前世なんてものを思い出したのは、二度目の世で父の死を迎えた時だった。
警察官だった父は、強盗犯から少女を庇って死んだらしい。両手で抱えられるほどの骨壺に入った父を見下ろして、そのあっけない死に涙すらも出なかった。弱ければ死ぬ。この世界で当然のように蔓延る理不尽な常識を前に沸き上がった怒りはどこか他人事のようで、何か、別のものに引っ張られているような感覚がした。父の遺影が、葬式の風景が、降りしきる雨の向こうで重なって見える。漠然とした既視感。怒りと困惑が混ざり合って、そうして、水たまりに映った自身の酷い表情が過去の罪を引きずり出した。
例えるなら、足下の薄氷が割れるような絶望
例えるなら、内側から身を焦がすような激情
脳みそを直接殴られたような衝撃があった。
再生されるのは愚かな男の一生だ。まるで長編映画を飛ばし飛ばしで見ているかのように所々抜け落ちているが、夢や幻ではなく確かに自分の辿った記録だと本能的に理解させられる。
(――ここが、最初の分岐なのか)
あの怒りはきっと前世の自分のものだ。かつての自分は飲まれるまま強さに執着し、それ以外を切り捨ててきた。一方的に子供達に価値を付け、止めた妻を傷つけた。そうして歪めてしまった息子は死んで、敵になった。巡り巡った自分の罪が、あまりに多くのものを傷つけた。
(――やり直せ、ということだろうか)
タイムスリップではない。
なにせこの世界にヒーローはいない。個性は変わらず存在しているが、ヒーローという役職は存在せず、個性犯罪に対応しているのは個性持ちの警察官だ。その他職業によっては個性の使用が認められており、少なくとも十八年この世界で生きた記憶と前世のそれを比べれば、随分と平和な世と言えるだろう。それでも変わらず父は死んだ。ヒーローでなくともその志は変わらない人だった。ならば、こうなるのは運命だったとでもいうのだろうか。
(このままでは、俺もまた同じ道を辿るのか?)
父に憧れ警察官を目指していた。少なくともつい数刻前まで、そうなるのが当然の未来だと思っていた。だが同じような道を選べば、同じ罪を犯すかもしれない。記憶があっても、間違えたくないと思っていても、まるで敷かれたレールを走るように。
(……だが今、この手にはレールを変えるバーがある)
このタイミングで思い出したのは、もしかしたら同じ道を辿るなという警告なのだろうか。せめて冷と結婚した後に、子が生まれた後に思い出していたのなら、正しい家族の形を築くための努力は惜しまないと誓っただろう。運命などくだらないと切り捨てて、レールを捻じ曲げようと思えたかもしれない。けれど思い出してしまった今、「始めない」という選択肢を取ることが出来る。それならば、こんな自分と関わらない人生を送らせてやることが最良なのではないか。
なにせ、もう一度と願うのはただのエゴでしかないと、そう思えて仕方がないのだ。そんなことに巻き込むくらいなら、冷にはもっと相応しい男と幸せになってほしい。それすらもエゴかもしれないが、それでも。その方がきっと、彼女は笑っていられる。
だから決めた。
父の友人に「氷叢」が居ると知っていて、その娘と自分に見合いをさせる話が進んでいるのを知っていて、轟炎司はすべてを置いて海外へと飛び立った。
ふらふらと、あてもなく
無くした灯を探している
目的地のない旅は、思ったよりも苦ではなかった。前世の経験がある分修練を積んでいた個性を無かったことにするのは惜しいと、行く先々で様々な職種に就いた。海外では日本に比べ就職において学歴よりも個性の相性が重視されたため、炎熱系でかつそこらの熱には負けない身体を持つという点は非常に大きなアドバンテージとなったのだ。
時には消防士として火災現場に乗り込み、またある時には火山調査隊の一員として活火山に登った。雪国では道を塞ぐ氷塊を溶かし、強個性の子供に力の使い方を教えるなんて教師の真似事まで。そのどれもが、そこに住む人々にとって必要不可欠なことだった。
かつては考えもしなかったヒーローになる以外の力の使い方。世界はあまりにも広く、自分という存在はあまりにも小さい。いつだって沢山の選択肢があったはずなのに、それに気付くのに随分と時間がかかってしまった。
(……だが、何かが足りない)
日本を発って五年。
回った国の数は片手で数えられなくなり、それだけ様々なものを見てきた。まだ二十代半ばとはいえ満ち足りた人生を送っているという自覚もある。だが、新たな知識を得る度、美しい景色を見る度に、なぜか隣に視線が向くのだ。そこに「誰か」がいたのか、それとも「誰か」にそこにいてほしかったのか。抜け落ちたままの記憶の中に答えがあるのだろうが、一向に思い出す気配はない。
(……本当に思い出したければ、日本にいるべきなのだろうな)
現在地はアメリカ。雲一つない青空を見上げ、何かを掴むように手を伸ばす。この青空にすら物足りないと感じてしまうのだ。そうなるほど大切な人が家族以外にいたのかと、未だに心のどこかで信じられないでいる。
くるる、と頭上で渡り鳥が鳴いた。
この距離では聞こえないはずの羽ばたきが頭の奥で響く。
「――――」
それを口にする前に、背後で人の気配がした。
「――エンデヴァー?」
次いで聞こえたのは、今の世で呼ばれるはずのない名前。なにより、その名前を紡いだ声を聴き間違えるはずがない。
「……ッオールマイト!!」
反射的に振り返る。そこにいたのは折れそうな痩身でもなく、筋骨隆々なナンバーワンでもなく、至って健康的な体躯の青年だった。特徴的なふた房の前髪が風に揺れ、男は懐かしむように笑みを浮かべる。
「きみも“前”を覚えてるんだね」
「……ヒーロー名で呼んでおいて白々しい」
「いやぁつい、ね。きみのことを名前で呼ぶことって全然無かったから」
オールマイト。かつてのナンバーワン。雄英の存在しない世界では同じ学校に通うこともなく、このまま出会うことはないと思っていたがまさかこんなところで出会うなんて。しかも互いに前世の記憶を持って。
「なぜ貴様がこんなところにいる」
「なぜ、って言われるとそうだなぁ。旅行?ほら、私たちって前じゃそんなこと出来なかっただろう?だから、今回はぱーっと遊びたいなって思ってさ」
「……意外だな。身体も万全だろう貴様が、英雄以外を選ぶとは」
在り方も、力も、悔しいがナンバーワンに相応しい男だった。
だからこそ、例えヒーローという職業が無くともこの男はどうあれヒーローになると勝手に思い込んでいた。
「……きみもとっくに気付いてると思うけど、似てるようで違うんだよ、この世界は。いないのはヒーローだけじゃない。AFOも、そしてOFAも存在しない」
「…………」
「自惚れてる訳じゃないけどさ、この世界にオールマイトのような絶対的なヒーローは要らないんだ。……もしかしたら、そうすることでオールマイトとして出会った人たちには会えないかもしれないけど……私はそれでいいと思ってる。そう思ったから君もここにいるんじゃないのかい?」
変わらないな、と思った。
同時にそれが眩しくて、ああやっぱりこいつは嫌いだとも思った。
「俺は、逃げただけだ。やり直したいという気持ちが無かったわけじゃない、が。俺なんぞに関わらない人生を送ることが出来るなら、そのほうがいいと」
主語はなくとも、何を指しているかは伝わっているはずだ。よりにもよってこの男にこんな風に恥も外聞もなく惨めな部分を吐露出来るようになるとは、かつての自分が見たらその瞬間に最高火力を更新するだろう。
「きみがそれを選ぶなら私はなにも言わないさ」
男は静かに目を伏せ、ぱっと切り替えるように笑顔を浮かべた。
「なにせ平和な世の中だからね!ところでエンデヴァー!活火山の調査に行ったって本当かい!?」
「……なぜそれを知っている」
「炎熱系個性の凄い日本人がいるってネットで噂になってたんだ!きみ色んな国々を回ってたんだって?ジャパニーズ道場破りなんて言われてね。いくら個性の相性が良くたって、それだけで何でもできる訳じゃない。そういうところ、本気で凄いなって思ってるんだよ」
でもいいなぁ火山調査。私も一度は行ってみたい。にこにこと語る男に、この男はこんなにも騒がしいやつだっただろうかと首を傾げる。いくら見た目は二十代といっても、精神年齢は単純に累計して還暦をゆうに過ぎているはずだが。呆れ半分で顔を顰め、ふん、と鼻を鳴らす。
「行けばいい。……形はどうあれ、ヒーローが暇を持て余す世の中とやらだ」
らしくない言葉が、自分でも驚くほどすんなり口から零れ落ちた。
男は一瞬驚いたように目を見開いて、懐かしむように目を細める。
「そっか。それはきみの願いでもあったんだね」
その言葉は風の音にかき消され、届くことは無かった。何だと返せば、男はにっと歯を見せて笑う。飽きるほど見たナンバーワンのそれは、記憶にあるものと何一つ変わらない。そのままぽつりぽつりと互いの近況を話していると、あっと男が声を上げた。
「そうだ。料理をしてみるのはどうかな」
「料理?」
「大抵の料理は火を使うだろう?君ほど火の扱いに長けてる人はいないだろうし、舌も肥えてる。料理はいいよ。元気になってほしい。笑ってほしい。幸せな気持ちになってほしい。そんな気持ちが伝わってくる」
体験談なのだろう。細められた瞳が遠くを見つめる。お前にそんなことをする相手がいたのか。そう言おうとして、そういえば随分と弟子を可愛がっていたなと思い出す。
「いつかきみにも、そうしたい人が現れるよ」
まるでそうあることが既に決まっているとでもいうように、男は迷いなく言い切った。
それから月日は巡り、不本意ながら轟は八木に薦められたとおり料理の道に進んでいた。元々簡単な自炊は出来ていたが、流行りものや凝ったものは作れない。それでも、スキルがあって困ることは無いだろうと、これまでに出来た伝手を使って辿り着いたのは何故かピザ職人だった。火を扱うという点で向いていると思われたのだろうか。その男はイタリアでは有名な職人だったそうだが、何分厳しく後継者の不在に悩んでいたらしい。そんな男の元に素人である自分が受け入れてもらえるものかと流石に不安を覚えたが、互いに妥協を許さない方針であることが幸いし、いつのまにか周囲からも一番弟子と呼ばれるまでになった。
長年人の上に立つばかりであったが、己の未熟さを再認識できたのもいい経験と言えるだろう。そこからは早かった。あっという間に轟の腕は同業者の間でも知れ渡り、師の代わりに店に立つことも増えた。取材を受けた時はかつてのヒーローインタビューを思い出したが、出来るだけ強い言葉を使わないよう意識してみれば、それほど腹に立つことも煩わしいと感じることもなかった。心穏やかでいればこうも扱いが違うのかと驚愕したほどだ。そうしてまた少し前世の行いを反省して、轟はひたすら修行に励んだ。
そうして、三十を超えた頃免許皆伝を言い渡された。
お前なら自分の店を持てるとまで言われたが、この頃の轟は悩んでいた。ここまで極めた技術を、師の教えを仕舞い込んでおくのは勿体ない。だが店舗を構えるということはそこを拠点にするということだ。このままイタリアに住み続けるか、それとも日本に帰るか。
(……求めている「誰か」は、結局未だに分からんままだ)
日本に未練がないと言えば嘘になる。
こんなにも二度目の人生は充実しているのに、相変わらず胸の奥に空白が居座っている。日本に居なければこの空白が埋まることはないのだろう。寧ろ料理の腕が上がるほど、賞賛されるほど、その空白が目立って仕方がなかった。
決まらないまま時間ばかりが流れたある日、母親が危篤状態にあるという連絡を受けた。電話をしてきたのは子供の頃からいた使用人だ。どうしますかと問われ、少しの逡巡の後帰国する旨を伝えた。
母親とは日本を発ってからも定期的に連絡はとっていたが、それはあくまで自分の生存を伝える手段というだけで事務的なものだ。不仲なのかと言われるとそれは違う。轟は彼女を嫌ってはいなかったし、彼女も轟に対し何か理不尽を迫るようなことはなかった。ただ、好きかと言われると分からない。家族とくくるにはあまりに互いに無関心であった。
それでも母親は母親だ。もしものときは相続のあれそれだって発生する。そうして、仕事に向かうのと同じ面持ちで轟は二十年ぶりに日本に足を踏み入れた。
積もるほどではないがしんしんと雪が降り、白い息が空気に溶ける。
二十年という短くない年月は街の様相をがらりと変えていたが、前の記憶があるせいかそれほど驚きはなかった。高層ビルが建ち並び、電光掲示板がころころと切り替わる。流れるニュースをぼんやりと見つめていれば、「日本人初!ハリウッドで主演映画決定!」との見出しとともに見慣れた金髪が画面一杯に映し出された。どうやら知らぬ間に随分と有名人になっていたらしい。しかもその映画のテーマがヒーローとなれば、もう笑うしかなかった。
「はっ、結局貴様はヒーローじゃないか」
怒りも羨望もなく、ただすとんと腑に落ちた。
短いニュースはあっという間に別の話題へと切り替わり、赤信号は青に変わる。途端に周囲がざわざわと騒がしくなったように感じるのは、意識が他所へ向いていたからだろうか。掲示板に向けていた視線を歩道へと戻し、流されるまま一歩前へと踏み出した瞬間。
視界の端に、赤が映った。
息が止まる。
目が離せない。
手のひらほどの雨覆羽と、すれ違い様にほんの一瞬見えた特徴的なアイライン。
「――ホークス」
今まで一文字だって浮かばなかった「誰か」の名前。ヒーローが暇を持て余す世界で、隣にいてほしいと願っていた「誰か」。それをようやく思い出した。記憶の奔流に目の前が点滅する。
今ならまだ間に合う。
腕を伸ばせば届く距離に、赤い羽根を携えた背中が見える。
走れば追いつける。
ホークスは振り返らない。剛翼が、この声を拾わないはずがないのに。もう一度名前を呼べば、振り返るかもしれない。なのに、喉の奥がはりついたように言葉が出なかった。
(覚えてないのか)
一歩分距離が開くたびに、欠けていた記憶が埋まっていく。
(そうだ。ヒーローが暇を持て余す世界を望んだのは、あいつがそう言ったからだ)
いつか二人で世界を旅してしみたいと、そう言った青年の横顔を覚えている。旅行雑誌を見せてきてはあれがしたいこれがしたいと楽しげに語る彼に、その時の自分は行けばいいなんて言ってやれなかった。きっとホークス一人なら、その羽根でどこへでも行けたのに。
(――一緒に行きたいと、お前はそう言っていた)
大きな戦いの後互いに満身創痍の中ホークスに好きだと言われた。ヒーローでなくとも隣にいる権利がほしいと。本気だと分かっていて、いつだってその瞳の奧に憧憬以外の感情が存在していることに気付いておいて、それを受け入れなかったのは自分の方だ。
年齢差。同性であること。家族への償い。
言い訳ばかりを並べてその思いを拒んだ。ホークスは、まるでそう返ってくるのが分かっていたかのように「分かりました」と言って、それからも変わらずナンバーツーとして傍にいた。心を殺してまで献身を重ねた青年に何一つ返させないまま、共にいることに居心地の良さを感じていた自分はなんて酷い男なのか。
(なのに今更隣にいてほしいなど、虫が良いにも程がある)
中途半端に開いたままの手を握りしめる。
覚えていないならそれでいい。その方が普通なのだから。
(今度こそ、俺なんぞに囚われるな)
献身と称されるほどの愛情を受けてなお応じることのない男のことなど忘れて、幸せに生きていてほしい。知らぬ間に止めていた息を吐き、目元を手で覆う。
また、言い訳を重ねている。
家族のこともホークスのことも、関わらないほうが相手のためだと言い訳を並べて結局はただ、人との繋がりに怯えているだけだ。
――もっと自分のために生きろと言ったことがある。
『俺結構自分のために動いてますよ?寧ろ自分勝手な方で』
『来世の俺のために今から徳を積んでるんです。そうしたら、また来世でも貴方に会えるかもしれないでしょう!』
人の溢れるこの街で、二十年ぶりに帰国したその日に出会える確率は一体どれだけ低いだろう。どこの学校に通っているかも知らない。どこに住んでいるのかも知らない。砂漠から一粒の砂金を見つけるような奇跡を、たった今自分の手で無為にした。
「……すまない」
呟きは雑踏に消えていく。青年が積んだ徳とやらを踏みにじってしまったように思えて、どうしようもなく胸が痛んだ。
一度目がホークスの善行によるものなら
二度目は一体何がもたらした奇跡だろうか
冬を越え、春を通り越して夏も終わる頃、轟は再び帰国した。
連絡先を教えた覚えはなかったが、どこから情報を入手したのか八木から手紙が来たのだ。他にも前世の記憶を持っている人が居たから、是非集まらないか。と。最初にその手紙を読んだ時、返事をするつもりはなかった。けれどその後に続く文章を見て、気付いた時には帰国のためのチケットを用意していた。
――ホークスくんのことで話がある。私もまだ詳細は知らないんだけど、キミの助けが必要になるかもしれない。
「~~手紙を送ってくるなら貴様の連絡先くらい書かんか!」
帰国する旨と自分の連絡先を書いて送ったが、それが八木の元に届くまで少なくない日数がかかる。それ以外の方法でコンタクトを取ろうにも、俳優として活躍しているらしいあの男の事務所に連絡をしたところで、厄介なファンと思われて終わりだろう。連絡手段が無ければ帰国したところで出来ることはない。そう分かっていても、一刻も早く帰らなければという焦燥が勝った。
なぜ今になって八木がそんなことを言い出したのか分からない。もしかしてホークスに何かあったのか。もしかして、思い出したのか。だが、後者であればそう手紙に書いているはずだ。今も昔も、轟にとってあの青年が特別な存在であることは八木にはどうせ気付かれているのだから。
その日の最終便に乗って日本へと向かい、空港に着く頃には殆ど丸一日が経過していた。時間は夜中の一時。今から実家に帰るのは流石に遠いと適当な宿を探せば、歩いてすぐのところにあるホテルの予約を取ることが出来た。
まさかこんな形で一年とおかず帰国することになるとは。イタリアでは見ることのない夜のネオンが街全体を照らしている。夜とはいえじっとりと熱を孕んだ風が頬を撫で、その不快感を誤魔化すように空港で買ったペットボトルの水を一口飲む。
(こちらの夏はこんなにも暑かったか……ん?)
ふと見上げた歩道橋の上に、人影があった。それは眼下を行き交う車をただじっと見つめており、今にも飛び降りるんじゃないかと、まるでそこだけ世界から切り取られたような静けさを纏っている。街頭の逆光でその表情は見えない。ただ、その背中にある羽根の色だけははっきりと見る事が出来た。
「ホー、クス?」
美しい臙脂色。前回すれ違った時は小さいながらも羽根は揃っていたように見えた。だが今は、不揃いな羽根が歪な影を揺らめかせている。どくんどくんと、心臓が嫌な音を立てる。未だ鮮明に残るヒーローとしての記憶が、経験則として、目の前の人影が何をしようとしているのか解を出す。
ひょい、と人影は歩道橋の欄干の上に立った。やはり顔は見えないまま、羽根が一枚、二枚と落ちる。羽根を減らすと飛行能力が落ちるというのに、みるみるうちに殆ど全ての羽根が取り外される。
「まて」
そのままぐらりと上体が前のめりになって、あまりにも容易に、その両足は欄干を蹴った。
「――――ホークス!!!」
両足から炎が噴き上がり、勢いのまま跳躍をする。耐火性でない靴はあっけなく黒焦げになったが、そんなことを気にする余裕はない。一秒でも遅い。もっと速く、光の速さで前へ。腕の筋が悲鳴を上げるほどに手を伸ばし、無気力に放られていたホークスの手を掴む。そのまま身体を引き寄せ、抱き締めたまま転がるように歩道へと着地した。
「……は、……はっ、……ッ」
日常的に個性を使い、身体も鍛えていた。だが訓練と実践が違うように、瞬間的に上げた火力によって僅かに息が上がる。いや、きっと呼吸が落ち着かないのはそのせいではない。腕の中で小さく上がる呻き声に、まさか火傷させていまいとその顔を見る。一回目の邂逅では殆ど後ろ姿しか見えなかったため気付かなかったが、髭は無く、前世で出会った当初の姿よりも随分と幼く見えた。なぜあんなことを、喉元までせり上がった言葉は吐息となって空気に溶ける。
「…………あおぞら、」
「ッおい!」
焦点の合わない琥珀色はぼんやりと轟を映し、そのままかくんと首が折れた。
慌てて呼吸を確認すれば、すぅすぅと寝息が聞こえてきる。意識を失ってはいるが脈拍は正常だ。暫くすれば目を覚ますだろうが、それまでここで待つわけにもいかない。パッと見る限り手荷物も無く、着の身着のままといった様相だ。
(……通報されなければいいが)
起こさないように抱え上げ、放った荷物を回収してホテルへ向かう。
抱えた時点で既に違和感はあった。育ち盛りの若者であるはずのその身体はあまりにも軽いのだ。前世では飛行を可能にするためにあえて軽量化していた部分もあっただろうが、それよりも軽いとはどういうことだろうか。それに、夏も終わりかけているとはいえまだまだ暑いはずなのに長袖を着ている。目の下の隈も、顔色が悪く見えるのも、街頭に照らされているせいではない。
嫌でも過ぎる悪い予感。歩道橋から落ちていく光景が何度も瞼の裏を掠めて、ホテルへ向かう足取りは重くなる。
やっとの思いで辿り着いたホテルでは、堂々としているのが功を奏したのか、特に不審に思われることもなくチェックインを済ませることが出来た。一般的なシングルベッドでは狭いからとダブルベッドの部屋にしていたのも要因のひとつだろう。
ギリギリで形を保っていた靴が役目を終えたようにぼろぼろと崩れるのもそのままに、ホテルのベッドへホークスを寝かす。無防備に投げ出された右手を手に取りそっと袖を捲り上げれば、まず見えたのが、少し力を込めれば折れてしまいそうな細い手首。さらに捲れば、紫色に変色した打撲痕に丸い火傷の跡、所々切り傷のようなものまである。それは明らかに他者からの暴行を受けた痕跡だった。
「……なぜ、お前が」
最近出来たものばかりではない。火傷の跡に至っては確実に数年は経っているだろうものもある。
――自分なんかと関わらず幸せに生きてくれればいいと願っていた。
父親は前世と同じような最後を迎えた。八木はフィクションの中でヒーローになった。自分は、前世の記憶がなければ警察官になり冷と結婚していたはずだ。ほんの僅かに違うだけで、前世も今も、同じような道筋が用意されていたのだとしたら。
ヒーローだったホークスの過去。父親は犯罪者で、エンデヴァーがそれを逮捕し母親と二人きりになった。その後事故現場で個性を用いて人命救助を行ったことで、公安にその素質を見いだされた。
『俺は貴方に救われたんです。貴方という光があったから、俺は地獄みたいな環境でも正しくありたいと思っていられた』
『俺にとってはあの日からずっと貴方がナンバーワンなんですよ』
冷や汗が頬を伝う。
この仮定が正しいとは限らない。AFOがいない以上、奴が引き起こした事件は当然起こらないだろうし、前世でAFOによって運命を狂わされた人間がこの世界でどういう人生を辿るかなんて分かりようがない。
けれど、少なくとも轟の生まれた家は前世と同じだった。多少の違いはあれど、顔も名前も性格もそう変わらなかった。ならばホークスは、鷹見啓悟は。
轟にとっての分岐点が父親の死であったように、青年にとっての分岐点が父親の逮捕だったとしたら。そこで救われるはずだった「鷹見啓悟」の運命を変えてしまったのは間違いなく轟だ。
訪れるはずの救いは訪れず、自ら死を選ぶほどに追い詰められて。あの日追いかけてその手を掴んでいたらと後悔してもしきれない。数日でも、数秒でも早く救えたかもしれないのに。
「…………う……」
固く閉じられた瞼が僅かに震える。ホークス、とそう呼ぼうとしてやめる。名乗られてもいないのに鷹見と呼ぶのもおかしい。記憶のない彼をどう呼べばいいのか分からず、悩んだ末に大丈夫かとありきたりな台詞を吐いた。
「…………なんで」
現れたのはどろりと濁った琥珀色で、そこにかつて在った光はない。
「なんで、死なせてくれなかったんですか」
「……ッ」
「やっと終わると思ったのに、どうして?正義感ですか?見ず知らずの人間助けてヒーロー気取り?生きてることが苦痛なのに、そこから助けてくれるわけでもないのに、そんなくだらない理由で手ェ出さないでくださいよ」
それは紛れもない怒りの感情だった。青年から初めて向けられた負の感情に思わずたじろぐ。何か言葉を返さなければ、彼はそのまま飛び出していくかもしれない。当たり障りのない言葉では駄目だ。中途半端な気遣いはきっと見抜かれる。
「……気まぐれでも、正義感でもない」
「じゃあなんです?」
不信感と疑惑に染まった目は、これまで信頼出来る大人がいなかったからだろうか。死に瀕した動物が威嚇するような拙い殺気が剥き身のナイフのように轟を貫いた。それ自体はなんてことないはずなのに、酷く胸が痛む。そんな目をしないでほしい。
(……ああ、あの日八木が言っていたのはこのことか)
幸せになってほしいのだ。
今度こそ、
「お前に惚れている。だから助けた」