仗露道場2025/2/6「みどり」(2023/5/4お題) 太陽の光を弾く白磁にそっと唇をつけた。芸術的に薄いふちから温かな液体が口の中に流れ込むと、豊かな香りが鼻へと抜ける。頭上を仰げばきらめく新緑。
杜の都の名にふさわしい美しい午後、一日の仕事を終え、気に入りの店でうまいコーヒーを味わう。控えめに言っても最高の時間だ。
ふと、さわやかな初夏の風がにぎやかな声を運んできた。辺りを見回すとちょうど電車が着いたのか、駅に続く道から学生服の集団が歩いてくる。
うるさいガキは好きじゃあないが、あれはあれで若さの象徴ではある。みずみずしい新芽の季節にふさわしいってもんだ。今日はとりわけ納得のいく絵が描けたこともあり、ぼくは珍しく寛大な気分になっていた。
本当はぼくだって、通りの向こうで笑いさざめいてる学生たちとさほど変わらない年齢だ。ただこっちは十六の時からプロの漫画家として活動しているからか、どうにも自分とは違う生き物だという感じがしてならなかった。
あいつらときたら不安定で移り気で、自分のことすら満足にわかっちゃいない。だがそれは裏を返せば、何にでもなれるという無限の可能性ゆえでもある。
「……」
こんな気持ちのいい午後に、どうしてあのクソッタレのことなんか思い出さなくちゃあならないんだ。ムカッ腹が立つことはなはだしいが、どうしようもなく思考が引きずられてしまう。
東方仗助。事もあろうにこのぼくに、「好きだ」なんて世迷言を吐いた男。
あの男らしい顔をきりりと引き締めて、本気だなどとのたまった。ああ、確かに今は本気なんだろうさ。だがいつまで続くやら。遠からず黒歴史になって、夜中にひとり頭抱えて転がり回る羽目になるんじゃあないの。
想像して、ぼくの眉間には知らずシワが寄っていた。別にあいつに好かれなくなろうがどーでもいいが、この岸辺露伴が黒歴史呼ばわりされるのは、それはそれで我慢ならない。
すっかり気分を害していると、目の前の椅子が断りもなくギッと引かれた。
「露伴先生、ここ座っていーっスか?」
「座りながら言うな」
仗助はぼくの苦言をものともせずにニッと笑った。相変わらず図々しく、そして相変わらず顔だけはいいヤツだ。
「いやー、今日はぜひとも露伴先生とおしゃべりしたいなァって思ったんスよ。あ、もちろんいつも思ってるっスけどね、今日は特に」
キャラメルラテひとつ、なんて告げるだけでウェイトレスが頬を赤らめるモテ男のくせに、ニコニコとぼくにだけ惜しみなく笑いかける。
「六時間め、現代文だったんスよ。サッカーした後の現文とか、もーサイアクじゃあねーっスか? クラスの半分寝てたっスよ。ま、おれもいつもはひとのこと言えねーけど」
「まったく。こんな連中の学費を払ってる保護者たちの日々のご苦労は想像できないな」
聞こえよがしにため息をつき——にわかな違和感に、ぼくは目線を持ち上げた。
頭に何かが載っている。額の少し上、ヘアバンドに前髪がかかる辺りにふわりと、でも確かに質量を伴った感触。ポンポンと、何かを確かめるように数度上下したそれは。
「みどりの黒髪、とかって言葉が出てきたんスよ。女の人に使うらしいけど、おれは露伴しか思い浮かばなかったっスね。露伴って、なんでか緑のイメージなんだよなァ。目が緑っぽいからかな?」
のん気した声が好き勝手なことを語り散らす。やがて大きな手はスッと目の前まで下りてきて、太い親指がぼくの左の下瞼をやわらかくこすった。残りの四本は頬に添えられて、顔半分を包み込むような形になっている。かと思うとすぐに離れて、今度はその四本の指がぼくの前髪をサラリと梳いた。
「な……ッ、な……‼︎」
ぼくは口をパクパク開閉するばかりで声も出ない。仗助のヤツは正面で、相変わらずニコニコしている。まるで何事もなかったみたいに。
何事もなかったみたいな顔をして、まるでなんでもないことみたいに、今、こいつは何をした……?
気安く触るんじゃあないよ失礼なヤツめ、とか。
途中からちゃっかり呼び捨てしてやがったよな、とか。
あるいはもっとシンプルに「おまえイカれてんのかぁあ! このクソ野郎ォオオッ!」とか。
言いたいというか、言うべきというか、言えそうというか。頭の中ではいろんな言葉がやたらグルグルしてるのに、いっこうに口から出てこない。
「露伴、大好き♡」
脳みそがオーバーヒートして煙を噴きそうなぼくをしり目に、仗助のヤツはやっぱり極上の笑顔のまま、肉感的な唇をおもむろに開いてのたまった。