃなくて、声も卑怯だ。そう思いながら、ついに体ごと横を向いてしまった最原の背中を、じっと眺めた。
     手を伸ばしても届かない距離にいる。ベッドをダブルに買い替えたのは、何年前のことだっただろう。前のベッドは二人で眠るには少し狭く、何度か最原が床に落ちた。
     そのほとんどが、揶揄ったり虐めたりしているうちに、最原が後退りをしたせいだった。彼が自業自得が原因だったけれど「キミのせいだ」と怒ってきた。だからその言い訳を言えなくさせてやろうと、大きいベッドに買い替えたのだ。
     その広さが、今はちょっと歯痒かった。仕方なしに、王馬は膝立ちになって、ベッドを揺らしながら移動を始めた。振動を感じて、肩がびくっと震えるのが見えた。その仕草から伝わってきてしまう感情に、王馬は思わず口を開いた。
    「さいはらちゃん」
     背中に触れた手のひらを、最原は拒まなかった。唇の端を上げながら、肌の上に指を滑らせていく。お腹に手を回し、首筋に顔を埋めて、背後から抱きしめた。漂う最原の肌の匂いに、ふっと心が緩むのがわかった。
     体臭とか体温を感じるたびに、心の中で凝り固まった想いが、ほろほろと溶けていく。単純だなと呆れ、言い争いまでしていたのにダメだろとも思うけれど、なんかもういいかと思ってしまう。ここに最原がいて、黙って自分に抱きしめられている。それだけで満足する、短絡的な衝動だ。
     細い首を眺めながら思うのは、なんでこんなに上手くいかないんだろ、という疑問だった。
     人を思い通りに動かすことなんて簡単だ。王馬の得意技でしかない。出会ったばかりの頃や、こういう関係になる前までの最原は、王馬の想定通りに動いたし、思った通りの状況にするのも簡単だった。だからこそ、王馬は最原の手を引いて、彼のことを捕まえた。欲しいと思ったからだ。
     でも少しずつ、上手くいかないことが増えてきた。たくさん想定をして策を練ったのに、それをことごとく外すような反応をしてくる最原によって、予定も計画も台無しにされていく。喧嘩はその最たるものだった。
     普段は無口なくせに喧嘩になると口が立つ探偵は、論理的に王馬のことを責めてくる。言葉の矛盾や撒き散らした嘘を一つ一つ指摘しながら、王馬の心を暴こうとする。
     それが鼻について、気づけば王馬もムキになる。絶対負けたくないという気持ちが働いた時に限って、喧嘩は拗れに拗れ、長く顔を合わせないような時間に繋がっていった。
     思い通りにならない人間なんていらない。そう思えたら、手放してしまえたら、楽だったしこんな屈辱を味わうことはなかった。感情を優先する馬鹿っぽい自分を、知らないままで済んだ。
     小さくため息を吐き出してから、王馬は言った。
    「……ごめん」
     王馬は謝ったことがない。口先だけの謝罪ではなくて、本心から悪いと思って謝罪したことがないという意味だ。
     だから今の言葉は、もうあと十年は言いたくない。やっぱり不本意だ。非は認めるのではなく、認めさせるものだ。その方が気分がいいし、性に合っている。
     でも、あんなに怒っていたのに王馬の誕生日に気付いて帰ってきた最原を見た瞬間に、そういうスタンスや心情が、どうでも良いものになってしまった。
     それはきっと、最原も同じだったのだろう。そうでなければ、王馬に触れられるのを拒んだはずだ。彼の体温を前に思考を停止した王馬みたいに、最原もまた同じ感情に支配された結果、今ここで大人しくしている。
     しばらく黙ったのちに、微かな震えを感じる声で、最原はぽつりと言った。
    「……キミが謝るなんて。だから土砂降りになるんだよ」
     憎まれ口だ。やっぱり、昔の最原の方が可愛かった。王馬の一挙一動で心を揺さぶられて、焦っている様子を見るのが楽しかった。
     しかし、うつむいた顔と髪の隙間から覗く耳は、ほのかに赤らんでいた。王馬の角度からは見えない顔に、今浮かんでいる表情を想像しながら、回した手に力を込める。
    「オレのせいじゃないし。雨降ってんのは梅雨のせいだもん。というか、すげー珍しく素直に出戻ってきた、最原ちゃんのせいなんじゃないのー? 無駄な意地はって、オレに会わないように努力する最原ちゃんもつまんなくないけどさ、今日は一体どーしちゃったわけ」
     揶揄い煽って、本心を吐き出させる。常套手段をとりながらも、指で最原の顎を押した。顔が見たいと思ったからだ。悔しそうにしながらも、本心を吐露し始める最原の表情は嫌いじゃない。
     首だけで振り返った最原が、至近距離で王馬を見つめた。思った通りに少し赤く頬を染めて、高校生のときみたいな顔をしている。
    「……キミのためじゃない。僕のためだよ」
     にやにや笑う王馬を見て、嫌そうに口の端を歪める。帰ってきたものの、隠し事ばかりの王馬にまだ怒っているらしい最原が、今言える精一杯の憎まれ口だ。
    「明日一日中、キミの誕生日だなって思いながら一人で過ごすのも……嫌だったから」
     ふっと笑ってから、顎を固定した。逃げられないようにしてから、唇を合わせる。唇をなぞるだけ、それだけのことなのに、ひどく満足をしている自分に王馬は気付いた。
     おそらく今日は、そして明日までは、最原はもうこの部屋から出ていかない。その確信が、心の中を沸き立たせる。何をしてやろう。そして、彼は王馬と何がしたいのだろう。それを探っていくのも、悪くない気がした。
     肩を押す。振り向いた最原をベッドに沈ませて、体の上に乗り上げた。顔の上で乱れた前髪を、瞳の上から払ってやりながら、見上げるその目に視線を返す。唇を横に伸ばしてから、もう一度キスを仕掛けた。
     そのうちに、口に広がる微かな苦味に気がついた。その味は、王馬にあるイメージをもたらしていく。
     この部屋に戻ってきた最原が、王馬と同じように喉の渇きを感じて、冷蔵庫を開ける。そして少し減ったアイスコーヒーの容器を傾け、王馬とは違って牛乳を入れずに飲む。そんな映像が目に浮かぶようだった。
     同じことを思っていたのか、唇を離した最原が口を開いた。ようやく、少しだけ表情が解れてきた。
    「……コーヒー、美味しかった?」
     怒りも穏やかさも感じない平坦な声で、最原はそう尋ねた。シンクに残ったグラスを眺めて、いつもみたいに最原は目元を緩ませたのかもしれない。王馬がコーヒーを飲むたび、彼は何故か嬉しそうにする。
    「牛乳入れたやつなら好き」
     珍しく嘘もなく、王馬は心のそのままを呟いた。そう、とだけ呟く最原の表情は、心なしか柔らかいものに見える。
     自分の好物を、近しい相手が好きでいる様子に、嬉しそうにする。少し子どもっぽくも素直な反応に、残っていた憤りや不満が拭い去られていくのを感じた。単純すぎやしないかと思うけれど、仕方がない。
    「ねぇ、あのアイスコーヒー、ちゃんと全部飲んでいってよね」
     頬に触れた手のひらの感触にくすぐったそうにしながら、最原は頷いた。そうしてやっと、小さく微笑んだ。あの容器の中に入った黒い液体を飲み干すまで、最原は帰らない。先程とは違い、言葉で縛り付け、思い通りにすることができたことに、王馬は満足した。
     顔を寄せる。王馬の背中に回った腕が、引き寄せるようにぎゅっと力を込めた。そうしながらも、最原の表情は少しぎこちない。あれだけ怒った手前、どんな顔をしていればいいのかわからないのだろう。
     揶揄う言葉も、頭の中にはたくさん浮かんできてはいた。でも口にはしないまま、王馬は薄く微笑んだ。
     完璧に嘘をつけばよかったのだと、わかっていた。誤魔化して、形ばかりの安心を与えて、最原の怒りを押さえつければ簡単だ。そうすれば、喧嘩をすることはなかった。
     そうしなかったのは、我ながら気が狂っているとしか思えない感情が由来だったので、王馬はうんざりした。
     嘘を言いたくなかったなんて、どうかしている。
     お互いの体に触れ合いながら、ぽつぽつと話をした。まだ怒りが抜け切ってはいなかったらしく「キミの秘密主義には、心底うんざりする」と最原は言った。「だから、謝ってあげたじゃん。悪の総統に謝ってもらうなんて経験、大金積んでもできないんだからね!」なんて軽口を言った王馬の唇を、軽く噛むようにして口付けてくる。
     視線を向けると、眉を下げながらも睨まれた。気持ちは伝わってくるものの、逆効果な表情でしかない。
     つくづく思う。人を好きになることは厄介だ。そこに伴う感情は、正論や理性をめちゃくちゃに踏み倒して、ちっとも理性的ではない自分の言動をまざまざと示してくる。王馬や、最原のようなタイプの人間にとって、それはかなり屈辱的な状況だ。
     やり返そうと最原の唇を舐めると、薄茶の瞳が揺れる。笑みを深めつつ、王馬は好き勝手に彼に触れた。
     微かに抵抗されるのは、まだ言いたいことがあるからのようだ。表情を歪めながらも、最原は慎重に言葉を紡いだ。
    「でも、秘密にされたのは、僕を蔑ろにするためじゃないってことだけは……なんとなく、わかる」
     そうだろと言って確認をしてこない、ここにきて弱気な様子の最原のことがおかしくなって、王馬は素で笑ってしまった。そうだよと言ってあげない自分のことも、内心でついでに自嘲する。
     混ざり合う感情を飲み込んでいく。切り捨てられない、優先順位の高い感情に呆れ果てながらも、諦めに満ちた瞳を向けて見つめあった。
     きっとこれからも、こんな風なのだろう。いろんな感情を飲み込み、どうしても離れられず一緒にいる。その確信が、苦く甘く、胸の中に落ちてきた。
     雨の檻の中、戻ってきた手のひらは王馬の指に絡みつく。逃げられないようにされてから、王馬は薄く微笑んだ。
    「……口閉じて、最原ちゃん」
     揶揄いに皮肉、罵倒に悪口——嘘だって、今は必要ない。
     素直に言う通りにした最原に満足して、王馬はその口を柔らかく塞いだ。
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