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    yugayuga666

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    yugayuga666

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    【小説】憧憬/さとあす
    テキストver.です。

    画像ver.
    https://poipiku.com/7817908/90

    憧憬「最近、すっかり暑くなりましたね。明日ノ宮先生」
     そう言ってぐい、と向かいのソファで麦茶を飲み干す彼の額には確かに、大粒の汗が滲んでいた。
    「そうか、もうそんな季節か」
     正直、小説家という仕事柄、この家から殆ど外へ出ない私にとっては、季節など些末な問題であった。常に空調の効いた室内の温度は一定に保たれ、私から四季という概念を奪って久しい。それでも、彼が──佐藤入間が私の担当編集となってからは、彼の運んでくる風が、言葉が、全てが──鮮やかな世界を見せてくれた。
     それが、私は、嫌いではなかった。



    「そういえば先生、ポストにこんなチラシが」
     傍らへ鞄や上着を置くのも早々に、一枚のいかにもといった光沢紙を机上へ差し出す。他人の郵便物など放っておけばよいものを、と初めは煩わしく思っていたが、付き合いが長くなるにつれ不要なDMの類は勝手に処理してくれていたり、興味を唆る様なものはこうして話題にあげてくれたりと、今では寧ろ有り難い。そんな彼のお眼鏡に叶ったらしい紙きれを覗き込む。それは、色とりどりの花火を背に目がチカチカする配色のゴシック体で『納涼祭』と書かれた、この辺りの自治体が執り行っている夏祭りの知らせだった。
    「お祭りってわくわくしますよね! あ、と言っても僕はどちらかというと主催側というか、屋台で働いてたことしかないんですけど……」
     どうやら彼は祭りに対して強い憧れがあるようで、やれ焼きそばが食べたいだの、りんご飴が食べたいだの……食べ物の話ばかりではあるが、とにかく楽しみで仕方がないという様子で捲し立てる。まるで幼子の様に目を輝かせて。……まったく、しょうがない。斯く言う私も、チラシの中央にこれでもかと目立つように書かれた言葉に釘付けであった。
     ──花火大会。
     所詮小さな自治体の行う花火大会ということもあり小規模なものではあるようだが、二千発の花が夜空へ咲き乱れる様は実に見事であろう。しかし、普段はそういう催しには多少興味はあれど、能動的に赴こうなどとは思わない。わざわざ忌まわしい人混みへと繰り出すなど御免だ。それなのに。炎の花を、そのこぼれそうな瞳に映す様を見てみたい、と思った。
    「では、行こうか。……納涼祭」
     なんの気無しに口にしてから、はたと気付く。これではまるで逢瀬の誘いのようではないか。慌てて、しかし努めて冷静に彼を見やれば、案の定。軽く見開いた目をぱちぱちと瞬かせている。どうしたものか……。徐々に耳が熱を持つのを感じ、組んだ腕に力がこもる。弁明しようにも、それでは寧ろ意識していると言うようなもの。はやく、はやく何か言ってくれ。落ち着かず逸した目線の先で、握られた彼の手がスーツに皺をつくっていた。それから、少しの静寂の後、えっと、と遠慮がちに口が開かれた。
    「僕と先生で、ってこと、ですよね」
     じわり、首から脂汗が流れるのを感じながら、ああ、と至極尋常だという顔で頷く。その実、煩く跳ねる心臓が痛いほど耳について、この部屋中にこだましているのではと錯覚する程であった。誤魔化すように押し上げた眼鏡に爪が当たり、かちゃ、と軽い金属音が響く。それだけでまた汗が滲む。……その確認は、二人では嫌だという意思表示か、はたまた。淡い期待が胸をよぎる。思えば今まで、彼に提案を拒否されたことなどないのではないか。常にニコニコとした顔でこちらの要求の全てを受け入れ、どんな無理難題でも拾うこの男に、幾度も驚かされたものだ。そうとなれば、此度も──。
    「あのっ、すみません! せっかくのお誘いですけど、今回は遠慮させていただきます」
    「……は?」
     予想外、だった。いや、別に、絶対に断られないという自信があった訳ではないが、先の様に、彼が私を否定したことが珍しく、少し動揺しただけであって。しかし、何故。先程まであんなにも祭りへの憧憬を顕にしていたというのに。理由を促す様にちら、と瞳を合わせると、普段より緩やかに弧を描く眦をさらに下げ、
    「えっと、多分……ですけど、僕が行きたがっていたので、気を遣ってくれたんですよね。だとしたら、申し訳ないので」
     と、頬を掻いた。意味が分からない。私の我儘にはどこまでも付き合うくせに、自らの欲に他人を、あまつさえ私を巻き込むことを是としないというのか。
    「う、自惚れるのも大概にしたまえ。あくまで取材の為に出向こうというのであって、決して祭りを楽しみたい、という意味はない。ましてや、キミの為にわざわざ私まで人で溢れ返る中へ行きたいと思うなど、有り得るハズがないだろう。取材……つまりは仕事の為に仕方なく、だ」
     そう、取材という大義名分があれば、断る義理もないであろう。だから。
    「そう、ですよね。それなら尚更、一緒に行く訳にはいきません。先生はご自宅でゆっくりしていてください」
     仕事、という言葉を聞いてか、背筋を正し真っ直ぐな眼差しでそう告げる彼に、もうこれ以上の説得は無駄だ、と感じた。こうなったら梃子でも動かないことは、知っている。落胆──したと、認めるのは癪だが、溜息が不意に零れ、それを悟られまいと鼻で笑いながら「そうか、ならそうさせてもらおう」と返せば、向かいではチラシを一瞥した彼が何やら、妙に決意のこもった顔で頷いていた。
     その後はいつものように私の原稿を丁寧に確認し、流石だの今回も面白いだのと求めてもいない称賛をつらつら述べ、用意した茶菓子を随分と幸せそうに平らげたのち、慌ただしく次の仕事へと向かっていった。その間も机上にはあのチラシが主張していたが、互いにもう触れることもなく、はたはたと時折空調に揺られていた。

     最後まで、キミと一緒に花火が見たい、とは言えなかった。



     四角く切り取られた空はますます青く高くなり、蝉と小学生が其処らで好き勝手に喚き合うようになった頃。私はといえば、相も変らず空調の効いた室内で液晶と熱く見つめ合っていた。……否、実際は彼──佐藤くんとの打ち合わせの為にスイーツを買いに街へ繰り出したりもした。が、あまりの暑さに打ちのめされること幾数回。流石に本業に支障を来す訳にもいかず、最近は通販を利用し始めた。そういえば、とメールを確認すると、数分前に宅配ボックスへ配達が完了した旨が届いている。
    (執筆も行き詰まっていたところだ。休憩がてら、荷物を取りに行くとするか……)
     とっくの前から一文字も増えていない原稿を閉じ、凝り固まった背中をぐいと伸ばして立ち上がる。
     ──筆の進まない原因は分かっていた。
     作業机の横に積まれた雑誌の束の上、今朝から何度も捨てようとしたが躊躇われ、今もそこで空調の風を受け揺れている、光沢紙。そこに書かれた日付は。……いくら気にしようとも、もう私には関係のない事だ。それこそ、昨日まではまだ一縷の望みがあった。自宅で顔を合わせての打ち合わせ。その度に彼の視界の端にあの目に痛いゴシック体を忍ばせ、彼が一言でも触れてくれればもう一度、今度はもっと上手く誘おう、と。そこまでして、と思われるかもしれないが、最後はもはや意地であった。
     だが、彼が話題に出すことは終ぞなかった。気にも留めなかったのか、行かないと一度決めた以上頑として誘いに乗らないようにしているのか。真偽は定かではないが、何となく後者のように思われ、それがまた私を躍起にさせた。それならばいっそ、嫌だと、もう一度断ってくれれば良いのに。幸せそうに菓子を頬張る姿さえ棘付いた心には毒でしかなく、つい「随分と悠長にしているな」などと憎まれ口を叩いてしまう。ああまた私は。だがそんな皮肉も意に介さず、
    「わ、ホントだ! 教えてくれてありがとうございます。ご馳走様でした!」
     と、いつもの朗らかな笑顔で真っ直ぐ告げ、バタバタと玄関へ向かい──昨晩はまた妙に気合の入った顔で──それではまた伺いますね、と言われれば、私はそれきり何も言えなくなってしまうのだ。
     こうして、不毛で一方的な争いの後、当日を迎えてしまった訳である。



     何も手につかないままいたずらに時間だけが過ぎ、ブラインドの隙から射し込んではそこかしこを縞模様にしていた陽は、今では部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるだけの頼りなさであった。その薄闇に無意味にブルーライトを放っている液晶を落とし、かしゃりとアルミを震わせると、まだ仄白い月の下、紅掛空色が珊瑚のような淡い雲を纏いながら舞い降りる藍へ呑まれんとしていた。無性に、滅多に開かれることのない分厚いガラスを力いっぱい外へ押しやると、途端、ジリジリジリと目下に広がる昏い住宅街に響き渡るアブラゼミ達の合唱と、むわりと生温く湿った風が肌を撫でる。耳を澄ませば微かに祭囃子が聴こえ、何処からか楽しげな子どもの笑い声と諫めるような女の声が木霊した。

     ああ、絶好の祭り日和だ
     ──そんな風に、思ったばかりに。

     たこ焼きやチョコバナナを両手いっぱいに抱え幸せそうに笑うキミが。
     喧騒の中をその小柄な体躯で泳いでいくキミが。
     頭上を覆う花を余さずその瞳に映すキミが。

     今この瞬間、隣にいたらと。

     ありもしない想像を勝手に脳が描き出すものだから。


     遠くで小さな閃光が瞬き、パン、と短い号砲が鳴る。
     それを待っていたとばかりに幾つかの家の明かりが消え、期待が静かに街を包んだ。
     いつしか蝉は鳴りを潜め、紺碧に染まる空に漂う煙は風に流れていく。
     私は一息に窓を閉め、ブラインドの羽根を隙間なく降ろした。



     重低音が幾度も空気を揺らす。それによって否が応でも孤独を実感させられることに心底うんざりしながら、少しでも気を紛らす為に携帯から適当な音楽をかけ、原稿と睨み合う。だが、昼間から一切変わらぬ真っ白な液晶にますます己の惨めさを思い知らされるような心地がして、勢い任せにパソコンの電源を落とした。背もたれに身体を預け、深く息を吐く。いい歳をした大人が、何をしているんだ。言ってしまえばただの作家と編集者。それ以上でもそれ以下でもないこの関係に、私は何を望んでいるのか──。
     彼の、佐藤くんの仕事の出来は凡人とさして変わらない。なんなら始めの頃は、今までの誰よりも劣っていたのではないか。だが、どこまでも真っ直ぐで素直な彼はスポンジのように汎ゆることを吸収し、顔を合わせる度に少しずつ確実に成長していた。そんな彼のことを、私も次第に認めていったのは確かだ。いつだか、最近は色々な記事も担当させてもらえるようになったのだ、と嬉しそうに話していた時は、私も誇らしい気持ちになったのを覚えている。
     ただ──それから、彼は随分と忙しい様子であった。いつも誰かしらから着信があり、その度に親しげに言葉を交わしては、「また伺います」を繰り返す。急な呼び出しに慌てて家を飛び出すことも少なくない。その時も必ず「また伺います」と微笑んで。その「また」がいつか失われることが、私は怖かったように思う。いつしか彼の足が遠のかないよう、茶菓子を用意するようになった。時には打ち合わせだと称し、自宅へ招くこともした。それは執筆にも表れ、次々と原稿を仕上げては、次の題材の為の取材を手伝わせるようになった。そうすれば、彼の関心を私へ向けられると──。この、独占欲のようなものは。気付かないよう、目を逸らし続けたこれは。隣にいて欲しいと願ってしまうのは。


     ──突然、携帯が聞き慣れた音楽を流す。
     短く震えるそれに手を伸ばし見れば、それは、佐藤くんからの着信であった。



     こんなタイミングで。一体何の用だろうか。外ではまだ轟音が響き、ブラインドの縁をちかちかと光が彩っている。正直、気乗りはしない。今の今で、彼とまともに言葉を交わせるとは思えなった。胸に渦巻く寂しさと怒り、呆れ、それと少しの、喜び。逡巡の後、緑色をなぞる。
    「……なんだ」
     至極冷静に告げるつもりが、からからに渇いた喉を嚥下しようやく絞り出した声は、頼りなく震えてしまった。咳払いで誤魔化すも、耳がじわりと熱を持つ。彼の前ではどうも格好がつかない。もう一度、何か言うべきだろうかと口を開いた時、そんな些細な心配は弾けるような声に掻き消された。
    『先生! 今ってご自宅ですよね⁉』
     電話越しであるというのに、まるで眼前まで差し迫られているような勢いに押され、反射的に「ああ」と返せば、
    『よかった……! あ、ちょっと待っててください!』
     と言うやいなや、こちらの返事も聞かずにガサガサと物音を立て始める。その間も、何やらああでもないこうでもないと一人で騒いでいるのを聞きながら、どこか安堵している自分がいた。そうか、他の誰かと花火を観ていたのではないのか。それとも、祭り自体は誰かと過ごしていたか……いや、別に彼が誰と過ごそうと私には関係がない。ハズなのに。ずれてしまった蓋の隙間から、仕舞い込んでいた想いはぽろぽろと零れ出る。少なくとも、まだ遠くで人々を魅了している光よりも、私を選んでくれたことに、弛みそうになる頬を慌てて引き締める。まあ、キミにそんなつもりは、ないのだろうけれど。
     彼を待つ間そわそわと落ち着いていられず、机の前を彷徨いていると不意にまた『先生!』と声がする。何なんだ一体、と訊けば彼は何やら得意げに鼻を鳴らし、
    『外を見ていてください』
     と言った。外……。思えば、いよいよ花火もクライマックスという時間だが、まさかこの距離から観ろとでも言うのだろうか。意図の掴めぬまま、言われるがままにブラインドを畳み窓を開ける。日が沈みきってもなお蒸し暑い風が部屋に流れ込み、空調に甘やかされた身体からじわじわと汗が滲む。堪らず額を拭いながら遠くを見やれば、フィナーレを迎え始めた会場の光がちらちらと瞬いていたが、やはりこの家からでは随分と迫力に欠ける。
     まあしかし、見ていろと言われたので仕方無しに眺めていると、バシュッ、と何かが放たれる音がした。それも随分と近い。何事かと辺りを見渡すと、ここから歩いて一分もしないところ、記憶では公園のある辺りからキラキラと一筋の光が空へ昇っていた。まさか。ぐんぐんと夜を切り裂くその光を追う様に、大きく開け放った窓から身を乗り出す。びゅう、と一際強い風が吹き込んで、部屋の中を好き勝手に散らしていたが、そんなことはどうでもいい。
     打ち上がった先をじっと、祈るように見つめる。


     ──パァン、ぱらぱらぱら……


     ちょうど私の顔ほどの高さで咲き乱れた金色の光は、軽快な破裂音と共に四方へきらきらと花びらを散らす。さらにすぐ後を追う様に細やかな光の粒が弾けて、闇に溶けた。
     たったひとつの、小さな小さな打ち上げ花火。
     こんな住宅街のど真ん中で。
     何千発もの花火を尻目に。

    「バカじゃないのか、キミは」

     電話の向こう側、私だけの花火師にそう告げれば、彼は一頻り謝ってから『どうしても先生に見せたかったんです』と気恥ずかしそうに笑った。



     静けさを取り戻した住宅街。その片隅にある小さな公園で、私たちは。
    「次はどれにします? あっ、僕この『タコ焼きデビル』にしようかなぁ」
    「なんだそのふざけた名前は……。というか、さっきから食べ物の名の付いた花火ばかりではないか」
     どこまで食い意地を張っているんだ……といっそ感心する私へお構いなしに、彼は悪魔の様相をしたタコ焼きの描かれた花火を蝋燭へ近付ける。チリチリと紙先が焼けると少しして、しゅぼっ、と軽快な音と共に火花が噴き出す。次第に激しくなる輝きが、光の雨となって地面を焦がしていく。それは鮮やかな桃から青や緑へ色を変え、その度に彼は短く感嘆の声をあげる。年甲斐もなくはしゃぐその姿に目を細めながら、私もまた手元の蕾へ火を点けた。



     遡ること数分。窓辺で呆けていた私を引き戻したのはインターホンの音だった。間違いなく、彼である。いつもなら勝手に入るよう促すが、一言申してやりたい気分だった為、ずかずかと玄関まで向かい扉を開けてやれば、
    「花火しましょう、先生!」
     視界いっぱいに、手持ち花火のぎゅうぎゅうに詰まったコンビニ袋が飛び込んできた。その向こう側、八尺玉にも負けぬ笑顔を咲かせる彼がいた。あまりの唐突さに意味をなさない言葉しか発せず、しぱしぱと瞬きを繰り返すだけの私に、彼は「あ、バケツと蝋燭もバッチリ用意してありますので!」と付け加える。そんなことは聞いていないのだが。眼鏡のブリッジを指で抑え、ため息混じりに俯く。本当に。何なのだ、この男は。いつもいつも私の想像をいとも簡単に、遥かに超えてゆく。一方その張本人はそんな私など意にも介さず、ワクワクという音がするほど瞳を輝かせてこちらの見上げている。二度目のため息。
    「……まったく、しょうがないなキミは。少し支度をしてくるから──」
    「やったぁ‼ 早速行きましょう‼ こっちです‼」
    「ま、待て! 引っ張るな!」
     そうして。こちらは着の身着のままにサンダル、彼はスーツにワイシャツの袖を肘まで捲くり上げ、先程花火の上がった公園で男二人。手持ち花火に興じているという訳である。
     流石に初めは羞恥心が勝り、少し離れたベンチから彼がはしゃいでいるのを眺めていた。だが、やはりまた、無理矢理に手を引いて蝋燭の灯りの元へと連れ出された。そして片手に花火を握らせると「僕の火を移すので、動かないでくださいね!」と半ば強制的に参加を余儀なくされたのだった。そこからは、お互いに火が絶えないよう次からへ次へと花を咲かせ、思いの外それが面白く、いつの間にか夢中になっていた。
     セットの中には中から大型の噴き出し花火も幾つか含まれていた。佐藤くんはそれらを徐ろに取り出し並べると、端から順に点火した。しゅー、しゃわしゃわ。ぱちぱち。それぞれが思い思いに火花を散らしながら、辺りを鮮やかに彩る。チカチカといくつもの星が生まれては消えた。想像よりもずっと高く成長した光の柱たちを見上げる彼が、その大きな瞳いっぱいに七色を湛えながらぽつり。
    「ちいさな花火大会ですね」
     と、呟いた。それから、緩やかに弧を描いた眦で照れくさそうにはにかむ横顔に、胸が詰まる。
     公園の隅でささやかに行われるのとは規模も美しさも違う、比べるのも烏滸がましい程の大輪の花を、キミは今晩その瞳に咲かせていたハズなのに。
    「……キミは。どうして私のところへ来たんだ」
     ベンチに置かれた袋には、屋台で買ったらしいパックの焼きそばや焼き鳥があった。彼は今日、祭りに行っていたのだ。ひとりか、或いは。
     彼は「花火を見せたかった」と言っていた。それならば、何故あの時、リビングで誘いを断ったのか。──結論はひとつ。やはり、誰かと過ごす予定があったのだろう。何が自分を選んでくれた、だ。結局は、そんな彼に気を遣わせてしまっただけなのではないか。玩具じみた花火ひとつで喜んでいたのも、私を気遣ってのことかもしれない。唇を噛み、逃げるように視線を花火へ向ける。光は次第に勢いを失い、遂には闇がずしりと覆い被さり、焼け焦げた匂いだけが虚しく漂う。私とでは、駄目だったのか。足元の影が、暗く、暗く、落ちる。
     隣でざり、と土を踏む音がして、伏し目がちに瞳を彷徨わせると、彼が手際よく燃え殻をバケツへ拾いながら不意に口を開いた。
    「僕、最近ずっと怖かったんです」
    「……怖い?」
    「先生に、見限られるんじゃないかって」
     全く見に覚えのない言葉に首を傾げる私に、彼は「あ、いや! 先生のせいとかではないんです!」と、さらに不可解な弁明をしながら、近くのベンチへ座るよう促す。大人しく従うと、屋台で買ってきたらしい、すっかり熱帯夜に侵されてしまった瓶ラムネを手渡される。カラン、涼しげなビー玉の音色を耳に、そっと瓶を傾けると、それでも体温よりはひんやり心地よい甘さに少しほっとする。隣へ腰を下ろした彼は、それを一息に飲み干してから。
    「──その、先生は。僕が担当させて貰えてるのが奇跡なんじゃないかなってくらい凄い方で。最近は他のメディアからもひっきりなしに寄稿を依頼されてて、原稿だって僕が目を通す必要がないくらい完璧で……」
    「いまいち要領を得ないな。私が優秀であることと、キミの恐れに何の関連性がある」
     つい口を挟んでしまい、慌てて口を噤む。隣を窺えば、申し訳無さそうな顔をして、えっと、と必死に言葉を捻り出している。こういう一面に恐れを抱いているのだろうか。確かに、過去に私を担当していた者たちは総じてどこか怯えるような、腫れ物を扱うような態度であった。つまり、彼も──。
    「僕が、未熟すぎるんです」
     決して貴方は悪くない、とでも言うように、真っ直ぐとこちらを見据え彼は言った。見透かされたようで、思わず視線が宙を泳ぐ。それを肯定と捉えたか、ふ、と諦念のようなものを顔に浮かべ、すぐにまた真っ直ぐ己の足元の、その先の何処か遠くを見つめる瞳で。
    「だからせめて、編集者としてもっと成長しなきゃって思って。まずは小説の題材集めをひとりでもお手伝いできるようになろう、と思ったんです。それで、積極的に色んな方にお話聞いて、たくさん記事を書いたりもしたんですけど、やっぱりまだまだで」
     先生のお力には、なれなくて。消え入りそうな声と共にぐ、と膝に皺が刻まれる。そんなもの、私が、私の欲で連れ回しているというのに。彼はそれを信用に足らないが故と思っていたのか。取材だって、もてなしだって、執筆だって──キミを必死に引き留めているつもりで、ずっと追い詰めていたというのか。
     何か、何か言わなくては。そう思うほどに、気の利いた言葉のひとつも出てこない。小説家が聞いて呆れる。
     押し黙ってしまった私に彼は続ける。
    「それで、今日の納涼祭はチャンスだって思ったんです。ちゃんとひとりでも取材できるって証明できれば、認めて貰えるんじゃないかなって」
     それに、先生は人混みが苦手だって仰ってたので。そう言って頬を掻く。
    「でも、ひとりで回る屋台はなんだか、思っていたのとは違ってて。それから、花火が始まって。写真を撮らなきゃって思ったんですけど──その、先生にどうしても、直接見て欲しいって思ったら、居ても立っても居られなくなって、」
     徐ろに注がれた目線の先、コンビニ袋からはみ出た手持ち花火が生温い風にそよいでいた。
    「──それで、あの花火を上げたのか、キミは」
     俯いて、控えめにこくりと頷いて揺れた紺から覗いた耳が紅く染まる。心臓がきゅ、と鷲掴みにされる心地がして、慌てて視線を逸らす。静寂が、声高に叫ぶ鼓動を誇張する。顔が熱いのは、炎夏のせいか。喉が無性に渇いて、ラムネを呷る。甘い。汗か結露かも分からぬ雫が喉元を伝う。空になった淡青をカラリと揺らすと、ぱっと立ち上がった彼が「捨ててきます」と手を伸ばす。ああ、と差し出した瓶を支える指先が熱く柔らかな感触に包まれ、それが彼の掌だと理解した瞬間に。ばち、と目が合って。
     ────あ、と思った時には、もう彼は背を向け走り出していた。遠くで瓶がぶつかり合うくぐもった音が響く。それから、花火の入った袋を手に戻ってきた彼は「線香花火やりませんか」と、笑った。



     随分と融けて頼りなくなった蝋燭を囲み、締めにと取っておいた線香花火を摘む。僅かな風や震えでゆらゆらと逃げ惑う先端をそっと火に近付けると、燃えた端がじゅくじゅくと丸みを帯び、蕾となる。赤橙に膨らむ光の玉が、少しずつ紙縒を呑み込んでいく。突如。パチパチと火花が散る。枝分かれした繊細な花が幾重にも咲き乱れ、消える。息を呑むほどに儚く、美しい。同じ様に手元を覗き込む彼を見やると、ぼんやりと赤橙色に照らされた無邪気な童顔は淡く紅く色付き、潤んだ大きな瞳はきらきらと溢れる光を余すことなく映す。
     ああ、綺麗だ。

    「綺麗ですね、先生」

     いつの間にか私を見つめていた紺碧の瞳が、そう告げる。火花はもう、時折思い出したように弾けるばかりで、熟れきった果実のように落ちる時をじっと待っていた。

     幾つかの線香花火を燃やし尽くし、気付けば互いに残り一本。火を点けるのが躊躇われるのを振り切って、最後の花を咲かせる。使命を果たした蝋燭は自ずと消え、私と彼をささやかな灯りだけが夜へ浮かび上がらせる。勢いを増す火花が、思いとは裏腹にどんどんと紙縒を短くしていく。
     これが落ちたら。
     彼が私の為に開いてくれた、小さな小さな花火大会が、終わってしまう。
     花火を摘む指に力が入る。お願いだ、揺れないでくれ。もう少しだけ。
     「なあ、佐藤くん」
     瞳が、私を見上げる。
    「もし、また──」

     じゅっ。
     玉は途端に光を失い、地面に灰を残した。

    「──では、帰ろうか」
     やにわに立ち上がり、燃え殻をバケツへ放る。融けて固まっている蝋も剥がして袋へ。そうやって手を動かしていないと、口から溢れそうになった想いに。この胸にたった今空いた穴に。どうしようもない現実に呑み込まれてしまうから。
     ザァ、とようやく涼しくなった風が木立を揺らし、汗ばんだ肌を撫でる。奪われる体温が、茹だった頭を冷ますのをひたすらに待つ。星のない都会の狭い夜空に見下ろされ、静寂が身に刺さる。
    「先生、」
     丸めた背の上から声が降る。
    「なんだ」
     振り向くことができないでいる私の前に、彼は膝が汚れることも厭わずしゃがみ込み、土に塗れた私の手を掬った。そして、そっとその手を払いながら。

    「また来年も、やりましょうね」

     そうやって、一番欲しかった『また』を、キミはいとも簡単に私へ寄越した。
     それまでに相応しい編集者になってみせます、と意気込む彼に、待っている、と告げれば。
     一瞬目を見開き、それからはち切れんばかりの笑顔を咲かせてから。
    「約束ですよ、先生!」
     差し出された小指に、おずおずと自らの小指を絡める。きゅ、と一際強く握り返された指は、痛いほどに、熱かった。
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    yugayuga666

    DONE【小説】憧憬/さとあす
    テキストver.です。

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    https://poipiku.com/7817908/90
    憧憬「最近、すっかり暑くなりましたね。明日ノ宮先生」
     そう言ってぐい、と向かいのソファで麦茶を飲み干す彼の額には確かに、大粒の汗が滲んでいた。
    「そうか、もうそんな季節か」
     正直、小説家という仕事柄、この家から殆ど外へ出ない私にとっては、季節など些末な問題であった。常に空調の効いた室内の温度は一定に保たれ、私から四季という概念を奪って久しい。それでも、彼が──佐藤入間が私の担当編集となってからは、彼の運んでくる風が、言葉が、全てが──鮮やかな世界を見せてくれた。
     それが、私は、嫌いではなかった。



    「そういえば先生、ポストにこんなチラシが」
     傍らへ鞄や上着を置くのも早々に、一枚のいかにもといった光沢紙を机上へ差し出す。他人の郵便物など放っておけばよいものを、と初めは煩わしく思っていたが、付き合いが長くなるにつれ不要なDMの類は勝手に処理してくれていたり、興味を唆る様なものはこうして話題にあげてくれたりと、今では寧ろ有り難い。そんな彼のお眼鏡に叶ったらしい紙きれを覗き込む。それは、色とりどりの花火を背に目がチカチカする配色のゴシック体で『納涼祭』と書かれた、この辺りの自治体が執り行っている夏祭りの知らせだった。
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