ヤツにはどうやら、好きなひとが居るらしい。
気づいたのは、なんということの無いいつも通りの日だった。
少し違ったのは、適当にザッピングしてつけっぱなしになっていたテレビが、夕食後に恋愛ドラマを流していたこと。どことなく気まずかったが、意識し過ぎているのも子供っぽいような気がして。俺はベッドに背を預けながら、スマホを弄りながら何でもない風でドラマを眺めていた。
「……なぁ、それ見てんの?」
「一応」
「ふーん……」
俺と同じように、ヤツは向かいのベッドに凭れ掛かる。ヤツも興味を引かれたらしい。茶をちびちびと飲みながらテレビを見る姿は、同年代の癖に謎の風格があって、妙に様になっていて腹立たしい。
「アズサが好きそうだよな、こういうの」
「……そうだな」
「オマエは?」
「別に好きでも嫌いでもない」
「そ」
コイツはいつもそうだ。思ったことは何でもすぐ口に出す。お陰で静かにテレビを見ることすらままならない。はぁ、とそっと目を反らして溜め息を吐いた、その時だった。
「……あ」
「?」
ヤツが漏らした声に誘われて、テレビにもう一度目を向けた。画面には、夜景をバックに優しく抱きしめ合う男女。互いの頬に手が添えられ、潤んだ瞳で見つめ合い、どんどん距離が縮まって、そのまま。
「……っ」
恥ずかしくてつい、俺はまた目を反らした。ドクドクと鳴る鼓動が煩い。キスシーン自体が恥ずかしい訳ではなかった。ほんの一瞬でも、ヤツの方を物欲しげに見つめてしまったような気がした、から。
「わーすげ」
「……」
「アキタはさ、キスしたことあんの?」
「っある訳」
「だよなぁ、俺も」
コイツはどれだけ空気が読めないんだ。少しぐらい黙ったらどうなんだ。普段なら構わず口に出すところだが、今それをしたらきっと随分弱々しい声になってしまう。ヤツも少しぐらいは照れているのだろうか。そっと目線をヤツの方に向けてみる。
ヤツは頬をほんのり染めて、食い入るように画面を見つめていた。興味津々なのを隠しもしない、素直なヤツが少しだけ羨ましい、なんて絶対に言ってはやらないが。
「……いいなぁ。おれも、キス、してみてー……」
──思わず、ぐっ、と奥歯を噛んだ。それは一体、誰と?好きなアイドルか?いや、クラスの女子か?
コイツのように考えなしに口に出来たら良かった。俺には出来ない。お前の相手は俺がいいだなんて、そんな我が儘言ったって、ずっとお前の隣に居られる訳じゃない。分かっている。
「っ恋バナなら、他に適任が居るだろう。俺に振るな」
それこそさっきお前が言った、と続けようとして、はたと気づく。好きなヤツの好きなものは、無性に気になってしまうものだ。その気持ちは、自分にも身に覚えがある。
……なるほど、話は読めた。もしかしなくても、コイツが好きなのは。
「えー、やだよ。アズサに言ったらからかわれちまうだろ。茶化されるのは御免だぜ」
「……そうか」
ヤツの言葉がふわふわと宙に浮いて、まともに耳に入ってこない。ドラマの二人は飽きもせず、繰り返し口づけを交わしている。ヤツは今、どんな表情をしているのだろう。今度はなんだか、見たく、ない。
「あ、おい、どこ行くんだよ」
「風呂だ、風呂。先行くぞ」
「まだドラマ途中だぜ?」
「知るか」
顔も向けず、出来るだけ冷たく言い放つ。恋愛ドラマなんぞ、本当にどうでもいいんだ。だって、どうせああなりはしない。美人だと持て囃された経験は多いが、俺は紛れもなく男だ。女にはなれないし、なりたいとも全く思わない。
熱いシャワーを頭から被って立ち尽くす。風呂場の湿気た空気が妙に不快だった。
捨ててしまいたいと何度願ったことか。このまま、全て水に流れてしまえばいいのに。こんな気持ち不毛だ。必要ないと分かっているのに、どうして俺は。
「っ……くそったれ」
頬に熱いものが伝う。全てシャワーの水ということにしてしまいたかった。泣いた跡を残さないよう一度だけ涙を拭って、頬を両手で軽く叩く。
風呂から上がった時にはドラマは終わっていて、ヤツは自分のベッドで漫画を読んでいた。あがったぞ、といつも通り声をかけると、おー、と生返事だけが返ってくる。聞いているんだか、いないんだか。
自分のベッドに腰掛け、じっとヤツの顔を観察する。アレは放っておいたら多分寝るだろう。眠たげに細められた瞳は昼間と違い酷く無防備で、それを間近で見られることが堪らなく嬉しくて、虚しい。
「……アキタぁ」
「なんだ」
「なにジロジロみてんだよぉ……恥ずかしい」
「は?早く風呂行け汚物」
「軽蔑の視線だったか……」
ちぇ、と拗ねたように吐き捨てて、ヤツは気だるそうに立ち上がった。しかし数歩歩いたところで、あ、と何故か立ち止まる。振り返って俺の方を見たヤツは、なんでもなさそうにさらりと言った。
「そういや、アキタが前気になってるっつってたヤツコンビニで見つけたんだった。冷蔵庫にあるから、」
じゃ、と軽く手を振ってヤツは浴室へ消えた。言われた通り冷蔵庫を覗くと、今日新発売のアイスが二つちょこんと鎮座していた。たまたま見つけた、だけなのか、それとも──。
「あれ、まだ起きてたのか」
「……ツラヌキ、早かったな」
「いや、んなこたねぇと思うけど……」
無造作にタオルで頭を拭きながら、ヤツは不思議そうな顔をした。どうやら俺はかなり長い間呆けていたらしい。
「眠いなら先寝ちまえばいいのに」
「まっていたんだ」
「ん?……あ」
何か飲もうと冷蔵庫を開けたヤツが、中を見て固まる。オマエなぁ……と溜め息を吐くように言って、手に飲み物と例のものを持ち俺の向かいに座った。心なしかヤツの頬が赤いような気がする。
「食っていいって言っただろ」
「言ってないぞ」
「あれ?ん~……たしかに?」
「そもそも、買ってきたヤツよりこちらが先なのは、おかしいだろう」
「……別にいいのに」
そう言いながら、ヤツは俺のコップにも飲み物を注いでいく。こいつのこういうさりげない優しさが好きで、嫌いだ。雑に拭かれた髪からテーブルに滴る雫を、珍しく注意出来なかった。
別にいいのに、はこちらの台詞だ。コイツはいつも無意識に他人を甘やかす。ここは金沢ではないし、俺はお前の家族じゃないのに。
「ほら、食えって。今度こそ言ったからな!」
アイスの容器にスプーンを乗せ、ヤツはにかっと笑いながらそれを差し出した。今度こそ素直にアイスを受けとると、ヤツは満足そうな顔する。
話は読めている。ヤツも甘やかす側が性に合っているのだろう。だから、これは俺が特別な訳ではない。
「!うまいな」
「だな!買って正解だったぜ」
いつものも良いけどな、と言うヤツは最近少しだけスイーツに詳しくなってきている気がする。特別好きかと言われると多分違うのだろうが、俺の影響であることは確かなので、なんだかむず痒かった。
夜中、音がして目が覚めた。軽く目を擦りながら周りを見回すと、ヤツが何か寝言を呟きながら頻繁に寝返りを打っている。一体どんな夢を見ているのだろうか。寝言の内容までは聞き取れない。
布団は足元に丸まっていて、その役割を果たせていなかった。なんならパジャマが捲れて腹が出ている。全く、風邪を引いたらどうする。
そっとベッドを抜け出して、ヤツの傍に歩み寄る。起こさないよう気をつけながら、せっせと服を整え、布団をかけ直してやった。ベッドの端で今にも落ちそうになっている癖して、ヤツはとても健やかな顔をしている。
「……つらぬき」
声にもならないぐらいの小さな声で名前を呼んだ。ベッドの傍でしゃがみこみ、ヤツの寝顔を至近距離で観察する。夢のせいか心なしか嬉しそうだ。
眠気で判断力が鈍っている自覚はあった。けれど、ヤツの無防備な姿を見て身体が勝手に動いてしまった。
するりとヤツの頬に手を伸ばす。そのまま優しく、慈しむように頬を撫でた。
「んぅ……?」
──はっ、と気づいた時にはもう遅かった。ヤツのまぶたがうっすらと開いている。
マズい、何か言い訳は。いや、そもそもコイツの寝言が煩くて目が覚めたのだから、文句の一つぐらい言ってやれば。
「あきた、ちけぇ……ん、ゆめか……」
とろんとした表情のまま、ヤツはもにょもにょと呟いた。どうやらまだ寝ぼけているらしい。少しほっとして自分のベッドに戻ろうと思った──その時。
ぐっ、と頭を引き寄せられた。
何をされたのか、一瞬理解出来なかった。
「っ──お、おま……!!」
「へへ……おれアキタとキスしちまった……まったくもってしあわせな、ゆめ……」
だぜ……と言う頃にはもう寝息が混じっていた。ヤツの寝顔は変わらず穏やかで、動揺した様子もない。
いや、動揺も何もヤツは今夢のつもりで。まってくれそれもおかしいだろ、どうして俺に。まったくもって話が読めん。だって、寝言とはいえコイツ──幸せって。
「っえ、は……?」
コイツの視線の先に居たのは──俺?
「……なんかさぁ、オマエ今日元気なくね?」
次の日の朝、ヤツは憎らしい程いつも通りだった。眠そうにおはようを言って、どうでもいい話を俺に振りながら、うまそうに朝ごはんを食べる。ヤツの中では昨日の事は夢なのだから、当然だ。
そもそもヤツは覚えているのだろうか。かなり意識が怪しかったし、もしかしたら夢として記憶に残ってすらいないのかもしれない……ファーストキスなのに。
「ムシすんなよ、なぁ」
「っすまない、昨日寝付きが悪くて」
「大丈夫かよ?……今日、休むか?」
「そこまでじゃない。ありがとう、ツラヌキ」
「素直かよ」
まったくもって調子狂うぜ、なんて言いながらヤツは頬を掻く。いやお前は調子狂って無さすぎだろう。同室の男とキスする夢だぞ?これは覚えていない可能性の方が高そうだ。
流石に少し、面白くなかった。つい出来心で、深く考えずに口を出す。
「まぁ元はといえばお前の寝言が煩かったからなんだがな」
「げっ、マジか。それはわりぃことしちまったな……俺変なこと言ってなかったか?」
「……何を言っていたかまでは分からん。一体なんの夢を見てたんだ」
記憶にあるなら、これで少しぐらいは動揺を見せるだろう。不機嫌そうに睨み付けつつ、注意深くヤツの様子を窺ってみた。
意外にもヤツは、えへへ……と言いながらデレッと頬を緩めた。おい、なんだその反応は。
「実は昨日すげー良い夢見てさぁ」
「……は」
「あのな、俺──」
いや、待て、まさか言うのか。今ここで?おれは、心の準備がまだ。
「──イナホたんのライブに行く夢を見たんだ!」
「……はぁ!?」
「うわっ」
ダンッと机を叩いて思わず身を乗り出す。危ねぇ、と言いながらヤツは飲み物のコップを押さえた。
「ど、どうしたんだよ、いっつもマナーに煩いオマエらしくもねぇ」
「っライブに行って、どうしたんだ」
「は?いや、どうもなにも、普通に楽しんだけど……」
夢だからか俺にファンサしてくれて、だとか、俺の好きな四文字熟語は全力応援だ、だとか言って、ヤツはベラベラと熱く語り続ける。
「何変な顔してんだよ……」
いや──流石におかしいだろう。だってお前、昨日あの後も、何度か俺の名前らしき寝言を呟いていたじゃないか。確かに以前、本当に寝ているのか疑いたくなる程イナホたんイナホたん煩かった夜もあったが、昨日それは一度も聞いていない。
「オマエやっぱ今日おかしくね?一応熱測ろうぜ」
心配そうな顔で、ヤツは体温計を差し出してくる。仕方なく受け取り測ったが、やはり平熱だった。
もしや昨日の事は全て俺の妄想だったのだろうか。そう思いはしてもヤツの吐息の熱さも、ヤツの唇が掠めた感触も、唇に残っている。
「熱はない、か」
「だから少し寝不足なだけだと言ってるだろう」
「ホントかよ?」
「……お前も、嘘ついた癖に」
「?なんか言ったか」
「気のせいじゃないか」
ごちそうさまでした、をヤツより先に言って、急いで朝の支度を済ませる。話が、読めん。俺の認識が正しいなら、ヤツが嘘をついていることになる。だが、この男はこんなにも誤魔化すのが上手かったか?
コイツの傍に居ると心が休まらない。居ても立ってもいられなくて、その朝はいつもよりかなり早く家を出た。
パタン、とドアの閉まる音。一人取り残された部屋で長い溜め息が響く。様子のおかしい同居人が心配だが、本当に体調は悪くなさそうだったのでひとまず安心だ。
「……ハアァァ……う、そだろ、恥っず!……おれ、」
一人になれたことは寧ろ都合が良かった。
だって、こんな顔、アイツに見せられない。
「おれっ、あきたとえっちするゆめみちまった……!」