2023.7.31「降谷くん」
「……あ」
またうたた寝してしまった。降谷が目を開けると赤井が腰を屈めて覗き込んでいる。
至近距離にも慣れてきた。あんなに遠かったのになあ。まさか赤井のほうから詰められるとは思わなかった。
「あー、また寝てた」
「寝るならベッドに行け」
「ん。ありがと」
「……何を」
「全部赤井にさせちゃった」
「そのために来たんだ」
「助かった」
「もう寝ろ。疲れてるだろう」
声は柔らかかった。
「赤井は?」
間近で瞬く赤井の睫毛も柔らかそうだ。
「泊まってくだろ」
「いいのか」
「だってもう遅いし。赤井がベッド使っていいよ」
「……」
「こっわ」
柔さ一変赤井は苦虫を噛み潰したような顔をした。赤井の、こういったポイントが何処にあるのかサッパリ分からない。
「君がベッドで寝ろ。明日は午後からだろう」
「うん」
「ベッドでゆっくり休め」
「あ。風呂入ってから寝る」
「今日くらいはやめたらどうだ」
「うーん、入りたい」
「それならシャワーだけにしておけよ」
「そうする」
「水分補給してから入れ」
「ありがと」
一度立ち上がった赤井はすぐに戻り、手にはペットボトルとビニール袋を携えている。ギプスを覆う専用のそれは降谷宅に常備しているものだった。コレの保管場所を把握しているのなら赤井は降谷宅の全てを把握済ということで、でもメンドクサイから言及しない。
「髪は洗えるか」
「左手使えるからへーき」
「瞼の傷に気を付けろよ」
「そうだった」
「上がったらガーゼも換える」
赤井は丁寧な仕種で降谷の部屋着の釦を外した。それからギプスの上に専用のビニールを巻かれる。目の前には赤井の旋毛。降谷が知らなかった景色だ。
「赤井ってさ」
「何だ」
「なんか、丁寧だよな」
運転然り食事然り、案外と赤井の所作は一つ一つが丁寧だ。
「普通だろう」
「なんか、安心する」
「……、」
「煙草吸っていいよ。今更だけど」
「……」
赤井からはずっと煙草の匂いがしなかった。今も赤井からは料理した後特有の、少しだけスパイシーな香辛料の匂いしかしない。車中での匂いも薄かった。
「賃貸だろう」
「換気扇の下ならいいよ」
「いや、いい」
「ヘビースモーカーが?」
「気にするな」
赤井は首を振って降谷を浴室へ送り出した。
なんだろうなあ。
うーん。降谷は微温湯を浴びながら思案する。きっと煙草を吸わない降谷に気遣ってのことだ。隣家も周辺にも人は住んでいないのだから玄関先でだって煙草は吸える。それをしないのは、赤井は匂い一切を纏わないようにしているということだ。
なんだろうなあ。
貸し借りとか良心の呵責を感じているのとは違う気がする。だけど赤井秀一の何かに影響したのは間違いない。赤井秀一は目的のためなら人の生死も利用することが出来る男だ。本心はどうであれ平気な顔も出来る。なのにどうして、今回だけ違うのだろう。
「なんだろーなー……」
変な感じだ。
支配者のように振る舞う赤井秀一しか知らなかった。だけど献立も所作も、呼ぶ声も覗く眼差しも、赤井の丁寧な気遣いで満ちて心地良い。これこそが赤井が懐に入れた存在に対しての赤井秀一なのだろう。
降谷が知らなかった赤井秀一。
対象外だった降谷が知ることになろうとは、思ってもいなかった。
「うお」
びびった。浴室の扉を開けるとバスタオルを広げた赤井が待機していた。赤井は素っ裸の降谷をじろじろ見る訳でもなくさっさとバスタオルで包み、もう一枚を頭から被せられる。
「わ」
「タオルドライしてからドライヤーをかける」
「いや、そこまでしなくてもいーよ」
「何処も痛まないか」
「あー、うん。おかげさまで」
「座って待ってろ」
「へ」
「俺は掃除してから行く」
どうやら赤井は浴室を掃除してくれるらしい。浴室の掃除は仕方ないから少しばかり放置しようと思っていたのでこれは助かった。
「赤井も入ったら?」
「は」
あらかた水気を拭ってギプスのビニールを取った赤井は眉間に皺を寄せた。だから怖いって。
「泊まってくんだろ?」
「……」
「いやもう赤井が怒るポイントが全然わかんねえんだけど。風呂掃除は助かる。ありがと」
「……怒ってない」
「そなの?」
赤井は、極悪非道面で嘆息した。
「シャワーを借りる」
「着替えは?」
「車に一式積んである。君は無理に腕を動かすなよ。寝落ちても構わんから身体を休めておけ」
「んー赤井もごゆっくりー」
と言っても赤井はゆっくりしなそうだけど。
赤井は外に停めてある車へ向かい、降谷は脱衣所と隣接する衣類乾燥室から甚平を取り出した。赤井の言う着替えとはいつもの服であってリラックスするためのものではないだろう。これを着ろとの意味でタオルとまとめて置いておいた。
リビングへ行くとテーブルには冷えたピッチャーとグラスが用意してある。ピッチャーの中身は綺麗な赤。少し前まで降谷が嫌いだった色だ。
「あ。赤紫蘇だ!」
なんという至れり尽くせり。これも作ったんだろうなラスボスすげえな。グラスに氷を入れて注ぐと赤色がキラキラ煌めいた。少し舐めるとシロップだったのでまずは水で割って飲む。
「……んっま……!」
一気に飲み干してしまった。紫蘇の良い匂いと甘酸っぱさが風呂上りの身体に染み渡る。次は炭酸水で割ってみた。めちゃくちゃ美味しい。
「……赤井すげえな」
炭酸水を取り出すのに開いた冷蔵庫には総菜の作り置きが幾つか並んでいた。冷凍庫の作り置きはペンネと具材がセットになっていて、きっと電子レンジで温めただけで食べられるやつだ。スパゲティではなくスプーンで食べられるペンネという配慮がニクい。
ちゃんと元から冷蔵庫に入っていた古い野菜も使ってくれている。限られた食材を駆使し限られた時間内で作るというのはただ料理をするのとは全く違う。しかも結構な量だ、一朝一夕で出来る技ではない。
ラスボスすげえな。とんでもない腕利きのハウスキーパーだった。
「んー……美味そー……」
「休んでいろと言っただろう」
「うお」
びびった。振り返ると赤井がタオルで髪を拭いている。いくら赤井が降谷から目を離したくない(らしい)からって烏の行水過ぎるだろ。
「すまん。借りた」
「……」
「降谷くん?」
「……なんかさ」
「ああ」
「感じ違うね」
「?」
赤井は不思議そうに瞬いた。
不意に見せる赤井の真珠みたいなまなこは結構心臓に悪い。純粋で無垢なそれに降谷はそわりとした。
ちゃんと降谷が用意した甚平を着た赤井の、いつもは見えない肘や膝が見えている。裸足の爪先が無防備だ。甚平が薄いグレーなのも赤井を無防備に見せる要因かもしれない。いつも赤井が身に着ける黒一色は赤井自身の警戒心や猜疑心を視覚化してるみたいだった。
「降谷くん」
真珠が降谷を覗き込む。
急いだのだろう黒髪は濡れたまま。癖のある前髪が下りて赤井を尚更無防備に見せている。
そわりとした。
「何処か痛むのか」
「え、いや全然」
「そうか。ソファに座って待っていてくれ」
降谷をやんわりと促す赤井自身の髪を拭う手付きは結構乱雑で、赤井のことなど何も知らない降谷は、だけど何となく赤井らしいなあと思った。