2025🐳🎂 底の硬い靴が廊下を蹴る特徴的な足音を耳にして、グラウは自室の椅子から立ち上がると、主人を迎えるために扉の前に控えた。意味もなく息を殺して姿勢を正した眼前で、ドアノブがゆっくりと回る。普段よりも静かにノブが回されたのは、おそらくグラウが既に休んでいる可能性を考えてのことだろう。そういった気遣いを目の当たりにするにつけ、グラウは彼が実に普通の青年であるかのような錯覚を覚えるのだった。
ノブを回すのと同じくらい音もなく開かれた扉の向こうに、タルタリヤが姿を現す。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、まだ起きてたんだね」
静々と礼をして出迎えたグラウが面を上げた先には、目を丸くした顔があった。日付が変わるまで残り四半刻を切った頃だ。入口から目視できる壁掛け時計をちらりと見やって、「寝ていてよかったのに」と告げる声は、今しがた仕事から解放されたばかりであろうに、微塵の疲れも感じさせない。
タルタリヤが脱いだ上着を受け取りながら、預かりの荷物が鎮座するバゲージラックを視線で指し示す。
「ご令妹さまから、お荷物が届いています」
持ち上げるのに支障ない重さだが、グラウの片手では持ちきれない大きさの箱は、特筆すべき項目は何もなく、簡素な船便用の梱包がなされている。
それは昼間にエカテリーナから預かったものだった。タルタリヤの戻りが遅くなることを知った彼女から、渡しておいてもらえないかと頼まれて引き受けた。「間に合わなくなるといけませんから」と言い添えられたその中身をグラウは知らないが、差出人の名前は主人の妹のものだ。筆跡は幾度か見たことのある、年頃の少女らしい丁寧さで、グラウの記憶にもしっかりと刻まれていた。
主人が故郷に向けて手紙を出すとき、宛名は常にこの筆まめな妹であった。その彼女が、なるべく早く兄の手に渡るようにと依頼して出した荷物であれば、責任をもって手渡さなければと、グラウは気を張ってタルタリヤの帰りを待っていた。
「ありがとう。それで起きていたのかい?」
「いえ、この時間は、いつも起きています」
「それなら、いいけど」
グラウの身体が一般的な人間ほどには睡眠を必要としないことを、タルタリヤはまだ知らない。よほど体力を消耗しなければ、四日程度は不眠でも稼働できた前例があるが、今する話でもないだろうと黙って主人の気遣いに目礼した。
タルタリヤは、外した手袋をソファの背へ放ると、荷物を手にベッドの端へ腰かける。彼の最愛の家族からの荷を解く時間を邪魔するのも気が引けて、自室へ戻ろうかと扉のほうへ意識を向けたところで、タルタリヤが手招きしたので、グラウは大人しく歩み寄った。ぽんぽんとベッドを叩く仕草を見せられては座らざるを得ず、隣へ遠慮がちに浅く腰掛けた。
包みを開く横顔を盗み見る。手紙に落とす眼差しは穏やかで、強敵を前にした苛烈さも、顔なじみに相対するときの軽薄さも感じられない。彼は手紙の文字に目を走らせながら、中身の詰まったガラス瓶を取り出して掲げて見せた。細長く切られた食材が、中に満ちた液体とともに揺れて音を立てる。
「今年に漬けたやつだって」
「……ピクルス?」
「そ。夏に採れた野菜を沸騰させた液に漬けて保存するんだ。そのまま食べても美味しいけど、俺はオムレツに入れるのが好きかな。今度作ってあげるよ」
「本当ですか?」
瓶とタルタリヤを見比べて「楽しみです」と答えた声が、思いのほか期待がこもった響きになったことを内心で恥じつつも、満足そうに笑う主人に浮ついた気持ちは消えない。色鮮やかな野菜が、まるで冬国の短い夏を閉じ込めたように美しく見えたからだろうか。
存外に深さのある外箱から次に出てきたのは、白地に藍色で模様が描かれた缶だった。上面には内容物をあらわす文字や絵柄がなく、グラウには中身が何なのか見当もつかなかったが、タルタリヤにとっては見知った品らしく、外装を見るなり破顔した。
片手で器用に蓋を開けると、中から焼き菓子を摘み上げる。ビスケットのようなきつね色の菓子に糖蜜がところどころ結晶のように白く浮いて、全体を薄っすらと覆っている。
「糖蜜菓子って知ってる?」
「似たものならば」
「へえ、これとは何か違うのかい?」
「もっと表面が滑らかなものを以前見たことがあります。これはグレイズの模様が、霜が降りたみたいで綺麗ですね」
「霜か。いい表現だね」
珍しい砂糖衣の質感をまじまじと観察する。砂糖の種類が違うのだろうか。もしくは焼き菓子の温度か。同じ大陸でも、国によって似て非なる料理があることは興味深かったし、簡素でありながら美しいその菓子にグラウは純粋に見入った。
「口開けて」
菓子から視線を上げると、タルタリヤがこちらに向かって「あ」と口を開ける仕草をして見せた。あまり凝視していたから、食べたがっていると勘違いされたのだろうか。グラウは僅かの恥ずかしさを覚えたが、主人の好意を無下にもできず、倣って大人しく口を開いた。すぐさま菓子が放り込まれる。
手袋に覆われていないタルタリヤの手は存外細く、しかし節がしっかりとしているのがよく見える。素肌の指先が、微かに下唇を掠めて行ったことに、胸がざわつく感覚を覚えた。
菓子は、長い指に摘まれていたせいで小さく見えたが、一口大とは言えグラウの口にはやや大きく、噛み砕くために手で口元を押さえる。タルタリヤがそういったことを余り気にしない性格なのは承知しているが、もごもごと口の中で食べ物を持て余すというのは、グラウにとっては行儀が悪くみっともないことに思われたため、真剣に、そして慎重に焼き菓子を咀嚼した。
糖蜜の甘さと、ほろほろと口の中でほどけるような食感、微かに香るスパイスと蜂蜜に、ほっと肩の力が抜ける。隣でタルタリヤも同様に口に入れた菓子を咀嚼する音が、深夜の室内で軽やかに響いた。
グラウが一口の焼き菓子を噛み締めている間に、早々に二つ食べ終わった彼は缶を閉じて、更に箱の中身をあらためていた。
「これは……テウセルだな」
込み上げる笑みを隠しもせずに、両の手のひらに収まるほどの大きさのぬいぐるみを持ち上げる。綿の詰まった柔らかなフォルムは愛らしいが、それが何を模したものなのか、グラウには四足獣らしいということしか分からなかった。
「随分と色々入っていますね」
タルタリヤが家族へ宛てて手紙を出す際には、山ほどの土産を同梱しているのを何度も目にしたが、彼の家族からの返信は主にその礼や近況を知らせる手紙のみで──いつ任務地を移動するとも知れない彼の荷物を増やすことがないよう配慮されているのだろうとは、容易に想像できた──これほどたくさんの品物が入っているのは見たことがない。
グラウが言外に何かあるのかと尋ねれば、タルタリヤは何ということはない調子で言った。
「俺の誕生日だから、そのプレゼントだよ」
あまりの他愛のなさにグラウは驚き入って声も出なかった。 以前「随行員たちとの賭けに勝ったんだ」と天枢肉サービス券をグラウに差し出してきたときとほぼ同じ声音だった。今この人は誕生日と言ったか。今日がその日だというのだろうか。慌てて壁掛けの時計を振り返る。振り子が規則正しく揺れる豪奢なそれは、残り数分で日付が変わることを示していた。
「お誕生日は、今日……ですか?」
「うん、今日」
「あの……おめでとうございます……」
絞り出すように、せめてと祝いの言葉を口にすれば、可笑しそうな笑い声が上がった。笑いごとではないというのにと恨めしく思う気持ちと、タルタリヤにとっては誕生日というのは然して特別でもないのだろうかという疑問が湧く。
歴代の主人たちの誕生日を祝った記憶はあまりなかった。家族と過ごす者が大半だったし、貴族や商会のお偉方であれば、記念日に合わせて会食の場を設けることも多く、そうなればグラウの出番はなく──接待の役目を振られることはあったものの稀だった──、ついぞ誕生日を知らないままだった主人も少なくはない。今さらそれを寂しいとは感じないが、折角知った今代の主人の誕生日であれば、祝いの気持ちを形にしたいとは思ってしまう。
彼の喜ぶことは何かと思案する。真っ先に思い浮かぶのは戦いだが、戦闘狂とさえ評されるこの青年が望むレベルにまでグラウの実力が達していないので、差し出がましい提案は脳内ですぐに却下された。
他には? 何でも器用にこなす彼に振舞うに足るかは一先ず置いておいて、料理を作るくらいはグラウにもできるようになった。食べたいものがないか訊いてみようか。そんなことを考えながらも、タルタリヤの手の中にある家族からの温もりが満ちた箱を視界に入れると、自分の考えが酷く無粋な気になった。
彼がいかに家族を大切に思っているかは、側にいれば自ずと分かることだった。折角の記念日、そのほとんどを仕事に費やした彼の、ささやかでこの上ない喜びの時間が今なのではないか。台無しにするような真似はしたくない。仕事で疲れているだろうし、そもそも彼が自分に何かを求めているとも思えない。誕生日を祝いたい、というのは、あくまでグラウの気持ちであって、タルタリヤはそんなことを望んでいないかもしれない。「ぼくに何かしてほしいことはありませんか」なんて、思い上がりも甚だしい言葉を口にする勇気はなかった。
急激に萎んでいく気分と、冷静さを取り戻した思考は、しきりにグラウに退室するよう促している。事実それが最善のように思われた。らしくもない、分不相応なことをすべきではない。日付が変わらないうちに、家族からの贈り物を手渡すことができただけでも、自分にしては上出来だろう。
グラウは静かに立ち上がると、タルタリヤに向き直って一礼した。
「本当に、おめでとうございます。公子さまのお誕生日を、こうしてお側で迎えられたこと、心から嬉しく思います」
「ちょっと大袈裟じゃない? まるでどこかの王様の即位式にでも参列して祝辞を述べているみたいだ」
揶揄うような口振りだったが、グラウは真っすぐにタルタリヤを見つめて微笑んだ。出過ぎた真似は控えたいが、この真心を伝えるくらいは許されたい。
「ぼくにとっては、そのくらい光栄で喜ばしいことです」
タルタリヤが僅かに目を瞠る。身軽な彼には煩わしい、重たい感情だと思われたかもしれない。グラウは居た堪れなさから、そそくさと後ずさってタルタリヤから距離を取った。一刻も早く、この場を立ち去りたい気持ちだった。
「では、ぼくはこれで失礼します」
「えっ……寝るの?」
「はい」
「ちょっと、」
これ以上、大切な日を邪魔することも、彼の時間を浪費することも、本意ではなかった。何より今更になって、主人への誕生日の贈り物である菓子をねだったこと──グラウにその気はなかったが結果としてそのような形になったこと──が恥ずかしくて堪らない。
「公子さまも、お身体に障りのないよう早めにお休みください」
駄目押しに告げて、主人からの「おやすみ」を待つグラウに、タルタリヤは荷物をサイドチェストに乗せて身を乗り出した。
「本気で言ってる?」
その声は、どこか拗ねたような響きを帯びて幼く、思わずどきりとする。そんな風に見上げられると、何かを求められているのではないかと期待してしまうのでやめてほしい。
「それは、どういう意味で……」
恐る恐る尋ねるグラウの腕を、大きな手が緩く掴む。親指がするりと橈骨をなぞった。グラウよりも体温の高い手のひらから、熱が流れ込んできて病を得たような錯覚に襲われる。彼からの就寝の挨拶など待たずに、部屋に戻ってしまえば良かった。けれど心のどこかで、もう少し側にいたいと願わなかったわけではない。そんな浅ましい欲を自覚した時点で、ここから逃げ出す隙など失われてしまっていた。
深海の瞳が悪戯っぽく弧を描いて、見透かされた身体が強張る。
手首の内側にひとつ軽い口づけを落とされたら、あとはもう彼の言いなりだ。