短夜に願う 空の色が濃い青に移り変わる頃。一通りの準備を終えた私は、待ち合わせ場所として指定されていたベンチに座って、一人空を見上げながら待っていた。もう祭りが始まっている時間だけど、街の中心にある会場からそれなりに離れたこの場所だと、夜を合図する虫の声の方がよく聞こえる。
普段と違う格好というのはどうにも落ち着かず、少し身体を捻ったりして、何かおかしいところはないか何度も確認した。浴衣なんていつ以来だろうか。というより、今まで着たことはあったのだろうか。この世界に来る前の思い出について覚えていることは少ないけれど、確かに見覚えのあるこの装いには、密かに憧れを感じていたように思う。着慣れない服装に対する気恥ずかしさと、この後をどう過ごすかという緊張はあるものの、心躍る自分を完全に無視することはできない。
いい加減落ち着かなければと、軽く頭を振った。浮かれ過ぎは良くない。こういう時に限って、何か良くないミスをしそうでいつも嫌なのだ。そうやって一人でそわそわとしていると、じゃり、と土を踏む音が聞こえた気がした。
「すまない。待たせた」
隣から声をかけられ、そちらを向く。聞き慣れた彼の声に安心したのも束の間、その姿を見て、思わず全身が硬直した。私と同じように用意された装いを身に纏ったエグゼさんが、こちらを見下ろしている。シンプルな無地の生地が使われた、留紺色の浴衣。……盲目的な煩いをこの心に抱えているとはいえ、着る人が違えばこんなに魅力的に見えるものなのか、と内心感嘆する。口をきゅっと引き結んで、返事も忘れてしまったまま見つめていると、帽子の陰の下にある瞳が、少し申し訳なさげに伏せたのに気づいた。
「……慣れない服を着るのに手間取ってな。会場の人混みを避ける為にここに来てもらったが、一人で待つのは退屈だっただろう」
ーーーそんなことはないんです。貴方が来るまでの間、私はずっと心が浮き立っていて、退屈に思う暇なんてなかった。
忙しなく跳ねていた胸は少しだけ落ち着きを取り戻していき、熱は穏やかな温かみへと変わっていく。人と話すのは苦手だと言っていた彼の、こういった細やかな気遣いには何度も助けられてきた。すぐにポーチからメモ帳とペンを取り出して、伝えたい言葉を書く。
『気にしないで下さい。お祭りに一緒に行けるのが楽しみだったので、大丈夫です』
ベンチから立ち上がり、そう書いた紙をエグゼさんの前に差し出す。言葉を目で追う彼の表情が、少しの間を置いてから、ふわりと和らいだのが見えた。
「そう言ってもらえると、助かる」
彼に意図が正しく伝わったのを確認して、私は安堵の意を込めて小さく息を吐く。エグゼさんは軽く帽子を被り直すように手を添えた後、改めて私の方に向き直り、手を差し伸べてきた。街と祭りの光は未だ遠いのに、彼の顔を見ようとすると、どうしてか視界の端がきらきら光っているみたいに錯覚する。
「とはいえ、夏の夜は短い。この後は必ず、お前が楽しめる時間にすると約束しよう」
———ああ、もう、私、今どんな顔になってるのかな。変な顔になってないと、いいな。
なんとか頷いて、私はエグゼさんの大きな手に自身の手を乗せた。すると、力を加減しているのかゆっくりと握り返され、そのまま手を引かれて二人で歩き始める形になる。彼より一回り小さい私に歩幅を合わせているのか、間隔を広げることなく隣で歩いてくれている。会場に向かうまでの間、特に言葉を交わすことはなくても、手から伝う温度が心を満たしてくれた。
ちら、と上を見ると、空の端にあった夕陽の橙色は完全に落ちて、夏の夜の濃い青一色になっているのが見えた。ああ、今夜はどうか。どんなに短くたっていいから、この幸福感に浸らせて欲しいと、切実に願うばかりだ。
祭りの囃子が近づいてくるのを聞きながら、私は緩く繋がれた手を柔く握り返した。