椅子からこぼれ落ちた金色の尾が、ゆらゆらと不規則に揺れている。その毛先が箒のように床を擦っている様を、トーランドはもどかしい気持ちで眺めていた。
せっかく綺麗に整えられた金の毛束が、このままでは埃まみれになってしまう。すぐにでも手を伸ばして毛先を拾い上げたかったが、今そうするわけにはいかなかった。
今はムリナールがついている席の隣で、小綺麗な服装に身を包み、ただただ会話の脇役に徹することこそが、トーランドに与えられた役目なのだ──
遡ること、約二ヶ月。
ムリナールがトーランドと出会ってからいくらか時は経ち、仲間と共に行動することにも慣れてきた頃の、とある夜のことだ。
特に定めたわけではないものの、何となく拠点のようになっていた森の一角で、彼らはその日も野営をしていた。テントを張り火を焚き、それを囲んで狩ってきたばかりの獲物に食らいつく。ずいぶんと肌に馴染んできたそんな日常を享受しつつ、ハンターたちの会話の中で勃発した些細な口喧嘩の様子を眺めていたムリナールの頭の耳が、不意にぴくりと跳ねて外を向いた。
その僅かな差異を見逃さなかったトーランドはすぐに手を伸ばし、口論に勤しむハンターたち二人の口をぱしりと塞ぐ。
先程までとは打って変わって緊張感を帯びた静寂の中、じっと耳をそばだてていたムリナールは、少ししておもむろに立ち上がった。続いて腰を浮かそうとするトーランドをムリナールはさっと手で制し、それからある方向に向き直り、声を上げた。
「敵意はないと見受ける。用件は何だ」
静寂を裂いて朗々と響いた声が、空間をぴりりと震わせる。数秒後、再び静まりかえった闇の向こうで、トーランドたちにも聞き取れる程度のかすかな物音がした。
ムリナールは呆れたように軽く鼻を鳴らし、地面に置きっぱなしだった自分の剣を拾い上げた。そして周囲が止める間もなく一人でずかずかと闇に向かって歩いていき、すらりと剣を抜いて、それを淡い金の光とともに闇の一点に向けて迷いなく突き刺した。
「用件は何だ、と聞いているのだが」
光に照らされ、闇の一部が暴かれる。
そこには、輝く切先を喉元にぴたりと突きつけられ、哀れにも腰を抜かしてがくがくと震えながらひきつった笑みで両手を上げる、見知らぬザラックの男の姿があった。
自分の背後から縄やら鎖やらを携えて鼻息荒く集まってくる仲間たちを再び手で制し、ムリナールは突然の来客に突きつけていた剣を静かに下ろした。
「目的は私だな? 何処の使者かは知らないが、息を殺して相手に近付くことが何を意味するのか分からないとは言わせない。お前を送った者の名と用件を言え。そのまま動かず、簡潔にだ」
剣を鞘に納めつつ、ムリナールは〝使者〟を見定めるようにじろりと見下ろした。馬に睨まれた鼠となった使者はしばしの間震えながらムリナールとその背後で睨みを利かせる屈強な男たちとを見比べていたが、少ししてとうとう観念したらしく、大人しく縮こまって話を始めた。
使者の話は緊張と動揺からかどうにも要領を得ないものだったが、根気強い尋問──もとい聞き取りの結果明らかとなった用件は、全員の予想を見事に裏切る代物だった。
それは〝晩餐会への招待〟。この状況にはあまりにも似つかわしくない、高尚でお上品な用件であった。
一気に興味を失いその後の対応を押し付けて食事に戻った仲間たちを尻目に、ムリナールは更に使者に対して質問を続けた。
分かったのは、招待してきたのがこの付近一帯の大地主の貴族であること。晩餐会の日取りは二ヶ月後であること。そしてどこから聞きつけたのか、ムリナールをニアール家の子息とはっきり認知した上での社交パーティーへの誘いであることだった。
焚き火を囲む輪の中からそれとなく様子を窺っていたトーランドにムリナールは目配せで警戒を解かせ、そして「ニアール本家を通してくれ」の一言で貴族の招待をぴしゃりと跳ねつけ、今にも後ろ脚で蹴り飛ばしかねない威圧と鋭い視線でもって、使者を追い返した。
それからというもの、経緯はどうあれ一応は顔見知りになったことで気が大きくなったのか、その使者は何度もムリナールに招待状を届けにきた。そのたびにムリナールは追い返したが、向こうはそれが主人の指示なのか、何かと理由をつけてムリナールに直接招待状を押し付けにくる。ちょうど大騎士領から父の手紙を届けに来た専属のトランスポーターにこの件について訊ねてみても、そんな話は預かっていないと首を傾げる。
それでもなおつきまとうように数日おきに招待状を届けにくる状態に、さすがのムリナールも我慢の限界に達した。トランスポーター経由でこの話が耳に届いているはずの父から何も指示がないということはつまり、〝対応はお前に任せる〟ということだ。それならば、と彼はとうとう首を縦に振ることにしたのだった。もっとも、それで彼が会場へ何をしに行くのかと言えば、豪華な食事にありつくためでも人脈を広げるためでもなく「金輪際私に関わるな」という言葉を可能な限りオブラートに包んで穏便に伝えるためなのだが──
二ヶ月の間粘りに粘った結果、晩餐会の日取りはもう三日後に迫っていた。
参加の返答をしてすぐにどこかへ出かけたムリナールは、その日の夜になっても戻らず、結局夜明けとともに大層な荷物を抱えて戻ってきた。足音を聞いて目が覚めたトーランドがテントの隙間から様子を窺うと、かなりの距離を往復してきたのかムリナールのブーツは全体に薄く砂埃を纏い、ぼんやりと白く曇っていた。
すぐにムリナールがさっさと自分のテントに入っていったのを見て俄然興味が湧いたトーランドは、もぞもぞと起き出してムリナールの元を訪ねた。意外にも二つ返事でトーランドを迎え入れたムリナールは、簡素な机の上に布を敷き、持ち帰った荷物を広げているところだった。
「おいおい……こんな立派なお洋服、一晩で一体どうやって入手した?」
机の上に鎮座するのは、遠目からでも分かるほどに上質で美しい生地から作られた衣装の数々。黒と白がいくつか重なり合い、どれも金属でもないのに滑らかで控えめな光沢を放っている。
目を丸くするトーランドから顔を背け、ムリナールは苦々しげに溜め息をついた。
「ここから少し離れたところに荘園を持つ騎士一族とかねてから親交があってな。今回はそこの伝手を使わせてもらった。まったく……今の自分を囲う身分の柵を取り払うためにその身分を利用するなど、これほど馬鹿げた話があるものか」
ムリナールは珍しく苛立ちを隠そうとしておらず、頭の耳は後ろに倒れ、尾はしきりに揺れ動いている。皆の前では決して見せることのない姿を自分だけ目にしている事実に邪な優越感を覚えつつ、トーランドは宥めるように軽く笑ってみせた。
「はぁ、貴族様ってのも大変だねぇ……ま、せいぜいがんばってこい。応援してるぜ~」
ひらひらとお気楽に手を振るトーランドを前に、ムリナールは訝しげに眉根を寄せた。
「何を言っている、お前も行くんだ。分かっていると思っていたが」
「……はあ!?」
トーランドが素っ頓狂な声を上げるも、ムリナールの表情は変わらない。
「正式に誘いに応じる以上、同行者もなく身一つで行くわけにはいかないだろう」
「んなルール知るかよ!? そもそも何で俺みてぇな素人にやらせるんだよ、それこそその〝親交のある騎士一族〟とやらに頼め!」
「仮にも領地を持つ一族の者を、招待を受けてもいない他の領主のパーティーに口約束で連れ出せるわけがないだろう。こちらの手の内で、かつ明後日に現地に間に合わせられる者の中で考えれば、お前が最も場の空気を読んで適切な行動ができる。そういうことだ」
さらりと言い放つムリナールの顔を、トーランドは信じられないといった様子でまじまじと見つめた。だがやがて腹を決めたらしく、自身を納得させるように大きく息を吐いて肩を落とし、改めてムリナールに向き直った。
「そういうことだ、じゃねえよ……ったく信じらんねぇ……。ああもうとにかく! 何か言われてすぐ喧嘩ふっかけるような馬鹿以外の誰かが、絶対一人必要なんだな?」
「ああ」
「お前から見て、本っっっ当に俺が適任なんだな!?」
「先程からそう言っている」
「わーったよ、承知いたしました旦那様!」
開き直ってやけくそ気味に叫んでみたが、ムリナールの表情はまだ晴れない。それどころか、その眉間の皺は更に深まってしまった。
「……勘違いしないでくれ、トーランド。そういった上下関係を私がお前たちに求めていないのは知っているだろう。お前はあくまで〝同行者〟だ。付き人扱いするつもりは毛頭ない」
「ややこしいなもう……じゃあ何だ、俺ぁお前さんの近くに立って、周りの雰囲気に合わせてそれらしくニコニコしときゃいいってことか?」
「そうだ」
「……最低限やっちゃいけねえことくらいは教えといてくれよ?」
「ああ。それに、こういった場を知っておくことはきっと今後お前の役に立つはずだ。その場面をあえて明言はしないがな」
その場面。つまり──
「ははぁん、なるほどねぇ。そういうの何つーんだっけ……ええと、犯罪きょさ?」
トーランドがにやりと笑って視線を寄越す。ムリナールは苦い顔で目を逸らした。
「……教唆、だ。ただし、先ほどの私の発言がそうだと言っているわけではない」
「はいはい了解了解~」
ずいぶん愉しげな顔になったトーランドは、まだ苦い顔をしているムリナールの背中を、勢いよくぱしりと叩いた。
*
晩餐会当日、ムリナールについて会場に足を踏み入れたトーランドは、端から端まできょろきょろと見回したい自分を制するのに大変苦労した。
この地域一帯の明かりをすべて集めたかと思うようなきらびやかな照明に、そこかしこに装飾が施された調度品の数々、高級な衣服に身を包んだ見るからに身分の高い紳士に、布が贅沢にたっぷりと使われたドレスを纏った淑女──
トーランドはあまりにも自分が場違いな気がして、今すぐどこかの物陰に身を隠したい衝動に駆られた。出立前にムリナールにしっかり着付けられ、髪もきっちり整えられたため、見た目だけで言えばそこまでおかしなことはないはずだ。だが頭でイメージする自分の姿はどうしてもいつもの自分で、今にもそれを見咎めた警戒の目が一点に集まってくるような錯覚を抱いてしまう。
何となく縋るような気持ちで隣を見ると、正装に身を包んだムリナールは、極々自然にこの絢爛な空間に溶け込んでいた。
いつも砂埃にまみれてぱさついているその髪と尾は、今はしっとりとした光沢を帯びて綺麗にひとまとめになっている。後ろ髪は紐ではなく細いリボンで丁寧に結われ、その端が髪の動きに合わせてひらひらと揺れていた。
間に合わせの正装は彼の体のシルエットを少しぼかしてしまっているが、それを補って余りあるほど均整の取れたクランタらしいしなやかな肢体が、明らかに周囲の目を引き付けている。もちろんその目は先程トーランドが妄想したような警戒の目ではなく、憧れや感心といった好意的なものばかりだ。
(……綺麗だな)
トーランドはムリナールを眺めながら、小さく感嘆の息を漏らした。いつしか隣にいることに慣れてしまったムリナールが、今は少し遠くに見える。
(本当は、俺が〝立場〟ってのをわきまえるべきなんだろうな)
騎士と流れ者。本来なら隣に立つどころか、気軽に言葉を交わすことすらない間柄だろう。あの雨の日の偶然と、ムリナールの騎士道観。その二つが辛うじて自分たちを今の関係に繋ぎ止めているにすぎない。
そんなことをトーランドがぼんやり考えていると、中年男性が一人、弾けるような満面の笑みでこちらに近付いてきた。すぐにムリナールが会釈したのを見て、トーランドも慌ててそれに倣った。
「──いやはや、本日はよくぞおいでくださいました、ムリナール・ニアール殿! ご到着を今か今かと待ちかねておりました!」
「……ご招待に与り光栄です。お待たせしてしまったようで申し訳ございません」
「おっと、先程のは言葉の綾というものですよ。いやあ、お会いできて嬉しい限りです! 実は以前我が領地で一度貴方をお見かけしたことがありましてね、なんと精悍で麗しい若人だろうか、これはきっと貴人に違いない! と思い、すぐに使用人に調べさせたのですよ──」
相手の男は、ずいぶんと興奮した様子で休みなくムリナールに話しかけてくる。話しぶりからして、相手はこの晩餐会の主催者のようだった。話し続ける主催者の口から細かく唾が飛んでいるのが見えてしまったのか、ムリナールが後ろに少し耳を倒したのにトーランドは気付いた。
一言もムリナールに口を挟ませないまま主催者が着席を促してきたため、ムリナールとトーランドはそれに従い、会場に用意された歓談用の椅子に腰掛けた。主催者はムリナールの真正面に座ってそれからも相変わらず話し続けていたが、やがてひととおり語り尽くして満足したらしい主催者は、上がった息を整えるように深く息を吸ってから、何度か大きな咳払いをした。
「あー、ところでムリナール殿。失礼ですが……えー、彼は……その……」
主催者はちらりとトーランドを一瞥し、言葉を濁しつつムリナールの表情を窺う。ムリナールは手でトーランドを指し示して応えた。
「彼は友人のトーランド・キャッシュです。私一人で伺うというのも物寂しいですし、折角なので彼にも声を掛けさせてもらいました」
ムリナールがトーランドに目配せをする。急なアドリブに早速文句を言いたくなったが、顔には出さずにトーランドはつとめてにこやかに、それらしく挨拶した。しかし主催者はトーランド自体にはそこまで興味がないようで、さっさと目を逸らし、どこかぎこちない笑みをムリナールに向けて続けた。
「えー……貴方の護衛、ということになりますかな? それでしたら、よければ別に控え室のご用意を──」
ムリナールの片眉がぴくりと動く。
「友人、と申し上げたかと思いますが」
「……あ、あー、これは失敬! ええ、ご友人。ご友人ですね、もちろん……ハハハ……」
額に汗を一筋垂らしながら、主催者がそれらしく場を取り繕う。引きつった笑いを見せながらまたちらりとトーランドを一瞥してきたが、トーランドはあえてそれとなく視線を別の方向へ逸らした。
「いやあ……感服いたしました! 流石はかのニアール家の御子息、まさか魔族とすら対等に接する気概をお持ちとは! 実に心が広く、そして慈悲深くていらっしゃる! そのようなお方に目をかけていただけるなど、そちらの〝ご友人〟はとんだ幸運を掴みましたな、ハハハ……」
ムリナールは何か言いたげに唇を開いたが、すぐにそれを閉じてぐっと固く引き結んだ。
怒ってるな、とトーランドは他人事のようにそれを見ていた。そして、相手がすぐにトーランドの種族に言及したことを意外にも思った。しかしよくよく考えてみれば、二ヶ月もの間、さんざん例のザラックの男に好き放題観察されていたのだ。トーランドについて詳しく主人に伝わっているのも当然だ。なるほどまったく使えない奴でもないらしい、とトーランドはその男を少しだけ見直した。
その間も、主催者はムリナールを賛美する言葉を垂れ流し続けている。聞くだけ無駄だと思い、トーランドは悟られないようにこっそり主催者を観察した。
この手の貴族は、トーランドにも馴染みがある。すなわち〝支配者側〟の者達だ。いつもは高いところから蔑んでくる存在が、今は目の前でへりくだって媚びを売っているのがなんだか可笑しくなって、トーランドはごまかすように小さく咳払いをした。
「──ところでムリナール殿、実はですね……わが一族もペガサスの血を引いておりましてね、かねてよりニアール家の方と語らってみたいと思っていたのです! いやあ、黄金のペガサスの血統というはやはり、お会いするだけで分かる程の貴さだ」
それまでの無益な話題から一転、家柄の話が始まったことで、ムリナールはわずかに身体を固くして久方ぶりに口を開いた。
「……ペガサスの系譜など、カジミエーシュではそこまで珍しいものでもないでしょう。騎士の家系ともあれば尚更です。それに、ペガサスの血統が一般的なクランタと異なる点など、明白に証明できるものは何一つない」
「いやいや何を仰います、そこに居るだけで光り輝くような存在感……これがその辺に掃いて捨てるほど居るただのクランタに醸し出せることなど、天地がひっくり返ってもありませんとも──」
トーランドが見ている間にも、ムリナールの眉間の皺はじわじわと深くなっていく。感情が表に滲み出るのを抑え込んでいるのか、表情も固くぎこちなくなっていく。
その代わり、相手から見えない椅子の後ろ側ではしきりに尾が揺れていて、時折不快そうに椅子の脚を叩きながら毛先で繰り返し床を掃いていた。
こういう世界なのか、とトーランドは無責任にもついつい感心していた。社交界というのは思った以上に面倒だ。ムリナールの性格からして、本当なら今すぐにでも席を立ち、さっさとこの場を後にしたいところだろう。
しかし今ムリナールは大人しく黙って椅子に収まり、無理矢理に上品な言葉を返している。本人も言っていた〝身分の柵〟というのは、ここまで頑丈なものなのか──。トーランドはムリナールと主催者が繰り広げる実のない会話を聞き流しながら、自分もぼんやりと実のない思考に耽っていった。
*
ムリナールにとっては苦行のような数時間を過ごした末に、ついに晩餐会はひとまずのお開きとなった。そのまま何人かは残って酒を酌み交わすようで、それに参加して欲しそうな空気を醸し出す主催者にきっぱり別れの言葉を告げ、ムリナールはトーランドと並んで帰路についていた。
華やかで煌びやかな喧騒は次第に遠のいていき、歩を進めるにつれて聞き慣れた自然の音が戻ってくる。
ようやく肩の力が抜けた気がして、トーランドは大きく伸びをした。そして上着のボタンをいくつか外し、首元も緩めてタイを引き抜いたが、どう扱っていいか分からなかったので、とりあえずそれをムリナールの手に押しつけておいた。
受け取ったムリナールは、体温と汗で少ししっとりした感触になったそれを軽く畳みながら、不意にぽそりと呟いた。
「……すまない。トーランド」
「んあ? 何だ急に」
頭の後ろで手を組んでのんびり歩いていたトーランドは、思いがけない謝罪に思わず手を解いてムリナールの方を向いた。
「私の判断が軽率だった。不快な思いをさせてしまい、申し訳ない」
畳んだタイを見つめながら静かに呟くムリナールの様子に、トーランドはいよいよ状況が分からなくなった。
「待て待て、話が見えねぇよ! さっきから何について謝ってんだ、お前は」
「お前に対する、先方の対応のことだ。……言い訳にしかならないが、あそこまで選民意識が強い相手とは思っていなかったんだ」
ムリナールは静かに溜め息を吐き、軽く頭を振った。少しセットが崩れ始めた横髪がぱさりと揺れ、夜のわずかな光を反射してきらりと光る。
「……確かに私は、一族の血統を誇りに思っている。だがそれは断じて、他者を見下していい理由にはならない。庇護者であることと、支配者であることは同義ではない。種族の名のみを以て今まさに目の前にいる相手との間に線を引くべきでもない。少なくとも私は、そう考えている。だから──」
「あー、難しいことは分からねぇけどよ」
言説がどんどん加熱していくのを見て、トーランドは宥めるように半ば強引に割って入った。ムリナールが口を閉じたのを見て、トーランドは続ける。
「少なくとも、お前さんが俺に謝る必要は無くねぇか? 俺は別にお前に怒ってないし、何ならあの領主サマに謝ってほしいとも思ってない。お前は何をそんなに気にしてんだよ」
「…………」
ムリナールは静かにタイを懐に仕舞い、それからしばらくの間口を噤んで、黙々と歩みを進めた。少しずつ加速していく歩調に合わせつつ、トーランドもムリナールに倣って何も言わずに歩いていたが、終わりの見えない沈黙の中ではさすがに居心地も悪くなってくる。とりあえずの場つなぎに軽く咳払いなどしてみたが、それがこの重い空気を払ってくれることはなかった。
我慢しきれなくなったトーランドは、とりあえずこの話題を適当なところに着地させるべく打って出た。
「あのよ。俺らは慣れてるし、俺らはそれで別に構わねぇの。だから、お前がそんなに気に病まないでくれよ。な? わざわざ気にかけてくれて、ありがとうな」
ムリナールは、それでもやはり黙って歩き続ける。トーランドはまた沈黙に耐えられなくなり、とりあえず何か話を続けようと試みた。
「あー……その、な。美味かったな、飯。あんな美味いもん食ったの初めてだぜ俺! 兄弟たちにも食わせてやりたかったな、なーんて……ハハ、ハ……」
話題を間違えた、と思ったときにはもう遅かった。妙な汗が額を流れるのを感じつつトーランドが頭をフル回転させて次の言葉を探していると、ムリナールは不意に足を止め、何分も閉じていた口をようやく開き、小さく呟いた。
「──すまない」
トーランドもムリナールの少し先で立ち止まり、ムリナールのほうを振り返って大げさに肩を竦めた。
「だからよぉ、もうそういうのは──」
「違う。私は今、何を言っていいか分からない。何を考えるべきかも、まず何から考えるべきかも分かっていない。……その結果、今お前を盛大に、完膚なきまでに滑らせている。悪い」
「おっと、思ったより辛辣」
トーランドは哀愁漂う目で笑い、そして思いがけず飛んできた軽口に安堵しつつムリナールの顔色を窺った。
視線に気付いたのか、はあ、とムリナールは力の抜けた吐息を零し、向けられた視線を避けるように空を仰ぎ見て言った。
「……帰ろう。皆の元へ」
トーランドもつられて空を見上げた。見上げた先には双月と、控えめに瞬く星々の光がある。視界の端でまたきらりと光った金髪につられてそちらを見遣ると、ムリナールはまだ固まっていた髪の束に豪快に指を通し、完全にセットを崩してしまっていた。
トーランドは思わず息を漏らして笑い、世話が焼けるとでもいうように緩やかに眉尻を下げて言った。
「ああ。帰ろう。俺らの寝床にな」
ムリナールはそれ以上言葉を継がず、再び黙って歩き始めた。少し先に居たトーランドを追い越し、トーランドもそれに続く。
先程までの重さが嘘のように、空気がふわりと流れて二人の間に収まる。
隣に追いつき、トーランドはムリナールの横顔を見上げた。かねてから折角の男前にいつも眉間の皺が寄っているのが惜しいと思っていたが、その理由が今日、ほんの一部のほんの少しだけ分かったような気がした。
「……ま、それも味ってヤツか。完璧な顔ってのも面白味がないもんな?」
トーランドは満足げな表情で、うんうんと頷きながらムリナールの顔を眺める。急によく分からないことを言い出したトーランドに、ムリナールはさらに眉間の皺を深くしてしまった。
そして聞き返すのも面倒だったので、ムリナールは返事の代わりに、黙って尾をばさりと振った。
了