ガス灯のもとで「灯りを消してもらえますか」
ガス灯の温かい光が満ちる船長室で船員は呟いた。口にするだけで恥に思える要望は、どうしても聞いて欲しい必死の願いでもあった。
「お願いです」
付け加えた一言は状況の深刻さを伝えようとする必死の仕草であり、初めて人魚を目の前にした時にも出すことのなかった震える声は確かに船長の耳に届いた。
「私は平気だが……何も見えなくなるぞ?」
ーーなにも見えなくても構わない。
最初から、そんな航海だった。
闇の中を泳ぐような、行き先も分からない、ただ何処にあるかすらも何処に向かっているのかも分からないものを追い続ける、そんな航海。当然それを口に出すことは無いけれど、陸を踏み締める感覚を忘れてしまいそうな程大湖の上に浮かんでいる誰もが感じていることだ。
「船長は人魚に噛まれたことがありますか」
未だに橙色に照らされた四角い空間の中で縋るように腕を掴んで船員は訊ねた。触れるだけで分かる深い傷跡は身体中に散らばっている。
「噛まれたら直ぐに手当てをしないと人魚になってしまうぞ、私は何度か噛まれたことがあるけどな?」
その時のことを知りたいか?と口元を緩ませる顔の頬へ手を伸ばしながら船員は首を横に振った。今はその気分ではない、と静かに断る。恋人がするみたいにそのまま手のひらを滑らせて船員はその老いた顔を魅力的に感じるのか、眼に映る人を崇高に思っているのかを再確認した。
確かに、人の形をしているのを確かめるように。
手のひらを滑らせて帽子も上着も身に付けていないからただの老人にも見えるけれど。せいぜい服装なんかより人の印象を作るものは沢山ある。脱ぎ去ってしまえば尚更意味はなくなる。
「本当に灯りを落とすが、良いんだな?」
「構いません」
「一応掴まってろ」
ガス灯がなければ船長室には一瞬で暗闇が蔓延する。固く閉ざされた扉の向こう側で聞こえる雷の光すら届かない、視覚以外を頼りにしなければいけない空間。掴まされた船長の腕は太くて安心できるから離したくないような、そんな気持ちにもなる。胸の辺りがぎゅっと息苦しくなる感じがしたけれど、気のせいだと決め付けた。