4月のお題 風邪をひいた受けを看病する話 台葬「あかん、寝とったわ」
枕元のタオルでウルフウッドは首筋から胸元へと垂れ落ちる汗を拭った。
空調が管理された寝室は快適なはずなのに耐えがたい寒さを感じて、身震いしながら毛布を肩までかけ直す。一人きりの部屋はしんと静まってウルフウッドを少し不安にさせる。
仕事で気にかかっていた件が落ち着いた途端、安心して気が緩んでしまったのかウルフウッドは体調を崩してしまった。
普段は食欲旺盛なのに、今日は昼食の時間になっても食欲も全く沸いてこず気分も優れない。積み重なった疲労が原因かとも考えたが、それにしては全身が重たすぎる。
続けざまに背中をぞくりと悪寒に襲われ、ウルフウッドは様々な医療器具と共に置かれた体温計を身震いしながら手に取った。シャツのボタンを緩め測定すると体温は三十八度を超えていた。
「うわ、まじか……」
想像を上回る高熱にため息と共に呻きが漏れる。ウルフウッドの職業柄、発熱したまま勤務を続けることはできない。
同僚にも促され、やむを得ずウルフウッドは仕事を早退することとなった。自宅に戻るなりパジャマに着替えたウルフウッドは満身創痍の体をベッドに横たえた。
◇ ◇ ◇
少し目を閉じて休むだけのつもりが静養を求めていた体は、すぐさま意識を手放してしまったらしい。
失神するような眠りから覚醒したウルフウッドは、現在の時刻と自分がどこに居るのかを、咄嗟に判断できなかった。
「あ、せや……早退したんや」
カーテンを閉め切っているせいで時間の経過を推察することもできず、どのくらい眠っていたかもわからない。
「んん……っ、痛った」
縮こまっていた体をほぐすように両腕を伸ばすと、節々が軋むように痛んだ。高熱のせいで炎症が起きているらしい関節を手のひらでさすると自然に弱々しい声が漏れる。
「はぁ、……ほんま、情けないわ」
「医者の不養生?」
返事が戻ってくるとは思わず、ウルフウッドは驚いて反射的に半身を起こす。声の主に返答しようとしたがカラカラに渇いた喉では、言葉にならず大きく咳き込んでしまう。
「っ、おど、……ごほ、ごほっ」
「大丈夫?」
ヴァッシュは慌てて駆け寄ると、パジャマ越しにそっと手を添えて病人の背中を支えた。
「ごめん、ゆっくり深呼吸して」
「病人を脅かす奴があるか」
「起こさないようにしなきゃと思って」
病人の眠りを妨げぬように、音を立てずに帰ってきたヴァッシュにウルフウッドは苦情を言う。その語気はいつもよりも弱く感じられて、ヴァッシュますます心配になった。
背中に手を置いたまま床にしゃがみ込み、少し赤らんだウルフウッドの顔を見上げた。寝起きのせいも有るのだろうが、瞳がやや充血し潤んでいるようだ。
手にしていたコンビニの袋から、スポーツ飲料を取り出しキャップを外して手渡すと、ウルフウッドは喉を鳴らして水分補給をした。
「もう、夜なったんか?」
ヴァッシュが家に帰ってきたと言うことは、それなりに深い時間なのだろうとウルフウッドは時計を探す。
「ううん、まだ十七時前だよ」
「なんや、えらい早いやないか」
「今日は僕の仕事は落ち着いてたからね、早上がりさせてもらった」
「……すまん」
「ウルフウッドのせいじゃない、休日出勤の連続だったから。この機会にそろそろ代休消化してくださいって、婦長に追い返されちゃって」
柔らかな垂れ目をくしゃりとさせてヴァッシュが笑う。その表情を見た途端、ウルフウッドの胸に沸いてた寂しさと不安がふわっと溶けた。
ヴァッシュはペットボトルを受け取ってから、再度手のひらで少し汗ばんだウルフウッドの背を軽くさすってやる。
落ち着き始めたところでその手を半身を起こしたウルフウッドの頭へと伸ばした。艶やかな髪を撫でてから、体温を測るように額に手を滑らせる。
帰ったばかりでまだ少し冷えているヴァッシュへ伝わる体温は、普段の彼とは比べものにならないほど熱い。茹だるように赤くなった頬が痛々しく、そっと指先を下ろしてなぞる。
「ずいぶん熱いよ。今日はしっかり寝なきゃ。僕リビングのソファーで……」
「感染性やない熱って検査済みや」
万が一、感染の可能性がある発熱ならば必ずウルフウッドはヴァッシュに連絡をくれただろう。それがないのであれば、隣にいても安心なのだと言われずとも分かっていた。
抵抗がないことを確認すると労るようにヴァッシュは、ウルフウッドの頬を撫で続ける。
「いやぁ、それにしたって健康優良児の君が倒れるなんてね。小児科のナースステーション、大騒ぎだったよ。鬼の霍乱? 拾い食いでもしたの? って」
ヴァッシュとウルフウッドは総合病院で医師として働いている。外科医のヴァッシュと小児科医であるウルフウッドは、業務内でも連携することは稀だ。病棟も離れているので院内でも会うことはめったとない。
それでも、ことあるごとにヴァッシュは職場でウルフウッドの話を持ち出し、惚気倒すので院内で彼らが付き合っていることは周知の事実となっていた。
当然、ウルフウッドが務める小児科でも二人が付き合っていることは誰もが知る所だ。
「拾い食いなんかするか、子ども扱いしよって」
小児科の看護師達の話によると、ウルフウッドは子ども達から引く手あまたの大人気医師らしい。いつも診療を怖がったり、泣き出してしまう子ども達も彼の手にかかると途端に良い子になってしまう。
注射や採血から徹底的に逃げ回る子ども達も、ウルフウッドの手にかかると魔法の様にスムーズに終わってしまう。
小児科での勤務歴が一番長い師長も、こればっかりは敵わないと話しているのがヴァッシュの耳にも届いていた。
「ちょっと気になることがあったから、帰りがけに小児科に顔出したんだけどさ」
そこまで話して先ほど看護師にこっそりと告げられた言葉を思い返したヴァッシュの語尾が、表情と共に緩む。
「なんや、そないな顔して」
「婦長がさ『ウルフウッド先生、風邪のせいで目元がうるうるしててちょっと赤らんでいるのが、大変可愛いらしかったですよ。早く帰って看病してあげてください』って言うんだよ」
「うる……うる?」
「そんな風に言われちゃ、急いで帰らなきゃって思うじゃない」
「あ、あほか。それ真に受けて帰ってきたんか」
「だって、可愛い君は見逃せないから」
軽口をたたく、ウルフウッドの様子が発熱しているにしては、元気そうに見えてヴァッシュはほっとした。
頬に当てた手を続けてヴァッシュはすりすりと撫でつけると、ウルフウッドは安心したように、体の力を抜く。
「外科の先生に、看てもらう事なんぞないわ」
「そんなこと言わないでよ。僕内科の先生からもスカウトされてたんだから」
「内科だけやのうて、全部の科目やろ」
「でも子ども相手だけは、君に勝てなかったな。何やっても、ウルフウッドの方が人気者なんだもん」
「昔っから小さい子ども好きやねんなぁ。そないに愛想ええ方ちゃうけど子どもからも懐かれるし」
「学生の頃から、小児科医になるって豪語してそのままちゃんと小児科医になったは君だけだったね」
医大生は難関の入学試験に合格し六年間の修学後、医師国家試験を受験する。その試験は、すでに医師になるための知識を十分に備えた者だけが受ける試験なので、実は合格率は意外に高い。
それでも、容易ではない上に試験は年に一度しか実施されない。受験から厳しい学生期間、現場実習を乗り越え医師免許取得できた後、さらに二年間の臨床研修期間へ入る。
研修期間中は様々な診療科を経験することで、幅広い診療能力を身につけると共に自身の適性を見極める期間となる。
最終的に希望と本人の資質を勘案され、各診療科に配置されるのだ。
もちろん当人の意思は考慮されるが病院だって組織だ。意に沿わない人事配置される場合もあるが勤務医である以上、新人医師はその采配に従わざるを得ない。
しかし、そこはしたたかなウルフウッドのこと。学生時代から、付属の大学病院内の小児科でアルバイトしていた。
当時まだ学生の彼にできることは雑用のような仕事しかない。同級生が学歴を生かして家庭教師や塾講師などで高額時給を得ている間も、ウルフウッドは少しでも現場にいたいと助手の仕事を選んだ。
病院という非日常的な場所で、親元を離れ治療を受けなければならない子ども達のストレスが少しでも緩和できればと心を砕き接して来たのだ。
そのウルフウッドの様子を間近で見てきた看護師をはじめとした医療関係者、患者の保護者等からの信頼は、研修医時代を経て海よりも深く山よりも高くなった。
そんな経緯もあって彼は、多くに望まれてまっすぐ小児科に新人医師として配属されることになった。
もともと人手はいくらあっても足りない医療現場だ。そこからは、目が回るような慌ただしい毎日をふたりは過ごしてきた。
「……ほんで、どうなん?」
すっかりその手に顔を預け、視線を上げたウルフウッドは普段よりも回らない舌で問う。その口調が甘えているように思え、ヴァッシュは思わずニヤけてしまう。
「どうって、君が可愛いかって?」
発熱していてほんのり染まった頬に、更に朱が走り目尻まで赤くなる。じゅわっと中から薄い肌を通じて熱が染み出してくるようにヴァッシュへと伝わる。
「病人にみなまで言わせるな」
「ごめん、弱ってる君なんてめったに見られないから」
甘え下手なウルフウッドが、こうして素直に態度で示す事は年に数度あるかないかだ。不謹慎だけど、少し嬉しくなってヴァッシュはその様子をうっとりと見つめた。
ヴァッシュの言葉を待つように、長いまつげを揺らしてウルフウッドはゆっくりと瞬きをする。ヴァッシュを招き入れるように掛け布団の端を持ち上げた。
「ちゃんと言うたら、隣入ってええで」
「え、いいの?」
「言うたらや」
ん。と、促すように
「話で聞いてたよりも可愛くて、弱ってて心配になった。あと、ちょっとえっちで困ってる」
「ははは、あほ言いな! ええよ、入り」
「冗談じゃなくて、本当に困ってるんだよ」
つられて笑いながらヴァッシュがベッドに潜り込むと額がくっつきそうなほどに体を寄せる。普段から、子どものように高い彼の体温がまるで湯たんぽのように更に暖かかった。
「うわ、あったかい。よく眠れそう」
「おどれも無理ばっかしよるからな、わいと一緒にちいと休も」
こんな時だというのに自分の事よりヴァッシュの心配をするウルフウッドに、ため息を漏らす。
「また僕の心配して。だめだよ、今日は君が看病されるの」
「疲れとるんは、一緒や」
「そりゃそうだけど」
ぴたりと密着したまま、とりとめもない話をウルフウッドに眠気が訪れるまで語り続ける。
「そういえば、君が気にかけていた子。すっかり安定して、お話しできるようになってたよ」
「ほんまか? よかった」
鼻先が触れるほどに顔を寄せ、ウルフウッドが懸念している患者の状態を伝えると、心からほっとしたように相貌を崩した。
「早くお前に会いたいって」
「さよか」
「元気になって、先生とデートするってぇ。どうするの?」
「デート? もうそんな言葉知っとるんか。最近の子はませとるな」
「でもごめんね、ウルフウッド先生は僕のだからデートは三人で行こうねって言っといた」
まるで内緒話を擦るように、こっそりと耳打ちをするとただでさえ赤い頬を更に染めた。
「なに張り合うとるんや」
「ライバルには真摯に向き合わないと」
話しながらヴァッシュは長い腕をウルフウッドの背中へ回して、彼の呼吸に合わせてゆっくりなで続ける。
「そうそう。君が体調不良だって知った子ども達から、たくさん手紙預かってきたんだよ」
「手紙?」
「元気が出る手紙らしいから、後で一緒に読もう」
「さよか、返事も書かななぁ……。ふぁ」
ヴァッシュの穏やかな声と子ども達の様子を聞き安堵したウルフウッドの瞼が次第に重たくなってくる。
目を閉じると、院内のプレイルームで患者の子ども達に囲まれたヴァッシュが一緒に手紙を書いている様子が脳裏に噛んでウルフウッドの口元が自然に綻んだ。
「そうだ、君の好きなアイス買ってきたから」
ヴァッシュを聞きながらウルフウッドは、うつらうつらし始めている。
「ダッツの……バニラ?」
「そうだよ、チョコチップもある。欲しいなら、追加で買ってきても言い」
「ん、いっしょに」
「うん、あとで一緒に食べようね」
夢現のウルフウッドがこくんと頷いたのを確認して、ヴァッシュも目を閉じた。
「おやすみ、ウルフウッド」