アンジャッシュ! 卜部兄弟「……って感じでさ、銭湯で会ったときに名乗るの忘れたから後で卜部さんに挨拶にいったんだよな」
眉をハの字にして笑ういさなの失敗談に姉が軽やかにほほ笑む。自分よりよほどしっかりしてるのにたまに抜けているところのある弟。本人はそれを恥じているようだが、姉であるいおりからすればそんなものは「可愛げ」だ。
(可愛げだけなら問題だけど、そういうわけでもないしね)
軽く肩をすくめて姉は「それにしても」と話題を転がす。
「卜部さんが番頭さんなんて初めて知ったわ。前に少し話す機会があったんだけどその時は本業のことは話さなかったから。そうそう、あの人スーツがオシャレなの。千鳥格子で」
「そうなのか? へぇ……」
感心したようにいさなが軽く目を見張る。
さて、ここで2人は一つ思い違いをしている。実はいおりが話しているのは同じ「卜部さん」でも卜部兄弟の兄のほう、卜部類である。一方でいさなが話しているのは侍課でその名を知られる卜乃湯を切り盛りする卜部泉。
姉弟はまさか卜部姓が二人いるとは知らないし、いさなは基本的に卜部泉の本業での姿しか、いおりは卜部類の侍課での姿しか知らない。
そういうわけで食い違ったまま二人の会話が奇妙なほど順調に進んでいた。
「卜部さん、体格が良くて凄いよね、背も高いし」
「ああうん、実際デカかった。身体もぶ厚くてさ。侍課はデカい人多いけど姉貴より背の高い人見るの久々で一瞬ビビっちゃってさ」
実際、番台の泉を見ていさなは一瞬言葉を失った。あんまり良くない反応だったかな、と反省する弟に苦笑していおりは同意する。
「実は私も最初に卜部さんの前に立った時ちょっと緊張しちゃったというか」
「姉貴が?」
いさなが眉を上げてからかうような声色になる。おっとりした南戸いおりはその実かなり無邪気で、時折人の話を無視する傍若無人さがあり、人見知りもほとんどしない。風か雲のような姉が珍しい、と弟が言外に言うと隣に座った女は困ったようにくちびるをまごつかせた。
「うぅ~ん、その、なんというか、すごい色っぽいというか、生々しい色気のある人だな、と思って、そういう人と会うの初めてだったから」
弱ったような顔になったいおりが声を潜めて苦笑した。
姉の言葉に弟はポカンとして卜乃湯の卜部泉の顔を思い浮かべる。「生々しい色気、なるほど……?」と首をかしげて一応の納得を示して見せる。
(色気、まあ、うん、なるほどな? ストイックな感じに色気を見出す人もいるか)
そのあたりは人それぞれだ。
「でもそれはそうと姉貴、表現。外ではあんま良くないぞ」
「う……それはそうね」
しかし何はともあれ、いおりが語るのは泉ではなく兄・類のほうである。しかしその勘違いが訂正されないまま話が進む。
「あ、でもしらばく喋ったら緊張してたのも平気になったよ」
そう言ったいおりいわく、なにやら「卜部さん」は自分たち姉弟が世話になっている人たちの友人でもあるらしい。それを聞きながらいさなが姉を先導する。
「んでさ、あっちの鍛錬場でいま卜部さんが模擬戦やってるらしいんだよ」
「へぇ……!」
いおりが声を弾ませる。卜部類といわず、侍班の面々が戦う様は見ておきたい。傷を負ってなお戦場に立つ身としてもはや戦うことには金を稼ぐ以上の意味がある。
鍛錬場はにぎわっているらしかった。中からわぁわぁと歓声が聞こえる。
「いけーそこだッ! そこッ!」
「卜部ー差せ---!!!」
もはや歓声というより野次である。南戸姉弟はぽかんとして互いの顔を見合わせた。
「……賭けでもやってないとありえない盛り上がりじゃない?」
「何事……あッ、ほら、卜部さんだ!」
ギャラリーを押しのけて鍛錬場に入ったいさなが中央を指さして声を弾ませた。人だかりの中からそれを覗いたいおりはそこに見知った「先輩」兼「常連客」の顔と、全く知らない体格の良い眼鏡の男の顔を見て素っ頓狂な声を上げた。
「あの人、全然知らない卜部さんなんだけど?!」
「えッ?!」
結局、周囲にいたギャラリー衆……侍班の年上たちの話をすり合わせると、どうやら侍班に少なくとも卜部姓は二人いるらしかった。二人が兄弟で、泉の方が弟、とのこと。
とんだ勘違いをしていたことに紅潮した頬を抑えてひとしきり笑ったいおりは眉をハの字にして苦笑した。
「……とりあえず私、また類さんと話してみるわ」