夜空の求愛歌『こっそり外まで来てくれないか?』
夕食を食べて夜食も終えてなんとか眠れそうなくらいに腹が落ち着いた真夜中に、内緒話を囁くようなMCからのメッセージが届いた。空になった皿や袋を片付けていた手を止めて返信をする。
『おやつを持って、すぐに行く。』
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待ち合わせ場所は嘆きの館からそこまで離れていない丘の頂上。ボロボロのベンチがひとつ置いてあるだけの公園とも広場とも言えない狭さだったが、夜空がよく見えて好きな場所のひとつだ。MCとベルフェとの三人で星を見に来たこともある。
俺が頂上にたどり着いたことに気づいて振り返ったMCは自分のベットから剥いできたのか白いシーツを羽織っていた。
「ベール! 早かったな!」
にっ、と自分を捉えて嬉しそうに笑うMCに胸が暖かくなるのを感じながら、シーツを引き摺ってこちらに駆けてくる相手を迎える。
「なにかあったのか?」
問いかけると月明かりを反射して煌めく真紅が、にんまりと悪戯に歪んだ。
「じゃじゃーん!!」
バサァッ、と身体を覆っていたシーツから脱皮するようにMCが飛び上がり…そのまま宙に浮く。十数センチは差があるはずの身長差をゼロにして真正面から自分と視線を合わせてきたMCの背中からは聞き覚えのある振動音が響いていた。
「っ?!」
MCの背中に羽が生えている。目にも止まらぬ速さで振動してその身体を中空に縫い止めているのは間違いなく自分に生えているものと同じ昆虫の…蝿の羽だ。
「へへっ、驚いたろ! 師匠…ソロモンに教わって『羽の生える薬』を作ったんだ!!」
得意気に目の前で空の小瓶を取り出したMCは、少しぎこちない飛行で俺の周りを飛んで見せた。何周か回った所で足元を確認しながら着地をする。
「自分に羽が生えて空を飛ぶって、ちょっと夢だったんだよな! カッコイイだろ?」
興奮した様子で背中を向けて「見てくれ!」と言わんばかりに羽をゆっくり震わせた。背中が大きく空いたインナーが晒す肩胛骨の根元辺りから、薄い一対の羽が膝裏まで伸びている。月光に透けて薄い玉虫色がキラキラと浮かぶ透明な羽を模様が黒く縁っている様はどこか幻想的で美しかった。
「すごく、綺麗だ。」
素直に感想を伝えると満面に喜びを浮かべて応えてくれた。きっと、MCの事だから一番に見せてくれたんだろう。思わず上がる口角は、ふと過ぎった考えにゆるゆると下がってしまった。
「でも、別の羽じゃなくて良かったのか? アスモとかマモンとか、ルシファーみたいな羽の方が人間は好きなんじゃないか?」
昔、よく人間界へベルフェやリリスと遊びに行った時に人間達が憧れの眼差しで見ているのを知っている。その視線が向かうのは天使やルシファーの様に幾重にも重なった柔らかそうな羽根や力強い羽ばたきを見せるマモンやアスモデウスの翼だった。自分の羽が嫌いな訳では無いが昆虫、それも蝿を元にしたそれに憧れる人間を見たことがない。
投げ掛けられた疑問にMCはキョトン、と目を丸くした後腕を組んで少し考え込む。困らせてしまっただろうか、それとも後悔をしているのだろうか。
モヤに包まれそうな思考を「ブブブ」とMCの羽音が掻き切った。ハッ、と視線を上げれば考え込んでいたのは自分の方だったみたいだ。正面に向き直ったMCは両手を伸ばして俺の頬に触れる。
「確かにふわふわのやつもコウモリやドラゴンみたいなのも好きだぜ。
でもな…やっぱオレにとって一番カッコイイのはベールの羽だなって。光に透けてキラキラしたり、薄いのに力強く震えるお前の羽が好きなんだ!」
晴れやかに言い切ったMCの言葉にモヤのかかる隙なんてあるはずもない。今度こそ自分の口角が沸き立つ心と一緒に上がっていく。
「そうか。…なんだか少し照れくさいな。でも、すごく嬉しい。俺とのお揃いを選んでくれてありがとう、MC。」
照れくささと選んでもらった嬉しさが混ざり合って胸を震わせる気持ちに変わっていく。それが溢れてしまいそうでどうしようもなく触れたくなって傷つけないように気をつけてながらそうっ、とMCを羽ごと抱き寄せた。
「ははっ、羽からも感じる…ベールの手温かいな。」
同じ気持ちを返してくれるようにMCからもゆっくり自分の背中に手が回されて、じんわりと熱が伝わってくる。気持ちも鼓動も重なって心地良い。それでもすぐに物足りなくなってお互いの息も渡し合う様に唇を重ねた。
「ん。」
「はふっ…な、ベール。」
限界まで繋いだ呼吸を愛おしげに吐きながら、MCが囁く。
「一緒にオレの夢、叶えてくれないか?」
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「あはははっ!! 自分の羽で風を切るってこんな感じなんだな!
すっげー気持ちいい!」
随分と羽での飛行に慣れたMCが夜空の中で気持ちよさそうに目を細めた。「二人で空を飛びたい」というMCの夢を叶えるために、ぎこちなかったMCの飛行にアドバイスが欲しいといわれたが元々MCは運動神経がいい。そこらの下級悪魔には負けないくらいのフィジカルがあるのだ。すぐに人間には無いはずの羽の扱いを覚えていった。
今ではスピードの調節も旋回や着地も危うさは無い。まるで妖精のように楽しげに夜空を飛び回っている。その様子を見ているだけで、極上のチーズバーガーを腹いっぱいに食べた様な満足感が胸を満たしていった。
「楽しそうでよかった。MCは筋がいい。」
「ベールがコツを教えるの上手かったんだよ! 魔法薬、ストックしておかなきゃな。こんなの今夜だけなんてもったいないぜ!」
「俺はMCをだき抱えて飛ぶのも好きだから、たまにでいい」
「そっか? じゃあ今しか出来ないこと、他にも無ぇかな。一通りやっておきたいぜ。」
空を滑るように飛行しながらできるようになったことを指折り数えていく。そんなMCの、自分より一回り小さく懸命に震える羽を見て思いついたことを口に出した。
「MC、求愛行動って知ってるか?」
「鳥とかが踊ったりする、ってやつだっけ?」
「そういうのが蝿にもあるんだ」
「へー! どんなのなんだ?」
きっと興味を持ってくれる、と思っていた通りわくわくとした表情のMCがこちらに身を乗り出す。それに合わせて右の羽だけを力いっぱい震わせた。
ヴンッッ!!
「おわぁっ?!」
周りに浮かんでいた雲が散ってしまうほど大気が強く震えて吹き飛ばされそうになったMCの手を掴む。
「びっ…くりした。」
「さっきのお返しだ。」
「えっ、根に持ってたのかよ?!」
「そういう訳じゃない。たまには俺もMCを驚かせてみたかったんだ。どうだ?」
「めっちゃくちゃびびった! 片方だけとか器用なことすんなぁ…。」
衝撃に対する驚きはすぐに
「今のが蝿の求愛方法、こうやって左右交互に羽を震わせて歌を奏でるんだ。」
「へー! 意外とロマンチックなんだな。」
「MCの歌も、聞かせてくれないか?」
「えっ」
「聞きたい。…ダメか?」
掴んだ手から指を絡ませて飛んで離れていけないようにぎゅ、と握り込む。この聞き方にMCが弱いのを知っているから、断ったりしないはずだ。
「…うぐぅ、上手くできるかは分かんねぇぞ。羽生えて数時間の幼虫なんだから」
「MCなら大丈夫だ。俺も一緒にやる」
合意と共に逡巡に惑っていた指もきゅ、と握り返してきてくれる。もう片方の手も繋がって互いを見合って呼吸を合わせる。
一拍置いて息を吸いーーー
「ふ!!」
ゴンッ!!
「ぐぅっ…、?!」
MCの力んだ掛け声と共に目の前が白に弾けた。額がじんじんと熱を持つのを感じながら徐々に晴れていく視界は少し歪んでいて、同じように涙目になっているMCが顔を上げている所なのだとかろうじて分かった。
「わり…力みすぎた…。」
「ぶつかった、のか…。」
一瞬の事で分からなかったが思い切り羽に力を入れたMCが急発進してぶつかった、んだろう。多分。気分としてはロケットに激突されたような衝撃だった。下手な角度で入っていたら首が危なかったかもしれない。そう思うくらい間違いなく事故で痛みもそれなりにあるのに、俺達は同時に震える声を堪えきれなくなっていた。
「ふっ…ふふっ、避ける間もなかった…っ。さすがMCだ、すごい力だったぞ。」
「くっ、は、ふははっ…くやしい…っ、いてぇし…ひぃ、もっかい! もっかいやろうぜ!」
「はは、もちろんだ。一緒にやろう。」
痛みごと笑い飛ばすように声を上げたあと改めて手を取り合って、お互いの呼吸をゆっくり合わせていく。
「まずは両羽でいい。」
ヴヴン、と二人で強く両羽を震わせていく。
「ゆっくり、ゆっくり…片方の羽だけ震わせていくんだ。集中すればMCならできる」
「ん…。」
ふー…っ、と細く息を吐いたMCの羽ばたきは少しづつ右羽だけに集中していく。同時に俺も右羽だけの羽ばたきにしていく。
お互い右羽だけで飛行しているから手を繋いだままの俺たちの体はデビルコーストのコーヒーカップみたいにくるくると回り出した。
「お、わ、わ…これ出来てる? 出来てるよな?!」
「ああ、やっぱりMCはすごい。次は左羽だ。」
「おう!」
地上で見るよりも一層近い月の前で左右の羽を震わせて踊る。
「MCの羽音はすごく元気だな。聴いてるだけで胸がいっぱいになる。」
「ベールのはやっぱり強そうだ! でもずっと聴いてたいくらい穏やかで優しい感じがする。」
羽音に聴き入るように瞼を落とすMCが、いつもより近い月明かりに照らされては俺の影に納まるのを繰り返す。二人分の羽音が一つの歌を震わせていく。
威厳ある柔らかな羽にも迫力ある立派な翼にもこの音は奏でられない。
「両想い、だな。」
とろん、と薄く開いた瞼から零れ落ちそうに揺らぐ紅が覗く。指を絡ませた掌は気づけば汗ばむほどに熱を生んで、ぬるりとした触感に何故か喉が鳴った。
「ああ。」
ぐんっ、と引き寄せるままに腕の中に収まったMCの体は炎を抱え込んだかと思うくらいに熱い。羽音が止んだ代わりに左右の胸で鳴る鼓動がまるで歌っているように感じた。
「まだ足りない。もっと、もっと深く確かめさせてくれ。」
返事は待たなかった、合意はもうとっくにもらっている。