人生で一番幸せになった日 二月二十九日。癒月泉は今日で二十歳になる。
「……はぁ」
そんなめでたいはずの日に、泉は重たいため息をついた。今日を一緒に過ごしたい恋人、射守谷快惺は、お昼を食べた後また出掛けてしまった。十七時に泉のバイト先である緋向露朱鳥のカフェバー『プリヤートナ』にきてほしい、と泉に言い含めて。
ここしばらく様子がおかしかった快惺。もしかしたら別れ話なのかも、と思うと、恐怖に足がすくみそうになってしまう。
「もう出ないと……」
不安がぐるぐると胸に渦巻く。しかし時間は止まってくれず、気が付けばそろそろ出発しないと約束の時間に間に合わない。覚悟が決まりきらないまま、重い足取りで泉は家を出た。
◇◆◇
電車に乗って、できるだけゆっくり歩いて。時間はちょうど十七時。店の前で泉はぎゅっと胸を押さえた。
平静を保っていられる自信はない。それでも、表面上だけでも取り繕わなければいけない。震える手で、泉は恐る恐るドアを開けた。
「……快惺さん?」
カランカランとドアベルが薄暗い店内に響く。営業時間中のはずだが、何故照明を消しているのだろう。誰もいない? マスターの朱鳥は、泉を呼んだ張本人である快惺は、どこに。
そう思いながら泉が店に足を踏み入れた瞬間ーー。
パァンッ!
パッと明かりがつくと同時にクラッカーが鳴り、カラフルなテープが舞った。
「泉、誕生日おめでとう」
「えっ、えっ? 快惺さん……?」
クラッカーを引いた姿勢で、快惺がにこやかに、穏やかに言った。昼に出ていった時は着ていなかったスーツを着て、髪もサイドを上げてビシッと決めて。
電気をつけた朱鳥もパチパチと小さく拍手している。
「おいで」
クラッカーを置いた快惺が、戸惑う泉に手を差しのべた。迷っている内に手が取られ、奥のテーブルにエスコートされる。椅子を引いた快惺に促されて座ると、快惺も泉の正面に座った。
どういうことだろう? 店内に他のお客さんはいない。貸し切り状態の店、綺麗にセッティングされたテーブルに、朱鳥が料理を運んでくる。
「泉くん、誕生日おめでとう」
「朱鳥さん……ありがとう、ございます」
目の前に置かれた料理は、泉の、快惺の大好きなハンバーグ。レシピを教えてもらって家でも泉が何度も作った。
特製のハンバーグソースの香りと、色鮮やかな添え物。サラダに、スープ。立派なハンバーグディナーが目の前に並べられていく。
「ゆっくり話してね」
困惑と不安に揺れる泉を見て朱鳥は一瞬だけ眉を潜めたが、泉の背をぽんぽんと優しく叩いてカウンターの奥に下がっていった。
「はは、なんかこう改まると緊張しちまうな」
「う、ん……」
二人だけになった空間。小さく流れる穏やかでお洒落なBGM。テーブルの真ん中には、鮮やかな薔薇の花が十二本。
何がなんだかわからなかったが、冷めない内に食べようと促され、いただきます、と手を合わせた。
「ん、やっぱり旨いな」
「……うん」
ポツリポツリと、いつもとは違ってぎこちない会話を交わす。美味しい、はずなのに、正直全く味がわからなかった。
泉の誕生日祝いなんて、快惺は何も言ってなかった。こんなサプライズを用意していたなんて嬉しくて。でも、快惺の緊張がまだ解けていないことが不安で。硬い表情、詰まる言葉。まだ何か隠してることがあるのだろうか。
「泉、もういいの?」
せっかくの食事もなかなか喉を通らなくて、少し残してしまった。快惺が心配そうに聞いてきたのにこくんと頷くと、快惺はスッと席を立つ。
横に立った快惺に、泉も慌てて立ち上がろうとすればそれをぐっと制された。ふうう、と深く息を吐いた快惺が、横向きに座る泉の前に片膝をついてーー。
「泉、オレ、もうお前しか考えられないから。……オレとずっと一緒にいて」
小さな箱がパカッと開かれ、真剣な、だけど泉と同じくらい不安そうな瞳がまっすぐに泉を見上げた。
嘘、そんな、本当に? 目の前に並ぶ二つの指輪と、快惺の言葉がじわじわと頭に染み込んでいく。何か言わなくてはと思うのに、泉の唇は無意味にはくはくと開閉を繰り返すだけで。言葉の代わりにボロボロと涙が溢れて。
震える手をどうにか伸ばし、泉は指輪にそっと触れた。
「いいの……? ほんとに俺で……だって、俺男だし……っ、ずっと体売ってたし、や、やっぱり、女の人がいいって、言われるかもって、思っ、て……」
快惺と出会うまで、生きる為に春をひさいできた。能力の代償でもあるが、そんなことを続けてきた自分はとてもじゃないが綺麗なものではない。それに、元々快惺は女性が好きだったし、もしかしたらいつか別れを告げられるのでは、という恐怖がいつでも心の片隅にあった。
「泉、そんな泣かないで、な? 泉の過去がどうだって関係ないよ。最初の日に『お前の気持ちも欲しい』って言ったろ? あの時から泉のこと好きだったんだよ」
こんな風に、こんなに想ってもらえるなんて。愛を忘れていた泉に、真実の愛を教えてくれた人。
「快惺さん……俺も、快惺さんしかいないよ。ずっと一緒にいたいよ……俺の気持ちも、体も全部あげるから、離さないで……愛してる」
我慢できずに、泉は快惺の胸に飛び込んだ。快惺の大きくて力強い腕が優しくぎゅっと泉を包み込む。
「ありがと、泉。オレも泉に全部あげるよ」
いつもの優しくて、暖かくて、泉の全部を包み込んでくれる笑顔で、快惺は泉の左手の薬指に指輪を嵌めてくれた。泉ももう一つの指輪を快惺の左手の薬指に。そしてその左手を強く握りあう。優しい照明の下、キラリと指輪が輝いた。
そうしてしばらく抱きしめあって。夢のような心地のまま体を離すと、タイミングを見計らった朱鳥がサービスワゴンを押しながら出てきた。
「ふふ、おめでとう2人とも、これ僕からね」
そう言ってテーブルに置かれたのは『happy birthday & Best wishes』と書かれたプレートが載ったショートケーキ。
「すごい、ふふ、イチゴきれいだね」
綺麗な艶々のイチゴがたくさん載ったそれは、幼い頃泉が宝石のようだと喜んだものよりずっとずっと輝いて見えた。「ね、快惺さん」と振り返ると、突然パッと目の前に花が咲いた。
「えっ?」
「プロポーズには花束が欠かせないだろ? それと改めて、誕生日おめでとう、泉」
いたずらが成功した子供のような、でもちょっと照れの滲む笑みで、快惺が花束を差し出している。白と青、二種類の八重咲きの花と、青いパンジー、そしてそれらを囲む可憐な白と青の小さな花達。白と青で統一されたブーケ。快惺の瞳と同じ、青。
ようやく収まったはずの涙が再び込み上げてきて、泉はブーケを抱きしめながら目を隠した。
「うう~……どれだけ用意してんの」
「そりゃあこの日の為に張り切ったからな」
「僕もたくさん連れ回されたからねぇ」
「あっ、ちょ朱鳥さん、しーっ!」
そうか、ここしばらく快惺が忙しなく出掛けていたのは……。腑に落ちたと同時に、さぁっと今までの不安が晴れていく。流れる嬉し涙が、不安も悲しみも一緒に流してくれた。
一番大きいイチゴとプレートをもらって、ケーキを味わう。涙のしょっぱさと混じってしまっているのに、今まで食べたどんなケーキよりも美味しかった。
あっという間に食べきってしまったが、それでもなんだかまだ足りない気がする。
「あー……なぁ朱鳥さん、ハンバーグおかわりしていっすか? 緊張して全然味分かんなかったんスよ」
「ふふ、もちろんいいよ。泉くんは?」
「あ、じゃあ俺も」
大好きな朱鳥のハンバーグだから、やっぱりもっとしっかり食べたい。緊張からすっかり解放された快惺と泉のおなかが同時にぐぅぅっと音を立ててしまい、三人で思わず目を見合わせて笑いあった。
本当の父のように慕う人と、この世の誰より愛する人に祝福される泉の二十歳の誕生日。今日は泉の、人生で一番幸せになった日。
終
ブーケに使われた花
白いアネモネ……「希望」「期待」「真実」
青いアネモネ……「固い誓い」
青いパンジー……「純愛」「誠実な愛」
白いかすみ草……「感謝」「幸福」「清らかな心」
わすれな草(2月29日の誕生花)……「真実の愛」