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    血圧/memo

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    血圧/memo

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    おとなになったら2

    2024.8.13「また連絡するって、次の日の朝っぱら?」
    「ああ。おはよう降谷くん」
    「はあ……おはようございます」
     降谷はうんざりした顔だ。
     翌朝、赤井は降谷の部屋を訪ねていた。数時間振りに対面した降谷は時間に余裕がないのか、または死にかけて米軍の話を蹴った赤井の身の上を考慮してか、すんなりと赤井を部屋に招き入れる。
    「てか僕、普通に仕事なんですけど」
    「送る」
    「いやいいですよ」
    「君は今地下鉄を使っていると聞いた」
    「なんで知ってんだよ」
     降谷は慌ただしく食器を片付けている。朝食を摂った直後らしい。洗い物をする降谷の背後から赤井は声を掛ける。
    「君の信頼を取り戻したい」
    「いや別に僕、赤井のこと信頼してないとかじゃないですよ?」
    「唯一無二の関係になりたい」
    「僕と縁を切りたくないってこと?」
    「それもある。君の全てが欲しい」
    「わあ熱烈~」
     これっぽっちも思ってない棒読みを唱えた降谷はサニタリールームへ。歯ブラシを口に咥える。手早く髪を整え、寝室に戻るとネクタイを締める。タイを締める降谷の姿は美しく勇猛だ。戦場へ向かう騎士のような神聖さがある。
     ずっと降谷の後を着いて回る赤井を一瞥した降谷は「じゃあ送ってください」と諦めた。
     車は、降谷が居住するマンションの裏手にあるコインパーキングに泊めてある。赤井が来日してから新たに用意した車はSUV車で、とにかく実用性を重視した。それから降谷が好みそうだな、という点も考慮している。
     その甲斐あってか降谷の目は輝いていた。
    「君が運転するか」
    「えっいいの?」
    「俺はどちらでも構わん」
     降谷は少し思案し、助手席に回った。車内を見渡す降谷の表情は楽し気で、赤井はそれに安堵した。満足ではなく安堵。赤井は降谷に拒絶されることを恐れている。
     初めてだ。拒絶されるのが怖いなど。
     赤井は傲慢にも、永劫降谷に拒絶されるなど有り得ないと思い込んでいたのだ。
    「まだ早いからゆっくりでいいですよ」
    「了解した」
    「外周をぐるっと何周か周ってください」
    「……ああ」
     赤井は頷いた。意味があってのことだろうが、まさか結婚相手の女を紹介する、ということだろうか。
     差し障りのない会話を交わす内に桜田門に着く。この国の役人たちが似た格好でぞろぞろと歩く様を、赤井は会話をしながらチェックする。
    「コンビニ寄ってください」
     数周の後、降谷が言った。
     言われた通り赤井は霞が関から離れる。
    「時間はいいのか」
    「構いません。多分今日休んでいいかも」
     モバイルを取り出した降谷が「あ。やっぱり」と呟いた。
    「今日は休んでいいですって。どうします?」
    「君が運転するか」
    「ナビシートで楽しむのも慣れたよ」
     降谷は笑いながら車窓に目を向けた。自らハンドルを取りたいタイプの降谷が、けれど慣れたのは赤井と長く共に過ごしたからだ。共に過ごし、許容し、溶け込む。
     何気ない一つ一つに降谷の愛が在った。それを、もっと早くに実感すべきだった。失ってから愛に気付くのは治らない赤井の悪癖だ。
     渋滞を離れコンビニに立ち寄ると飲み物を購入する。それから馴染んだドライブコースに乗った。
    「眼鏡をかけた女か」
     珈琲に口をつけてから赤井は問う。
    「流石。よく分かりましたね」
    「一瞬目が合った」
     警察庁の付近でほんの一瞬こちらを見た妙齢の女がいた。それだけだが、この女が降谷の相手だと理解した。それに赤井は覚えがある。
    「君の上司じゃなかったか」
    「よく覚えてるな。話したことあった?」
    「一度軽く挨拶しただけだが……」
    「だが?」
    「……恐らく牽制された。君のことだろう」
    「……付き合ってた頃?」
    「ああ」
     まだ降谷と恋人という関係だった頃、職務で一度顔を合わせただけの女だ。女の視線は酷く強く、意味のあるものだった。職務での意味合いではなくプライベート、降谷のことだと赤井も気付いた。赤井との関係により降谷の立場が危ぶまれていたからだろう。
     そっか。降谷は呟いた。
    「特殊な任務から戻った挙句にFBI所属の同性の恋人が居るとか、地雷みたいな部下だったろうにな。直属じゃなかったのに僕のこと随分気に掛けてくれてたんですよ。だから彼女には幸せになって欲しいんです」
    「君が職務に関わる相手を選ぶとは意外だな」
     自ら幸せにしたい、と降谷が決意するにしても意外だ。
     降谷は関係者を側に置かないと思っていた。赤井以外は。
     傲慢な思い上がりだとしても、それこそが降谷から向けられた情の強さであり、赤井はそれを信じていた。揺るがない降谷だからこそ、猜疑心の強い赤井も信じられた。
     おかしそうに降谷が笑う。
    「彼女の周りに居た男には気付いた?」
    「随分と物騒な雰囲気の男が二人」
    「そっちに気付いたの? 流石スナイパーの目は違うな」
    「そっち、とは」
    「物騒な男二人組は彼女に敵対する勢力。まあ日本警察内部の醜い派閥争いってやつです。で、彼女を守ろうとさり気なく張り付いてた男も何人か」
    「明らかに不審な動きをしていた男たちのことか」
    「あれはあれでいいんですよ。表立っての睨めっこですから」
    「裏は君という訳か」
    「そ。車に細工されたんで地下鉄通いに変えたんです」
    「随分と物騒だな」
    「ここ数年では最大の派閥争いと言われてますよ。大方邪魔だった僕が居なくなる隙を突こうとしたんでしょうけど」
     ギッ。信号で停車する。
     居なくなる。
     誰が、何処から。
    「……君、まさか」
    「奇遇だな。僕も辞めるんだよ」
    「まさか」
     ハンドルを握る赤井の手に力が入る。
    「彼女のために君が警察を辞めるというのか。何故君がそこまでする。君は日本の警察官として日本を守るんじゃないのか。そうまでして君は、あの女を守りたいのか」
    「赤井。手ぇ痛める」
     ぽん。降谷の手が赤井の手の甲に触れた。
     後続車から短くクラクションを鳴らされ、赤井は青信号に変わっていた道を往く。
     今までにない怒りが湧いていた。
    「赤井。スピード出し過ぎ」
    「うるさい」
    「感情が運転に出る人じゃないでしょ赤井は」
    「零が悪い」
    「大人げないとこは相変わらずだけどな」
     降谷はおかしそうに笑っていた。
     笑い事じゃない。
    「俺が辞めるのは俺の意思、それだけだよ。赤井秀一のことを清算出来そうになって、俺の警察官としての人生も区切ろうと思った。日本を守るためと言いつつ、どっかで警察って組織を拠り所にしてたしな」
    「辞めて海外にでも行く気だったか」
    「だからなんで知ってんだよ」
    「君の検索履歴を見た」
    「何処で」
    「警視庁」
    「…………はあ……」
    「悪かった」
    「寧ろセキュリティ対策ガバガバの日本警察に呆れてる」
    「機密性の高いものではなかったからだろう」
    「だといいけど」
     降谷はどうでもよさそうな言い種で肩を竦めた。
     昨夜、赤井は降谷の部屋を出た後警視庁へと向かった。降谷がここ数年警視庁に所属していることは承知済みだ。幸い警視庁内には赤井が見知った顔も多く、降谷の使うパソコンに辿り着くのは造作もないことだった。
     降谷の履歴には地下鉄の時刻表と海外の情報サイトがあった。海外については新婚旅行かと予測していたのだが。
    「君は日本を捨てるのか」
    「捨てない」
     降谷を煽るような言葉を使ったのに、降谷は穏やかに、けれどはっきりと断言した。
     穏やかに降谷は笑う。
    「内側から日本を守る人材はもう揃ったよ。俺が居なくても十分ね。なら俺は外側から守ろうと思ってさ。微力ながらね」
     はた。と赤井は気付く。
     やっと気が付いた。判断力が感情に遮られていた。
     ああ。
     そんなの、赤井は降谷にだけだ。
    「……零くん」
    「んー」
    「彼女も警察を辞めるのか」
    「なんで。辞めないよ」
    「君は海外に移住する気だったのだろう」
    「移住までは考えてないけど、長く旅に出る気だったかな」
    「結婚早々別居するのか」
    「ふは」
     降谷は穏やかに笑っていた。
     車も人も閑散とした道の端。赤井は車を停めた。とても運転していられなかった。ハンドルに顔を伏せ、唸る。
     腹立たしいやら安堵したやら、ああもう。してやられた。
     感情が理性を上回るなんて、本当に、赤井は降谷にだけだ。
    「……結婚はフェイクか」
    「うん」
    「…………しないのか」
    「しない」
    「…………」
    「赤井にしては気付くの遅かったな」
    「…………はあ……」
    「運転、代わろうか?」
    「うるせえ」
    「あははは!」
     朗らかに笑う降谷が恨めしい。でも嬉しい。
     ああくそ。うれしい。
    「彼女と結婚するのは俺の部下に当たる男。俺は一時的な囮役」
    「……お節介を買って出たのか」
    「お節介とは失礼な。いやお節介だけどさ。世話になったんだよ、彼女にも、部下にも。だからゴミを撤去してから辞めたかった」
    「ゴミなのか相手は」
    「不燃ゴミかなあ」
    「なら君がお節介を焼くまでもなかっただろう」
    「警察に残るあいつらより居なくなる俺のほうが後腐れないだろ。ただでさえ年の差婚とか格差婚とか言われてて、大変なんだよ」
    「そんなもん自力でなんとかさせろ」
    「あははは!」
    「君が警察を辞めるのは本当なのか」
    「それはホント。赤井秀一を完全に諦めようとしてたのも本当だよ。装ってたのは結婚だけ。彼女は俺たちのこと知ってるからさ、赤井になら話していいって気ぃ遣ってくれた」
     降谷は手にしたモバイルを翳す。
    「彼女は俺たちのことを知っているのか」
    「付き合ってた頃に報告だけ。でも別れたのも感付かれてたし、俺の未練も感付かれてたかも。女性ならではの勘なんだろうなあ」
    「……」
     女の勘の鋭さは、赤井がこの世で敵わないと思う事柄の一つだ。一瞬だけ目が合った女の視線に険が篭っていたのは、赤井の気のせいではなかったらしい。
    「……随分と念の入ったフェイクだな」
     赤井は悔し紛れに降谷の左手を見た。
     すっかり騙された忌々しいリングが銀色の光を反射している。装飾品に疎い赤井が見たって分かるくらい、明らかに値の張りそうな代物だ。
     ああこれ。と気のない様子で降谷が指輪を外す。
    「俺のは本物だからね」
    「どういう意味だ」
    「彼女のダミーは安物だけど。遠目にはちゃんとペアかどうかなんて分かんないだろ」
     まるでぞんざいな仕種で、降谷は指輪を赤井へと放った。赤井は小さなそれを慌てて掌に納め、確かめる。
     本物。
     赤井は意味を知る。
    「…………零くん……、」
    「俺の未練の集大成ってやつだよ」
     凪いだ降谷の声が遠かった。
     R to S.
     リングの裏側にはRとSが刻印されていた。
    「…………いつ」
    「作ったのは赤井に振られた前の週だったかな」
    「どうして、」
     どうして、なんて。
     何に対しての問いか、赤井自身理解していなかった。ただ、呆然とリングの刻印に指先で触れる。零から秀一へ。刻印は降谷が赤井へ贈ると記されている。
     これは降谷自身のための指輪ではない。降谷が赤井へと贈るために用意したリングだ。
     本物の、指輪だった。
    「別れた恋人に渡し損ねた指輪をまだ持ってるなんて、馬鹿みたいだろ?」
     凪いだ降谷の声が酷く遠かった。
     互いに揃いの指輪を身に着けるようなタイプではなかったし、実際一度も着けたことはない。けれど、戯れに指輪のサイズを調べたことはあった。赤井と降谷の指輪のサイズは同じだった筈だ。だから降谷は、それをフェイクの小道具に使った。
     警察官として最後の役目を果たすために。
     降谷が、赤井への未練を断ち切るために。
     これを見るに、自惚れでなければ降谷は相応の気持ちでこれを作った筈だ。それまで一度も指輪など贈り合ったことがないのだから、恐らくはプロポーズ相応であろう。
     しかし降谷が赤井に渡す前に、赤井は一方的な別れを押し付けた。
     降谷はどんな気持ちだったのだろう?
     別れる瞬間まで、いや、それから友人として付き合った期間も、降谷は赤井のことを愛し続けていた。けして振り返らない降谷が指輪を捨てることも出来ず、七年と区切らなければ諦めることも出来ずに、どんな気持ちで友人という立ち位置にいたのだろう。
    「……っ、」
     喉の奥がぎゅう、と震えた。
    「あかい?」
    「……なんで、」
    「え、あかい、?」
     ずっと、愛されていた。
     けれど残り滓の愛を、今、降谷は捨てると言う。
    「なんで……」
    「なんでは俺の台詞だろ。何で赤井が泣くんだよ……」
     ぽた。ぽたり。銀のリングに水滴が落ちる。泣いてるのか俺は。赤井は目元を乱暴に擦るも、降谷が「擦ったら駄目だって」と留めた。
     降谷が酷く困った顔をしている。
     初めて見る顔のような気がする。
     瞬いた赤井に、降谷はやっぱり初めて見る表情だった。
    「もう、いらないのか、」
    「指輪?」
    「おれはもう、いらないのか」
    「……熱烈だなあ」
    「おれは、零くんがいないと生きていけない」
    「、 」
     降谷の大きな瞳が瞠る。
    「昔は言えなかったけど、俺は、零くんがいないと生きていけない。でも零くんは、そうじゃないだろ」
     ずび。
     赤井が鼻をすすると降谷が鞄からポケットティッシュを渡してくれた。泣き慣れていないからか喉やら眉間やらが痛む。鼻をかんだ紙屑は降谷がビニール袋で回収した。
    「……秀一くんにはそう見えるの?」
     問われて、赤井は言い淀む。赤井の物言いで降谷を傷付けたり怒らせたことは多々あって、けれど、年月と共に赤井は言葉を選ぶようになった。降谷は問いを重ねて待つようになった。
     赤井はそれを慣れとか惰性と分類したが、もっとシンプルに、降谷の愛だったと、どうして深く気付けなかったんだろう。知っていたのに自覚が足りなかった。シンプルに、赤井もただ、降谷を愛していたのに。
    「……零くんは、甘えない、だろう」
    「もしかして俺の身の上的なやつ? いいよ気ぃ遣わなくて」
    「……すまん」
    「謝ることじゃないだろ」
     穏やかに笑う降谷に、赤井はほっとした。
     幼少時の降谷はあまり恵まれた環境ではなかったと聞いたことがある。一定の愛情は受けたが大人に頼ることが少なかったらしい。幼い頃の環境は人格形成に大きく関わることであり、その所為もあってか降谷は独立心の強いタイプだった。
     反して赤井は適度に人を頼る。意外だと言われるが、赤井は誰かに甘えることを躊躇わない。頼るし利用する、それは赤井が育った環境によるものであろう。
    「結構直ったつもりだったんだけどな」
    「あれでか」
    「秀一くんには甘えてたよ」
    「足りない」
    「……不満だった?」
     声を潜めた降谷に赤井はかぶりを振った。
    「君が悪いんじゃない。責めたいのでもない。俺が、」
    「うん」
    「……不安、だっただけだ」
     不満じゃなくて不安。
     降谷は驚いた顔をしている。赤井は弱味を晒すことを殊更嫌っていた。格好悪い部分を見せたくないプライドと、猜疑心の強い性格故だ。
     でも。もういいのだ。
     駆け引きも虚勢も必要ない。
     赤井が降谷にだけなんて、ずっとだったんだから。
    「零くんは俺がいなくても生きていける。でも俺は、零くんがいないと生きられなくなりそうだった。それが不安だった」
    「……だから別れたの?」
     ぎゅ、とリングの入った掌を握る。
     あの頃は言えなかった本音だ。情けなくて臆病で、どうしようもなく身勝手な赤井の本心。
    「人は必ず飽きる。永遠などない。俺が零くんに依存した状態で零くんの心が俺から離れる可能性だってある。零くんは俺などいなくても生きられるのにだ。だって、」
    「うん」
    「愛が惰性に変わっても依存はそのまま残るだろ。現に俺はそうだった。いつか愛されなくなって、頼られることもなくて、俺だけが零くんに依存してるだなんて、そんなの……耐えられない」
    「だからリセットした?」
    「恨まれても構わなかった。いつか変わる愛情より、憎悪のほうが余程信頼できる」
    「あのなあ。人を憎んで生きるって結構キツいんだぞ」
     降谷の指が、赤井が握った手の甲を撫でた。
     やさしい感触だった。
     やさしくて、いつも降谷は優しくて、涙が零れる。人を憎んで生きるとはどんなことか、降谷は身を以て知っている。赤井が強いた。この先も永劫、強こうとした。なのに降谷は仕方ないなあと笑うのだ。
    「これ見ても言う?」
     降谷が銀のリングを指差す。
    「七年だぞ七年。未練たらしいったらないだろ」
    「でも、もういらないんだろ」
    「あと五ヶ月で要らなくなる予定だったんだけどね」
    「……いまは」
    「俺の赤井秀一への執着舐めんなよ」
     降谷の目の奥に一瞬、火花が散った気がした。
    (……ああ、)
     ああ。まだ残っていた。
     赤井は歓喜に震えた。いつだって与えられていた強い視線、感情。赤井はいつだって降谷のそれを独占したくて、それが愛情でも憎悪でも、赤井はそれがなければ生きられなかった。
    「君こそ、俺の降谷零への依存を舐めるなよ」
     声も震えた。でももう構うもんか。
     降谷が肩を震わせる。
     しかたないなあ、と降谷が目を細めるその様が(ああ、やっぱりすきだな)と思う。
    「秀一くんのそんなの、初めて聞いた」
    「歳を取ったからだろ」
    「ね。歳取ったら恥ずかしくなくなるよな」
    「俺は現時点で恥ずかしい」
    「あはは! 恥ずかしいの?」
    「うるせえ」
    「あははは!」
     頬が熱い。けれど嬉しかった。降谷が赤井に笑う、それだけでいつだってうれしかった。
    「大人になったってことなんじゃないの、俺らも」
    「初老はとっくに過ぎてるが?」
    「成長おっそいな、俺ら」
    「俺は大人げないからな」
    「知ってるよ、秀一くんが存外大人げないのなんて」
     やさしい声だった。
     赤井の掌の小さな輪を、降谷の指先が摘まむ。弾けるように顔を上げた赤井に降谷は微笑んだ。
    「捨てるのか、」
    「秀一くんが決めていいよ」
    「っ、…………」
    「いいよ。秀一くんの好きにして。捨ててもいいし売ってもいいよ」
    「する訳ないだろばかじゃないのか」
    「あははは」
     言質は取った。
     赤井は降谷から指輪を奪い取り、自らリングを嵌めようとする。左に、いや右に。その赤井の手を降谷が包んだ。
    「あ」
     右の薬指を撫でられた。約束の輪で繋ぐ指。英国にルーツのある赤井は左手ではなく右手だろうと漠然と感じていた。そこを降谷は優しく撫でる。
    「秀一くんこそいいの」
     やさしい降谷の手は震えていた。
    「俺は秀一くんを不安にさせてたのに、ほんとにいいの?」
     顔を上げると降谷の眦に涙が滲んでいて、とても、とても綺麗で、でも胸が痛むくらいに悲しくて、赤井は息を呑む。拍子に赤井の頬にも涙が零れた。
    「もう二度と秀一のこと離してやれないよ。今度は殺すかも」
    「殺して、くれるのか」
    「なにその性癖」
    「れいくんにだけだ」
    「もー泣くなよ」
    「れ、くんこそ、」
     ばかみたいだ、こんな歳になって、ふたりで泣いて。
    「俺が悪い、零くんに不安だと、言えなかった」
     伝わらなければ無いのと同じだ。だから降谷は愛を惜しみなく赤井に伝えてくれていた。
     それと同じでネガティブな事柄こそ伝えなればいけなかった。だから人は誓うのだ、病める時も健やかなる時もと。
    「ふふ。俺らお互い、同じこと言ってるね」
    「お似合いだろ」
    「だといいけど」
    「零くんの、どうでもよさそうな言い方、」
    「あ。ごめん」
    「すごくすきだ」
    「……ふは。ありがと」
     降谷の震える指が赤井の薬指に触れた。赤井の指も酷く震えていた。サイズは変わっていなかったようで、難なく赤井の指が約束の輪に繋がれた。
     永遠なんてないと断言する。
     なのにこの瞬間、どうして永遠を信じたくなるんだろう。
     降谷に貰った永遠を赤井は信じたい。信じることを、降谷に許されたい。
    「……幾らしたんだこれ」
     意に反して色気の欠片もない台詞を口にする赤井に、しかし降谷は怒らなかった。
    「そこそこした」
    「君のそこそこは相当だろう……」
     赤井からすると降谷の金銭感覚はちょっと理解し難い。降谷は無駄遣いはしないが必要経費には一切惜しまない性質だ。大体装飾品に興味がない赤井は、指輪にかけられた金額を想像して背筋が寒くなった。
     赤井の考えてることを読んだ降谷がはにかむ。あの頃より少し目尻の皺が増えた、けれどあの頃と変わらず魅力的な笑みが眩しい。
    「赤井秀一の永遠と引き換えにする指輪だぞ。全財産つぎ込んでも足りないよ」
    「……、」
     永遠を許すどころか欲してくれるのか。
     ずびずびび。赤井が鼻をすすると降谷が鼻をかませてくれる。ポケットティッシュでは足らず、ダッシュボードから箱ティッシュを取り出した。
     なんて格好悪い有り様だ。
     それでも赤井は降谷に誓う。
    「今度こそ、れいくんをしあわせにする」
    「ばかだなあ。振られたって友達だって、秀一くんがいるだけで、俺はずっとしあわせだったよ」
    「……~~っ、」
     箱ティッシュは一箱使い尽した。




    おとなになったら




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