何百、何千回目の少し早く目覚めたサンポは、寝苦しさの中で星が蹴り飛ばしたらしい毛布をお腹周りにかけ直してやってからベランダに出ていた。涼しい朝の空気にあたりながらぼんやりと日々の会話を思い返す。
(「結婚してください」)
(「やだ」)
普段のサンポと星の会話は、大体こんな感じだ。別に星はサンポを嫌っている訳でもなく、というか二人はそれこそ「お付き合い」というものを何年かしている。けれど日本の女子高生が使う可愛い~! と同じくらいの軽さでサンポが口にしてきた「結婚してください」の一言には、それこそ恋人同士でいうI love you程度の気持ちしか込められていないので、毎度毎度すげなくあしらわれてしまう。
そんな日々を繰り返すこと数年。
もう何度、その言葉を伝えて断られてきただろうか。
「……おはよ」
「おや、おはようございます」
からからと網戸の開く音がする。ちらりと視線を投げかければ眠い目を擦りながら星がベランダ用のスリッパに足を通していた。冷蔵庫から取って来たらしいアイスを一本手渡してくれたので、ありがたく口をつける。
「まだ寝ていなくていいんです?」
「暑くて目が覚めた」
部屋の中を見ると先ほどサンポがかけ直してやった毛布は端によけられていた。どうも良かれと思ってやったことが却って目を覚まさせてしまったらしい。
「貴女、僕が起きた時には毛布を蹴り飛ばしていましたよ。昨日の夜は確かに暑かったですからねえ」
昨日の夜、という単語にぴくりと反応した星が目を逸らす。
「……暑いから長引かせるのはやめてっていったのに、聞く耳持たなかったじゃない」
「それは不可抗力ですよ? 貴女がっむぐ」
「へんたい」
朝のベランダで何を口走る気だとでもいうような星の手に口を覆われてしまった。視線だけで申し訳なさそうに星を見つめ返すも、じとりと睨まれてしまう。このままでは手に持っているアイスが垂れてしまうので、サンポは怒られることを承知の上でぺろりと星の手のひらを舌の先で舐めた。
「わっ」
可愛らしい悲鳴と共に、サンポの目論見通り手が離れていく。してやったりと思いながら慌てて垂れかけていたアイスを食べ進めていれば、何か言いたそうにしていた星も自分のアイスを食べることに専念し出した。
穏やかな朝の涼けさと、ささやかな喧騒と、遠くを見つめる金色の瞳。うつくしく象られた横顔の輪郭を視線でなぞった先に、真白の首筋が映る。
今朝の星は自分の服ではなくて、サンポのTシャツを着ていた。サンポのTシャツは元々オーバーサイズなものを買っていたこともあり、一回り小さい星が着るとワンピースのようにも見える。涼しそうではあるが、首回りが些か不用心すぎるのも困りものというもので。
昨夜の自分がつけた噛み痕が残る白い首は、情欲をかきたてるというよりも、一周回って絵画のような繊細さのある美を纏っていた。
「……星さん」
サンポがぽつりと呼びかけると、街並みを見下ろしていた星が既に食べ終えたアイスの棒を指先で弄びながら顔を上げる。見つめ合った双眸は夜明けのように輝いていた。
貴女が僕だけのひとになってくれれば、と。
昨夜も情事の最中に幾度も考えたことが、独占欲のような醜い感情が、綺麗な言葉になって口から溢れ出す。
「僕と、結婚してください」
それはもう何百何千回と繰り返してきた言葉で、何百何千回も同じように断られてきた愛の言葉だった。
「──うん、いいよ」
「ですよねえ、断り……はい?」
今回もきっと変わらないだろうと思い込んで茶化すような言葉を口にしかけたところに、何か違和感のようなものを覚える。
今、星は何と言った?
「いいよって言った」
都合の良い夢なのだろうか。だが、もしも夢だとするのならあまりにもサンポにとって都合が良すぎる。やはりこれは現実に違いないのだ。あんぐりと口を開けたままのサンポを、星がじっと見上げている。
「断らないんです?」
「だって今日のサンポ、本気だったでしょ」
普段の冗談交じりのプロポーズじゃなくて、ちゃんと気持ちのこもった言葉だったから。
そう言ってベランダの塀に頬杖をついて笑う星に、サンポは言葉を詰まらせる。断られることを恐れすぎて保身のように冗談めかしていたから断られていたのか。ならば、もっと前から。おそらくサンポが思うよりずっと前から、星はサンポが本気で申し込んだのなら受け入れる気でいたのだ。
「してくれないの? 結婚」
「っします! するに決まっているでしょう!?」
揶揄うような声色に思わず前のめりになれば、手に握っていたものがふっ、と軽くなる。星が「あ」と軽く声をあげたのでサンポも視線を其方にやれば、食べかけだった筈のアイスが棒だけになっていた。ベランダ下を覗き込めばべちゃりとアイスの残骸が見えて、サンポは思わず苦笑してしまう。
「こんなに格好悪いプロポーズも中々ありませんね……あーあ、僕のアイス」
「可哀想だからあげる」
「? 貴女、もう食べ終わっていた筈じゃ──」
顔を星の方に戻した瞬間に、胸倉を掴むように引き寄せられて唇が重なった。微かに残るバニラアイスの味。
「アイスをあげるなんて、言ってない」
触れるだけの口付けのあとで星が悪戯っぽく笑っている。
「……星さん、」
「言っておくけど、朝からそういうことはしないから」
「貴女には人の心がないんですか!?」
「折角の休日が寝台で汗だくになって終わるの、嫌だよ」
「それはそうですけど」
はあ……と溜息を吐きながら、サンポはそっと星の肩に腕を回して引き寄せた。ぐりぐりと肩口に頭を押し付けるようにしていれば、自分がつけた嚙み痕が目に入るのでさらに欲を煽られてしまって、どうしていいか分からない感情の後で端の方に追いやられていた事実が戻って来る。
ああ、そうでした。プロポーズ、受け入れてもらえたんでしたね。
「……星さん」
「なに?」
「好きです」
普段は言わない癖に、とでも言いたげな笑い声が降って来る。
「じゃあ私も、今日くらいはちゃんと言おうかな」
星の手のひらがそうっとサンポの頭に添えられて、髪を梳かすように撫でられた。心地よくて、何だか胸がつまる。
「すきだよ、サンポ」