リンウイ本編後、ウィスクラ未満学園都市オネキスへの道を、ツェルを乗せた馬ぞりが颯爽と走る。
雪はまばらに降る程度で視界は悪くない。予定より早く都市内へ戻れるだろう。
まだ明るい空を見ながら、ツェルは静かに息を吐いた。
学園の警備組織に所属していたツェルだったが、今は総長の次男、ウィストと共に、その長男レイスが患っている難病「精霊病」を直す薬の研究をしている。
一時は悪化するばかりだったが、幸いにも病状の進行は遅くなっており、治癒への希望を辛うじて繋いでいた。
研究の進捗は一進一退なりに、先日はじめての試薬を完成させた。
試薬の入った瓶を見ながら、安心したように顔をほころばせたウィストに
「喜ぶのは早すぎるでしょう」
と、水を差すように、冷ややかにツェルは言う。
「そうだな、まだこれからはじまったばかりだ」
そう表情を引き締めるウィストは以前よりも覇気があり、優秀であるのに居心地が悪いからと逃げていた情けない頃の面影は薄らいでいる。
それでも、ツェルのウィストへの鬱積した気持ちはまだ残っていたし、それに嫉妬が混じっていた事も自覚しつつ、ウィストへの一種の八つ当たりにも似た冷たい物言いは未だに続いている。
薬草を育てるための温室や加工するための部屋を借りている近くの集落と、設備の整っている塔や居住のあるオネキスを往復する生活を続けていたある日、温室の管理の為にウィストが数日泊まりこみをする事になった時に彼に似つかわしくない荷物が目に入った。
「どうしたんですか、そのリュート」
「あぁ……少し練習してみようと思って」
と、笑うウィストに楽器を演奏するイメージは全くない。
リュートと言えば……ツェルは最近知り合ったクラブと言う男を思い出す。
クラブは、ニーゼを流浪しながら吟遊詩人をしていた食えない美丈夫、実は未来からやって来て、未来を、世界を救うために自ら人であることを捨てた、もうここにはいない人。
数日顔を合わせた程度のツェルにはそれくらいの認識しかなかったが、ウィストが行方不明になった事から発覚する精霊事件(と、まとめるにはいささか雑だが)の濃さで印象に残っている。
「吟遊詩人にでもなるつもりですか?」
冗談半分にツェルがそう言うと
「それもいいかも知れないな」
「な……!」
「なんて、冗談だ。なんていうか……真似事みたいなものだ」
そう言って笑うウィストをツェルは思わず睨みつける。
「……タチの悪い冗談はやめてください。レイス様の病状を考えれば悠長にしている時間も、他の事に構っている場合でもないんです」
「それはわかってる。でも……ツェル、クラブの事を覚えているか?」
「えぇ、もちろん」
ツェルが返すとウィストはリュートを手にして目を細めた。
「世界がこの先も続いて巡っていくなら、俺はクラブの歌を繋いでみたいって思ったんだ。この世界でクラブが、”クラブ”として生きていた唯一の証みたいなものだから」
優しい声色の中にもウィストの揺るがないものを感じて、ツェルは驚いた。
ウィストとクラブは時々顔を合わせる程度だと言っていたが、実際にどんな関係だったのかは知りえないが、今のウィストに確実に影響を与えているのが、精霊事件やクラブの存在だったのは事実としてある。
ウィストなりの彼への敬意の表し方なのか、それとも……
ツェルはそこで考えるのをやめた。
「まぁ、いいんじゃないですか。仕事さえして頂けるなら、趣味のことまで口出しするつもりはないです」
「はは、ありがとう」
そう言ったウィストがリュートの表板を優しく撫でていることが、答えのように感じた。
それからウィストの部屋の前を通る時や温室での作業の合間に、度々リュートの音が聞こえるようになった。
奏でるとはほど遠かった演奏も、最近は時々つっかえる程度に収まっていて、時々レイスも聴きに訪れているようだ。
今日はウィストが温室に泊まり込む日だ。例に漏れずリュートを持参していたウィストは食事を済ませた後にでも、彼の歌を集落の人たちに弾き語るのだろう。
オニキスを覆っていた厚い雪は少しずつ薄くなっている。
雪が徐々に解けていくように、世界がゆっくりうつろいゆくように、オネキスを中心として機能している学園都市の仕組みも変化していくんだろう。何にしても今の自分にできることは、この時間を確実に繋いでいくことだけだとツェルは思う。
間もなく馬ぞりはオニキスに到着する。
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「ウィスト、1曲どうかな?」
そう言ってリュートをてにしたクラブが訪ねてきたのは深夜もすぎた頃だった。
「こんな時間に?」
「こんな時間だからだよ。どうせ寝付けてないんだろうし、子守歌にいいんじゃないかな」
「間に合ってる」
「まぁまぁ、そう言わずに」
「押し売り」
「減るものじゃないし、1曲だけ歌わせてよ」
半ば強引に入って来たクラブに苦い顔をしながらも、数時間前の精霊たちとの対話とその深刻さを思い返して寝返りをうつだけだったウィストはそのままクラブを迎え入れた。
「リクエストはあるかい?精霊の戯れなんてどうかな?」
「やっぱり押し売りじゃないか」
「はは、その通りだよ」
椅子に腰かけたクラブはそう笑ってからリュートを軽く鳴らす。
「僕が聴いて欲しいんだ。……あんなことがあった夜だからね」
深夜だからか、いつもより控えめな伴奏とクラブの優しい声。
聴いたことがあるメロディに、なじみのない歌詞がのる。
(四精霊の戯れ……)
確か、最初にクラブを見かけた時に歌っていたはずだ。
ニーゼで伝わる歌と歌詞が違うと指摘した時は、各地の伝承を元にクラブがアレンジした歌詞だと教えられた。
あの時は、そういうものなのだなと軽く流していたが、この数日の間に起きた出来事を考えると、四精霊の歌詞には納得する。
それをクラブが作り得れた事も。
与えられた吟遊詩人の仕事でなくても、クラブは誰よりも吟遊詩人だと、ウィストはその歌に浸りながら思った。
演奏が終わり、クラブが一礼をするのに合わせて、ウィストは軽く拍手をする。
「なんていうか、本当にいたんだよな、4精霊」
「今は3精霊になりかけてるけどね」
「そうだな……」
神の意志だ。自分たちの手ではどうすることも出来ないことを改めて思い出す。
「まぁ、なんとかなるんじゃないかな」
そう言ってクラブはへらっと表情を崩した。一番深刻な状態のはずなのに、何でもない事のように笑うものだから、ウィストの方が慌ててしまう。
「なんとかって、そんな呑気な……。あと、未来から来たって……ずっと隠してたんだな」
「そこは、ほら。気軽に話せることじゃなかったし」
「少しくらい相談してくれても良かったのに」
「自分の事だけで手一杯で、他人に気をまわせるわけでもなかったウィストに?」
「ぁ……」
クラブの言葉に、自分の為に逃げる事しか考えていなかった過去を恥じるような気持ちになり、ウィストはクラブから顔を背けた。
「責めている訳ではないさ。君は、君を生きるのに必死だったんだから。そもそも、”未来から来ました、このままだと未来が滅びるから助けて欲しい”なんて、信じられないだろう?ウィストが気にすることじゃないよ」
はは、とクラブはまた笑う。
どうして、こんな状況で。
ウィストが顔をあげると「でも、ありがとう」とクラブが慈しむようにこちらを見ていた。
「っ!……明日も考えないといけない事が多い。そろそろ休もう」
クラブから送られる視線に居心地の悪さを感じたウィストは、それを振り払うように言った。
「……そうだね」
一拍置いた返事と共にクラブはゆっくりと立ち上がった。ドアを開けてからクラブはウィストに振り向く。
「ウィスト」
「どうした?」
「……僕の歌を聴いてくれて、ありがとう」
口元に弧を描き、美しい微笑みを残してクラブは部屋を出た。
今思えば、あの時にはクラブは覚悟を決めていたんだろう。
翌日、クラブは”クラブ”の全てを精霊に捧げて、消えた。
「今、自分にできることをしたい」
そう言って世界を、未来を繋げるために、未練は何もないとでもいうように、あっさりと。
クラブの中でどんな葛藤があったのかは知らないし、あれが最適解だったのかも知れない。
けれど、あの日からウィストは後悔や寂しさだけでは収まらない澱を抱えていた。
あれから何週間か後。
温室の管理の為にしばらく集落に泊まり込む事になったウィストが衣類を準備しようとクローゼットを開けた時に、小さな違和感を覚えた。その感覚のままに衣類をかきわけると、奥に隠れるようにそれはあった。
「……リュート。……なんで、こんなところに」
一目であの日の夜にウィストが弾いていたリュートだとわかった。
なんで、こんなわかりにくい所に隠れて、でもいつか、気付いて欲しいと言わんばかりに。
ウィストの心臓が跳ねて、澱ごとかき混ぜられていく。
「はは……はははは!!」
ウィストは込みあげてくるままに笑った。
ひとしきり笑った後、ウィストはリュートを手にする。
はじめて持ったというのにやけに手に馴染む感じがした。
その弦を1本はじく。
あの日広場で歌っていたクラブの存在のような、柔らかい音色だった。