海の幽霊目を開くと
白濁の中にいた
訳もわからず
散々取り乱した後理解した事は
僕は記憶喪失で
その上、
目がほとんど見えていないという事だった
【海の幽霊】
僕の名前は◯◯◯
これはこの島に来てから付けられた名前で、本当の名前は誰も知らない
医師の話によれば、僕は大きな事故に遭い
記憶と右目を失ったらしい
運良く左目は残ったけれど、こちらも物の輪郭がぼんやりと見えるだけだ
僕の暮らす島は、その大きさに対して人口がひどく少ない
というのも、この島全体がとある貴族の私有地であり、慈善活動のひとつで作った身寄りのない人間の自立を支援する為の施設だからだ
身寄りの無い、得体の知れない人間にどうしてそこまでするのか、何か見返りを期待しているのか、ここで暮らす僕たちは何もわからない
ただ、魔法器一つ無いここでの生活は決して良いものとは言えず、殆どの者は豊かで自由な暮らしを求めて必死に学び、身銭を稼ぎ、早々にこの島を出て行くのだ
僕もそうしたかった
だけど、記憶も無く、目が不自由な僕は歩く事すらやっとで、自立の目処が立たないまま、ここに来て3年が経とうとしていた
「…雨の匂いだ」
雨の日、僕は決まって海辺へ行く
どこまでも広大で、ごうごうと音を立てる黒い海は、不自由な僕の目でもある程度認識する事が出来る
記憶を無くす前の僕は雨が嫌いだったようで、雨に打たれると微かに記憶が蘇る気がする
海もそうだ
絶え間ない波の音と潮の香りは、何故か僕を懐かしい気持ちにさせた
この島の海は不思議で、ここに暮らす数少ない住民は、どういう訳かこの波音に、寂しさや憧憬を感じてしまうのだ
その日も僕は雨に打たれながら海辺を歩いていた
近ごろ、左目の様子がおかしい
以前は痛みや眩しさを感じていたが、最近はそれらが無い
苦痛から解放されたと考えれば、それは良い事なのかもしれない
しかし僕には、目という器官がついにその役割を放棄してしまったかのように感じて、つらくて、不安で、苦しかった
だから初めにそれを見た時は、孤独な僕を海から迎えに来た、化け物かと思った
雨の中、漆黒のマントを身に纏う彼は、僕の目には揺らめく人型の黒い靄に写り
それはまるで海に棲む幽霊のようだった
「な〜〜んて事もあったなあ」
「うるさいなあ…」
幽霊の正体は、春からこの施設に出入りする事になった、貴族に雇われた魔法使いだった
彼は週に一回ほど、島で使用している魔法器の点検に訪れる
てっきり僕はこの島には魔法器が無いと思っていたが、職員の居住区は別らしい
弟子が卒業したばかりの彼は暇を持て余しているらしく、魔法器の点検が終わった後僕の所に来ては他愛の無い話をして時間を潰していた
人間と魔法使い、立場の違う僕達は、互いに深く踏み込む事は無かったが、それでも何故か妙に気が合い、どれだけ会話をしても飽きる事はなかった
彼は、僕が転倒しても、よろめいても、絶対に手を差し伸べなかった
はじめは冷たい人間だと思った
が、少しして理解した
ここで手を差し伸べる事は簡単だが
僕はこの先、島を出て1人で生きなければならない
当然ながら島を出れば、僕の隣に彼はいない
だから彼は、安易に僕に手を貸すべきではなかったのだ
そのかわり、彼は僕が立ち上がり再び歩きだすまで、いつまでも待ち続けてくれた
僕は少しでも早く彼の元へ辿り着けるよう、必死に歩く練習をした
気がつけば、僕は転ばず歩けるようになっていた
かと思えば、目が不自由な分「授業」が遅れている僕に、遅くまで熱心に教本を読み聞かせてくれる夜もあった
彼は現実的で、しかし情に厚い男なのだ
暖炉の炎が爆ぜる音と、低い彼の声は心地よくて、いつまでも聞いていたかった
……いつのまにか、時々、この暮らしがいつまでも続けば良いのにと思うようになっていた
「こんな島早く出て、働いて家庭を持って幸せに暮らせ」
彼は口癖のように、僕にそう言った
なのに僕は、真逆の事ばかり考えてしまう
島の職員になれば、いつまでもここにいられるのだろうか?
少しでも、対等になれたら…
そうすれば、いつか君と友人と呼べる関係になれるだろうか
「……そう伝えたら、喜ぶかな」
しかし、彼と出会って半年が過ぎた頃
唐突に僕は島を出る事になった
ここ最近の僕の様子を見て「施設」が自立可能であると判断したらしいが、それは僕と交流のある魔法使いの進言がきっかけだったらしい
…盛り上がっていたのは、僕だけだったのだ
僕はそれが恥ずかしくて、極力彼と顔を合わせなくなった
それからはとんとん拍子で話が進み、僕は島外に住居と働き先を与えられ、永遠に出られないと思っていた島から、あっけなく、旅立つ日を迎えてしまった
船着場には見慣れた黒い影があった
分かりやすく避けていたにも関わらず、彼は見送りに来てくれたのだ
「頃合いだと思ったんだ、慣れない環境で生活を始めるなら、少しでも若い方が良い」
「だが、先に話しておくべきだった、すまない」
「謝るのは僕の方だ、あなたには散々世話になったのに、あんな子どもじみた態度をとって」
ごめんなさい、と謝れば、彼の表情が緩んだ気配がした
「……達者にな、可愛い嫁さんもらってヨボヨボのじいさんになるまで幸せに暮らせよ」
「またそんな事言って…でも、ありがとう」
「あなたもお元気で、魔法使いさん」
ああ、最後に話が出来て良かった
寂しいけれど、これでもう思い残す事はない
今日の、この寂しさは、ひと月もすれば優しい思い出に変わり、やがて2人の記憶から消えていくのだろう
僕は最後に握手を求めて手を差し出した
「…………」
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
なぜか、ためらう気配がする
そういえば、結局最後まで彼が僕に触れる事は無かった……そう考えている間に、遠慮がちに手を握られた
その時
僕は、初めて彼の輪郭を知った
「……幽霊じゃなかった」
「いつの話しだよ」
いつも穏やかな彼の声が掠れていた
なぜかそれにたまらなくなる
「………もっと触れてもいい?」
なぞるように指を滑らせれば、そこから次々と彼の輪郭が生まれた
彼は、思っていたよりも小柄な人間だった
同じぐらいの背丈に感じていたのは特徴的な帽子のせいで、幽霊のように見えたマントの下には痩せた人間の体が隠されていた
目頭には深い皺が有り、痩せた身体も相まって、その性格とは裏腹に苦労人である事が伺えた
口元に生えた髭は綺麗に手入れがされていて、触れるととても柔らかかった
彼はされるがままだった
こんな風に触られても緊張する事なく、そうされる事が当たり前の事のように、僕の手を受け入れた
そのいじらしく、なぜか懐かしい仕草に胸がくるしくなる
ああ
友人、なんて
僕はこの人の事が…
彼が、握られた手を互いの額で包むようにあてる
「…この半年間、本当に楽しかった」
「おまえの目は、明け方の空みたいな色をしているんだ」
「だから、毎朝空を見る度、お前の事を思い出すよ」
「今日までの事をずっと忘れない」
「ずっと、ずっと…」
別れのテープが千切れるように、彼の手が、体が離れていく
追いすがりたいのに、僕の目ではもう見えない
程なくして僕を乗せて船はゆっくりと動き出した
幽霊と会う事はそれきりもう二度となかった