仗露道場2025/2/3「空」(2023/5/1お題) 外回りの途中、偶然カフェ・ドゥ・マゴの前を通りかかったのが事の発端だった。
「露伴先生⁉︎」
思わず叫んでしまったのは、それ自体に驚いたからではない。康一は長年作品を愛読しているその漫画家とかねて親しく、あまつさえあちらからは「親友」と呼ばれる仲だ。康一がわが目を疑ったのは、露伴がテーブルに漫画用の原稿用紙を広げ、ペンを振るってインクを手裏剣のように飛ばしていたからだった。
いくらキリッと冷たい空気が冬の訪れを予感させ、テラス席には他に人影がないと言ったって奇行が過ぎる。あわてる康一に、露伴は真顔で「実は破産した」と告げた。
「破産ン——ッ⁉︎」
「財布は空っぽ、所持品は全部売っ払った。漫画描く机もないなんて、まったく困っちまうよなァ。とりあえず、閉店まではここで描いてていいって言ってもらえたんだけど」
「閉店までって。その後はどうするつもりなんですか?」
「どこか、ツケで泊まらせてくれるところを探すつもりだ。今のところ借金まではしてないし、なんとかこのまましのぎたいと思ってる。描き続けてる限り、二週間後には原稿料が入ってくるからね」
思いのほかまともな見通しに、康一はひとまず胸を撫で下ろした。机が最大の困りごとであるかのように語られた時はどうなることかと思ったが、カフェで原稿を描くという荒業にも露伴なりの理由があったのだ。
(それにしたって……)
結構な上客だったマゴでは、露伴の顔もきいただろう。しかしホテルのたぐいはどうか。真っ先に思いつくのは杜王グランドホテルだが、町内に豪邸を構える——今となっては「構えていた」か——露伴には無縁の場所だったはずだ。
康一はブリーフケースから私用の携帯電話を取り出した。何はさておき康一は露伴の「親友」で、さらに露伴の漫画のファンなのだ。
「ありがとう康一くんッ! 君と君のご両親には心の底から感謝しているよ‼︎」
残業して帰宅した康一は、露伴の大仰な感謝に迎えられた。聞けばすでに母と夕飯を済ませ、姉が使っていた部屋の掃除も終えたらしい。
露伴は康一の部屋着のトレーナーに、着古したハーフパンツを穿いていた。ちぐはぐに季節外れな恰好も身長の兼ね合いからやむをえないが、常にハイブランドで固めていたことを除いても、ファッショナブルなイメージしかなかった男が形なしだ。だというのに、露伴にはまるで頓着した様子がなかった。あまりにも堂々と自然体なので、これはこれで「あり」な着こなしなのではないかとさえ見えてくる。
「それで、どうして破産なんてことになったんです……?」
漫画第一の露伴がスーパーカーやらゲームシアターやらに蕩尽することはないだろうし、ヘブンズ・ドアーを持つ以上、詐欺や怪しげな投資話にひっかかることもありえない。なんでまたと思ったが、いきさつを聞いて康一はある意味納得した。さすがスーパー漫画家だ。確か実家はS市内と聞いたが、破産の理由がそれで日銭のメドも立っているなら、親に打ち明ける気にはなれないのも理解できる。
そして、それは恋人の仗助もしかりなのだろう。そもそも仗助が知っていたら、露伴が宿なしになどなるはずもないのだ。
でも。
「あの……露伴先生」
小学生の頃から使っている学習机の椅子に座り、康一は床の上で剝き出しのスラッとした脚を抱えている漫画家を見下ろした。靴を脱がないスタイルの家に住んでいた露伴の生足は、そういえばあまり見た覚えがない。
「仗助くんには、その」
露伴は逆ギレするだろう、そう康一は思っていた。だが、意外なことにチラリとこちらに目をやった露伴は、顔こそ盛大にしかめているが平静だった。
「どいつもこいつも、ひとの顔見りゃあいつの名前を出してさァ。ぼくのことどう思ってんのさ、君たち」
「君たち……?」
あっけにとられる康一へ、「噴上」と苦虫を噛みつぶしたような露伴が短く返す。なんでも、彼の経営するバイクショップに愛車を売りに行ったらしい。
「そりゃあそうですよ。おつき合いしてるんだもの」
それも、ちょっとやそっとのものではない。なにせ犬猿の仲だったのだ。ただでも人間嫌いを公言している露伴が、伊達や酔狂でそんなことをするはずもないだろう。
「じゃあ君だったら言うかい、由花子に? 仗助に負けず劣らず、とんでもないことになりそうだが」
「えっ、仗助くんって由花子さん並みにすごいんですか⁉︎」
「……」
「……」
思わず素で返してしまった。二人の間に、しばし気まずい沈黙が落ちる。
「ま、ともかくですね」
康一は咳ばらいでそれを追い払った。頼れる気のいい友人の、もうひとつの顔を知りたいとは思わない。
「少し前なら、ぼくも由花子さんには黙っていたいと考えたと思います。プライベートのおつき合いに仕事の問題は持ち込みたくないし、よけいな心配かけたくない。それに」
少し逡巡してから付け足した。
「かっこ悪いとこを、見られたくもないですから」
露伴はじっと康一を見つめ返している。目を逸らさないのはさすがだった。ただその瞳は無心な子どものようで、いかなる感情の動きもない。
「でも、今は違います。大事なことを黙ってたら、よけい心配させてしまう。それはもっとかっこ悪いことだと思うから」
露伴はつと瞼を伏せると、フーッと細く息を吐き出した。
「君はまったく、漫画の主人公を地で行ってるね」
「はあ」
「だけど、ぼくだって考えてないわけじゃあないんだぜ」
露伴はめくれ上がっていたハーフパンツの裾を引っぱりながらつぶやいた。
「破産を恥とは思わない。正当な理由があるからな。ただ今までみたいにはいかなくなるし、そこに対する引け目っていうか、どういう顔していいかわからないのはあるな。あいつに情けなんかかけられようもんなら、ぼくは憤死する自信がある」
「あはは」
思わず笑ってしまった。露伴は「笑いごとじゃあないんだぜ」と口を尖らせるが、これが笑わずにいられるか。
「仗助くんは情けなんかかけないですよ。ぼくでさえ笑っちゃったのに」
「君は、ぼくの漫画を評価してくれてるだろ。だがあいつはそうじゃあない」
「確かに漫画は読みませんね。けど仗助くんは先生自身を評価してるじゃあないですか」
誰よりも。まんまるになったグリーンとブラウンのまだらの瞳に、ダメ押しのように付け足す。
「先生のことだから、破産がどうした、ぼくはぼくだ、とか思ってるんでしょう?」
「……」
「仗助くんもきっとそうですよ。このカシオミニを賭けてもいいです」
康一が手近な携帯電話を電卓に見立てて突き出すと、一拍置いて露伴は「やっぱり、君は親友だ」と笑った。