【ある夜の夢】
ふと気付くと、私は見渡す限りの草原に立っていた。辺りには建物もなければ立木もない。足下で風に靡く青い草以外、ほかには何も見当たらない。
仕方ないため、私はとりあえず歩いてみることにした。一面に広がる若草の中を歩いて歩いて、それからまた歩いた。
だが歩いても歩いても、やはり景色は一向に変わらない。
暫く歩いて、私はようやく小さな変化に気付いた。最初より足下の草が伸びている。長いものはもう脚を覆い隠すほどの高さにまで成長していて、私はそれを無意識にかき分けながら進んでいた。
そのまま歩き続けていると、不意に踏み出した足がぐちゃりと音を立てて沈み込んだ。沼地に来てしまったのだろうか。だがそれでも、目に映る景色は変わっていなかった。視界を埋め尽くす青々とした草が、さらさらと衣擦れのような音をたてて風に流されているだけだ。
次の一歩は、先程よりもさらに沈んだ。ここから先はおそらく危険だ。戻った方がいいだろう。そう思って、私は今踏み出した足を引き戻そうとした。するとその足に、周囲の草が絡みついた。それを払い除けようと手を伸ばしたが、そこにも草が絡みついてきた。
私はバランスを崩し、前方へ倒れ込んだ。やはり草の下は沼地だったのか、顔が沈んで息ができない。何度ももがいた末に、私はどうにか顔を持ち上げることができた。しかし目に泥が入ったようで、何も見えなくなってしまった。
口の中にも、泥の塊が入ってしまった。吐き出したそれはなぜか泥の味ではなく、すえた血のような味がした。
すぐ近くで、声がした。二人の男女が楽しそうに談笑している。
私はそちらに耳を傾けた。心を掴まれるような懐かしい声だった。だが、誰の声だっただろうか。いくら考えても、それを思い出すことはできなかった。
それでも懐かしくなって、涙がこぼれた。その涙で、目に詰まっていた泥が流れていった。僥倖だ。これでまた、周りが見えるようになる。声の主を確かめに行ける。
私は立ち上がろうと、足下に目を遣った。
そして気付いた。ここは沼地ではない。
ここは、折り重なった腐りかけの死体の上だ。
なるほど泥の味がおかしかったのはそういうわけか。私は納得して今度こそ立ち上がった。
そして、辺りを見回した。だが、そこにはもう誰もいなかった。懐かしい声も聞こえなくなっていた。
それが悲しくて、どうしても悲しくて、私は泣いた。会いたかった。一目でいいから、また二人に会いたかったのに。
そのまま立ち尽くしていると、また足下が沈んだ。ここは沼地なのだ。早く抜けなければ。いや、沼地というのは私の勘違いで、正確には死体の上だったか。
だが考えればそもそも、そこに何の違いがあろうか。沼地であろうと死体の上であろうと、足を取られて行軍に支障が出るのは同じではないか。鎧や武器にとって良くないのも同じ。泥も腐肉も変わらない。草で覆い隠されれば尚更だ。両者に何の違いもありはしない──
「ムリナール」
思考に耽っている私に、不意に足下の死体が話しかけてきた。先程の声とは違うが、知っている声だった。私はそちらに目を向けた。
ムリナール。
それは、どういう意味だろう。
「おい。ムリナール?」
言っていることが分からない。
「大丈夫か、ムリナール。とりあえず起きろ」
誰かの名なのだろうか。
ならばこの死体は、誰を呼んでいるのだろう。そんなになってまで、いったい、誰のことを。
──誰?
そうだ、そういえば。
私はいったい、誰だっただろうか──
「──ムリナール!」
は、と吸い込んだ自分の息の音で私は目を開けた。
ふわふわと霧散しそうな自意識を、どうにかかき集めてつなぎ止める。意識の狭間でもたついているうちに、徐々に視界と思考が鮮明になってきた。視界には天井が映っていて、背には程良い柔らかさを感じる。自分は今、ベッドに仰向けになっているのだろう。
「大丈夫か? あんまり酷いうなされ方してたもんで、さすがに起こしたんだが」
私は声のする方に視線を向けた。
気遣うようにこちらを覗き込む青い瞳。浅黒い肌。癖のある黒い髪。──トーランド。
私はようやく合点がいった。先程まで夢を見ていたのだ。道理であらゆることが支離滅裂だったはずだ。
「……すまない、大丈夫だ」
私はベッドに肘をつき、やけに重い体をゆっくりと起こした。現実の方でも溜まっていたらしい涙が、まとめて頬を滑り落ちる。拭うハンカチも服の袖もなかったため、私は仕方なく裸の腕でそれを拭った。
「流石に無茶が過ぎたかねぇ」
ばつの悪そうなトーランドの声で、私は妙に体が重かった理由をやっと思い出した。そして同時に、昨夜の記憶が断片的に蘇ってきた。
窓を見遣ると、カーテンの隙間から薄く朝日が射している。殆ど寝た気がしないのにこの時間ということはつまり、そういうことだ。
「問題ない」
私は緩く首を左右に振って、それから深く息を吐き出した。無意識に緊張したままだった全身の筋肉が緩んでいく。それでついバランスを崩し、後ろに重心が傾いた。だが横から腕が伸びてくるのは分かっていたため、私はそのまま重力に任せて後方に倒れ込んだ。
力強い腕が、背をしっかりと包み込む。その体温がひどく心地良くて、私はうっとりと目を閉じた。
「もっかい寝るか?」
その声は、夢の中で探し求めた声と同じくらい柔らかく、そして温かかった。
そのせいか、じわりと目頭が熱くなった。だがここはもう夢の中ではない。物語の主役はもう終わりだ。
この現実を生きていくのに、涙は無用の長物だ。
私は再び薄く瞼を開けて、トーランドの視線を捕まえた。
「……このままで」
「ああ。ちゃーんと抱っこしといてやるから、安心してねんねしな」
「もう少し言い方というものがあるだろう」
流石に文句を付けたものの、トーランドは悪びれもせず軽く声を出して笑った。そして甲斐甲斐しく私をベッドに横向きに下ろしてから、自分もすぐ隣に寝転がった。
背中が、温かい両腕に包まれる。
その腕が、私の体をゆっくり引き寄せる。
心臓の鼓動が聞こえる。生きた人間の音だ。
私はゆっくり息を吸い込んだ。慣れた匂いに気持ちが落ち着いていくのを感じる。
微睡みながらほぼ無意識にすり寄ると、背に回された腕が私をきつく抱き寄せた。
生きた人間の温度に包まれて、私は再び眠りに落ちた。
もう、夢は見なかった。
了