遠ざけていた煙草に再び手を出すようになったのは、あの日から。
タンッ──────────
脇腹の横を勢いよく通過したヒールが、背後の壁を鋭く突いた。ふわふわのミニスカートは捲れ上がり、その内側からは、すらりとしなやかな脚がむき出しになっていた。
「単刀直入に言う。不死川が好きだ。付き合ってくれ。」
黒のワンピースにフリルのついた白いエプロンとカチューシャ、いわゆる「メイド服」姿の小柄な生徒は、ハッキリとした口調でそう告げた。左右で色の違う不思議な瞳で、俺を見上げながら。
教師というのはかなり特殊な職業だ。職場内恋愛が多く、時には生徒から恋愛感情を向けられることも少なくはないとは聞いていた。でも、まさか・・・念願の高校教師になって約半年、本当に自分が告白される側になるとは夢にも思わなかった。しかも、受け持ちの「男子生徒」である伊黒小芭内に足ドンされながら。
「伊黒、この足どけろォ…それに、不死川『先生』だろ。ちゃんと敬語使いやがれェ。」
「では、敬語を使えば不死川先生は俺と付き合ってくださいますか?」
「・・・そんなこと言ってねェ。ホラ、片付けに戻んぞ。お前もさっさと着替えろォ。」
校内で一、ニを争うビッグイベントである文化祭が終了したのはほんの五分前。まだ片付けは始まってすらいない。メイド喫茶を模した教室は、ピンク色の風船やペーパーフラワーに彩られたままだ。借りてきたテーブルや丸椅子も、食堂に返しに行かないといけないのだ。
「先生の返事を聞くまでは戻りません。」
壁についた足を下ろすことなく、端正な顔は変わらずこちらを見上げている。これは何かの罰ゲームなのだろうか。一体、どうしてこんなことに巻き込まれているのだろうか。しばらく睨み合いを続けてみたが、伊黒は一向に諦める気配を見せない。はぁ、と思わず大きなため息をつき、仕方なく「返事」とやらを告げることにした。
「伊黒とは付き合わない、以上。」
「即答すんなよ。」
「即答に決まってんだろォ?お前にそんな感情はねェし、そもそも生徒と付き合うなんてありえねェ。」
「……そうですか。わかりました。」
壁についていた足は力無く地に戻り、二色の瞳はふっと伏せられた。
こういった場合、生徒の為にも自分の為にも毅然とした態度でキッパリと断るのが鉄則だ。下手な思いやりなど不要なのである。けれど未熟者の俺は、伊黒の落胆した様子に少なからず胸を痛めてしまった。だから気づいていなかったのだ。俯いてきた伊黒が、実はにやりと口角を上げていたことに。
「じゃあ…」
不意に掴まれたシャツの両襟は力強く引き寄せられ、そして──────
唇を奪われた。
「卒業までに落とすから、覚悟しろ。」
そう言い残して、伊黒は足早にその場を離れた。啖呵を切るような強い口調とは対照的に、髪の間からのぞかせていた小ぶりな耳は赤く染まっていた。
「嘘だろ…」
コツッコツッと廊下に響くヒールの音は、動揺した俺のココロをつついてくるようだった。
帰宅すると同時に、ベッド下の引き出しの奥深くにガサガサと手を突っ込んだ。しまい込んでいた煙草とライターを取り出し、ベランダへ出て手早く火をつけた。
「っ、ケホケホッ…」
久しぶりの煙に体は拒否反応を起こし、視界がくにゃりと歪む。それでも懲りずに、煙を肺に大きく取り込んで、長く長く吐き出した。脳裏にこびりついたあの表情と台詞を振り払うかのように。
『卒業までに落とすから、覚悟しろ。』
卒業式まで、あと五ヶ月。