2023.12.3 十日間の有給消化を終えた降谷は職務に復帰した。ギプスも取れていない降谷に公安一同はもっと休んでくれてもいいと言いつつも、降谷でなければ消化が難しい案件がかなり溜まっており、復帰早々それらをこなす。
骨折の急性期は過ぎたのだから降谷も身体を動かしたい。瞼の抜糸も済み視界は良好、痛みも炎症もない。普段通りに過ごしたほうが降谷は有難かった。
あの赤井が作った家で赤井と二人きりでいると、どうしても感情が募ってしまう。
好意はすぐに明確な恋心へと変わった。恋をした降谷は、赤井相手に隠す気はなかった。けれど伝えるつもりも叶えるつもりもない。何より付け入るのだけは絶対に嫌だ。戒めは肝に銘じている。
だから普段通りが一番良い。
決定権は赤井にある。
今のところ赤井は相も変わらず降谷を見張っては凄腕ハウスキーパーとして働いていた。相変わらず不機嫌な顔をして、だけどふとした瞬間に笑って、朝は起きられない赤井が愚図ったり照れたりする姿を拝んで、そんな日々を過ごしている。
赤井は降谷を忌避しない。柔らかさを垣間見せてくれる。
それだけで贅沢だ。
「……来ませんね」
昼休憩の時間になり、風見が出入口を見て呟いた。
軽く伸びをしながら降谷は首を傾ける。
「どうした?」
「赤井捜査官です。てっきり昼休みも降谷さんを迎えに来るかと思ってました」
「ああ。忙しいみたいだからな」
「FBIですか?」
「本国が多忙らしい」
どうも赤井はかなり無理をして有休を捩じ込んだことを、降谷は今朝になって初めて知った。赤井も赤井だが周囲も周囲だ。赤井秀一に甘過ぎる。赤井を甘やかしたくなる気持ちは分かるけど。
「赤井秀一が来ないほうが君たちは平和だろう?」
冗談めかして降谷が言うと周囲に居た公安一同は可哀想に胃を摩った。
ギプスが取れるまでは定時上がりとなった降谷を、赤井は定時になっても迎えに来なかった。
公安一同は胸を撫で下ろし、降谷は思案した。
仮に赤井がゴールを見付けたとして、いきなり降谷との接触を断つとは考え難い。赤井は冷淡で合理的なだけではなく本当は情も深いし心遣いは随一だ。今回の一件が赤井の気の迷いだとしても、何も言わず送り迎えを辞めることはないだろう。
降谷は赤井の元へ顔を出してみることにした。
今度こそ降谷を送ると息巻いていた部下たちには「また今度頼む」と礼を言った。甘えるのって難しい。
さて、FBIのフロアは降谷が詰める階の一つ下。
開け放たれたままのドアをノックすると部屋の出入り口付近に居た数人が振り返った。降谷の姿を見ても眉を顰められなくなったのだから、FBIにおける赤井秀一の存在の大きさを改めて実感する。赤井秀一あっての降谷への対応軟化だ。
「降谷捜査官、怪我の具合は如何ですか」
アンドレ・キャメルが気遣わし気にやって来た。彼も随分と降谷への対応が変わった。
「あとはギプスが取れるのを待つだけですよ。それより忙しそうですね」
「ええ、本国でちょっとしたトラブルがありまして」
「僕は席を外したほうがいいですかね」
「ああ、いえ。構いません。一部のスタッフのストライキみたいなもので、滞った業務のとばっちりがこちらに来たというだけですので」
「あー、成る程」
少々ばつが悪そうにキャメルが苦笑った。
と、あまり柄のよろしくない苛立った英語が耳に飛び込んだ。赤井の声だ。愛想も容赦もなくて口も目付きも態度も悪い赤井秀一。ここ暫くはお目にかかっていなかった。
殺気に近い無表情の赤井が奥から出て来る。
「っ、降谷くん」
目が合うと、赤井は、途端に険を削いだ顔をした。
降谷を見てぽかんと瞬く。それから慌てたように時計を見て、苦虫を噛み潰した顔になり、降谷のほうへ足早に近付く。
「すまん降谷くん、時間が過ぎていた」
赤井は眉を下げて降谷に謝った。
びっくりした。こんなに表情が一瞬で変わった。
赤井の不機嫌はやっぱり負の感情だけじゃなく、困ったり迷ったりする心の内だ。赤井は揺れる感情を降谷に示してくれている。
ああ、なんて贅沢だ!
「いーよ全然。先に帰ってたほうがいい?」
笑いながら降谷が尋ねると赤井は即答せず言葉に詰まった。ならば甘えてみようか。降谷は首を傾ける。
「赤井のこと待ってていい?」
「、……体調は」
「体力有り余ってる」
「……」
赤井は少しばかり落ち着かなそうな気配をした。赤井の助言通り甘えてみようとしたけれど、どうだろう。
「体調に問題はないんだな」
「うん。至って健康」
「健康ではないだろう」
「ちゃんと腹減るんだから健康だよ」
「なんだそれ」
赤井が小さく笑う。自然で柔くて、幼さすら感じるかおだ。
「……なら、待っていてくれるか」
「ん。じゃ待ってる」
降谷は頷いた。甘えて正解だったみたいでよかった。
「どっかで時間潰してたほうがいい?」
「降谷くんがいいならここで構わないが」
「じゃあお言葉に甘えて」
「ブラックでいいか」
「あ、いーよいーよ」
「座って待っててくれ」
部屋の一角に設置されたソファに降谷を座らせた赤井は、いつものように降谷の様子を上から下まで確認すると、コーヒーメーカーのほうへ行ってしまった。
いくら赤井が許可しても他の者が拒絶しているのなら配慮が必要だ。しかし彼らは呆然と、赤井の背中と座った降谷を交互に見ていた。その中の男が二人、コソコソと降谷に近付く。彼らは組織本体を解体してから日本に派遣された後発メンバーだ。
「フルヤ、アンタすごいな。シュウが人にコーヒー淹れるのなんて初めて見たぞ」
「そうなんですか?」
「シュウの笑顔なんて久々に見たぞ」
男の一人は「オレは初めて見た」と言った。横ではキャメルが何とも言えない表情をしている。向こう側ではジョディ・スターリングが肩を竦めて笑っていた。
降谷は首を傾けた。まあ、降谷の世話をするのは赤井にとっても特殊な理由からだ。笑顔。どうなのだろう。赤井は己の懐に入れた相手にはもっと柔らかな対応だろうと想像していたけれど、割と身内相手にも手厳しいのかもしれない。
「シュウって人に謝れたんだな。すごいなフルヤ」
少々興奮気味に言った男の背後から珈琲の香りがした。カップを手にした赤井が見下ろしている。怖い。シルバーブレッドの底冷えする氷点下の視線だ。
赤井は「面白い話をしているな?」と低く言った。怖い。男の肩がヒィっと跳ねた。おいおい仲間脅してどうするんだよ。憐れな彼らは慌てて職務に戻って行った。
「……あまり質は良くないが」
と添えて赤井がサーブしたカップは、マシンで淹れた珈琲ではなくドリップで落としたものだと香りで分かる。降谷が好む香りだ。カップに触れるとほんのり温かい。湯で一度温めてから淹れてくれたのだ。
「あったかい。ありがと赤井」
降谷が礼を言うと赤井は眉間に皺を寄せた。
「困ってる?」
「俺の顔は怖いんじゃないのか」
「怖いだけじゃないよ。照れ隠しとの区別つくようになった」
「降谷くん」
「ごめんごめん」
赤井はじとり降谷を睨んだ。全然怖くない。
「……俺のこれは自己満足に過ぎん。降谷くんの評価には値しない」
「だとしても、俺は嬉しいもん」
「……」
「ん。美味しい」
珈琲を一口。降谷が好む味だった。
赤井の惜しみない手間と心遣いに溢れてる。
「……よかった」
美味しいと降谷が言うと赤井はほっとする、その物慣れない嬉しそうな瞬きも好きだ。