いいくるめ「んん……」
最近は寒くなったかと思えば暑くなったり、気温が上下してばかりで嫌になる。とはいっても朝はすっかり寒くなったので、布団から出られないことには変わりないのだが。仕事仕事、と覚醒しかけていた意識が「今日は休日だった」という微かな記憶で再び沈んでいきそうになる。
「お目覚めですか?」
――聞こえる筈のない声が耳のすぐ傍から発せられるまでは。
警戒心の強い猫のように寝台の隅、壁際まで飛び退いた星が威嚇するように睨めば、睨まれた当の本人はやれやれとでもいうように肩を竦めていた。肩を竦めて溜息を吐きたいのは星なのだが。
「んもう、出張帰りの夫に対してその態度はどうなんです? 僕の奥さん♡」
「うっっっっっっっっっわ今すごい寒気した、二度とその呼び方しないでほしいかも」
「したらどうなります?」
「気付いたらサンポが地面に倒れてるかもしれない」
「つまり怒りで我を忘れて僕を殴ると。酷いですよお」
出張帰り。そう、その言葉の通り、サンポは諸事情あって暫く北の方に行っていた。仕事内容については同じ立場でもおいそれと共有したりしないのが公安なので詳しい行先などは聞いていないが、口ぶりからするに出張終わりにそのまま星の家に来たらしい。よくもまあ寒い地方にコートも無しに行けるものだ。サンポが妙に寒さに強いことは永遠の謎かもしれないなと思いながら、星はじわじわと距離をとる。
「それで、出張帰りのサンポは何でわざわざ私の休日を妨げに来てるの?」
サンポが出張帰りなら星も本庁帰りだ。それも神無月の暮れということもあって年末に向けた警戒が続く中、やっとのことでもらえた休みである。ぶっ通しで寝て消化しようと思っていた久方ぶりの休暇だが、蓋を開けてみれば寝起きからサンポと顔を合わせることになっているのだから……人生とは苦労がつきものなのだ。
「妨げるだなんてとんでもない。折角の休暇ですし、今日は良い夫婦の日ですから……僕たちも偶には夫婦らしいことをしましょうよ」
ねえ、と寝台に乗り上げてきたサンポの重みで一人用ベッドのフレームが軋む。伸ばされてきた掌は星の首筋に触れて、そのまま無遠慮に胸元に這うと――目当てのものを見つけて引っ張り出した。やや長めのネックレスチェーンと、光を受けて輝く銀色の指環。
それは、星とサンポが結婚していることを示せる数少ない物の一つだ。
一つだけ強く提示しておきたいことがある。それは、誠に不本意だが星は自らの意思でサンポとの婚姻届に署名したという事だ。ただし二人はそれまでもそれからも恋人では無い。ただその日の星は強く酔っていて、そこでサンポと話していたことを幾つか断片的に思い出すのなら以下の通りだ。
(「ね、お姉さん。もういっそ僕らで籍を入れましょうよ。酔ってるかって? とんでもない、僕はいたって真面目ですよ」)
(「じゃあ星さんは面倒だと思わないんですか? 上の人間たちは何故ああも僕ら未婚の人々に対して結婚はまだかと勧めて来るんだか……全く理解できません。僕は面倒になりました」)
(「……ほら、やはり星さんも面倒だと感じていたでしょう?」)
(「他の人にこんな話持ちかけたりしませんよお、碌に知らない人と縁を結んだところで面倒ですから。上の人々に政略結婚のコマとして扱われるのもごめんです」)
(「そうと決まれば善は急げですよ。眠い? 酔っている? 大丈夫です、このサンポにお任せください……幾つか行かないといけない所がありますね」)
あれやこれやと酔いが回る中つれまわされて、助手席にシートベルト付きで座っていた星は右に左に頭を揺らしながら夜の中心都市東京のネオンライトを眺めて、うたた寝をして、そう、それで……随分と機嫌がよさそうなサンポにこう囁かれた事だけは覚えている。
(「身を焦がすような恋も甘ったるくて浮足立ちそうな言葉も僕らには似合いませんけど――この世界の誰よりも、星さんを退屈させない自信ならありますよ。貴女もそれだけは否定できないでしょう?」)
そして翌朝、毎度の如くサンポの家で目を覚ました星は――自分の指にとんでもなく高そうな指環が輝いているのを発見して寝台の柱に頭をぶつける羽目になったのだ。婚姻届受理証明書なんてものが机の上に置かれているのを見て更に頭痛をおぼえたし、サンポを叩き起こせば既に上に報告したと言われる始末。まんまとやられた。
けれど先に述べた通り、星は署名を自らの意思で行っている。それがサンポに対して今すぐ離婚届を出しに行こうと言えなかった理由の半分。例えいつかのように媚薬を盛られていたり、酔っていたとしても、星は嫌なことに対しては本能的に拒絶できる。つまり本当に嫌だったら署名時に暴れていたことだろう。ちなみに理由のもう半分は、
(「……まあいっか」)
星もサンポと同じく、上から結婚を催促される事に対して面倒になってきていたから。今思えば星の習性をよく理解していたサンポにまんまとしてやられたが、籍を入れただけで二人の関係性は何も変わっていない。
夫婦の二文字が関係値に足されただけで、家はお互い別々のまま。サンポは星の家の合鍵をいつしかに勝手に拝借していて、サンポの家の鍵は気付けば星の鍵入れに勝手に収まっていた。使った事は無い。身体の関係だって元からあった。半ば利害の一致というか、これもこれでサンポに上手く丸め込まれた感じだが深く掘り下げると面倒なことになるのでやめておく。
指環に関しては業務上日焼けあとが残ると潜入時に不味いのでお互いに指ではないところにつけているのが現状だ。飲んだ勢いでそのまま作りにいった指環にしてはデザインが自分好みだ、という話をした時にはなのかと丹恒が何処からつっこめばいいのか分からないという顔をしていたが、星の意に沿わないことをされていないのなら別に構わないという所に二人の意見は落ち着いていたように思える。
くいっ、とネックレスチェーンを軽く引かれたことで遠くに行っていた思考が戻って来た。どうもサンポはただ指環を指で弄んでいただけで、引っ張るつもりはなかったらしい。珍しく真面目な声の謝罪が降って来る。別にそれだけで怒ったりはしないので、星は謝罪をスルーしてやんわりと手を押しのけた。
「で、夫婦らしいことって何? いかがわしいことだったら蹴り出すから」
「いかがわしいこと、の定義にもよると思いますが……わかりました、わかりましたって。僕をどう海に沈めるかを頭の中で考えるのはやめてください」
「はずれ。どこの山に埋めるか考えてた」
「どのみち死体の不法投棄は犯罪ですよ、お姉さん」
ほら、起きた起きた。温もりの残る寝台からあっさりと星を引きずり出したサンポは、クローゼットを開けるとこれ、これ、とあとそっちの、と何枚かの服を星に抱えさせてくる。着替えろという意味だろうか。突っ立ったままの星をじっと見つめてから、思い出したように顔を近づけてきたサンポは唇をすり合わせてきた。
「いかがわしいことだったら蹴り出すって言ったけど」
「じゃあ……今日は逐一、する前に聞きましょうか?」
「聞けばいいってものでもないと思うけど」
こつんと額が合わさっている。暫く無言で見つめ合っていると、サンポは先程引っ張り出したネックレスチェーンに手を伸ばしてきた。ネックレスを外して星の指環を掌に収めてから再度視線が合わさった。
「ね、キスしてもいいですか?」
「やだ」
一刀両断。着替えるから出てって、裸まで見た仲なんですから今更着替え一つでどうってことないでしょう。そんな割と最低な会話でいい夫婦の日とやらは幕を開けた。
◇ ◇ ◇
中略
時間が無いのでいずれ書きますが、星ちゃんの買い物に丸一日付き合います。とはいえ無理に連れ出したのはサンポの側なので、星ちゃんに買いたい物とかないんですか?って促しまくってちょっとでも買いたいなと思ったものがあれば全部買ってる感じです。
サンポは買い物の時の財布と荷物持ちには喜んでなってくれる。その理由として、貢ぐというよりは後でその労働の対価分を星ちゃんに満たしてもらっている、もしくは先に満たしてもらった分の対価として捉えている。けれどそもそも星ちゃんがサンポに自ら何かを頼りにいくことは稀なので、こういう形で勝手に損得勘定のプラマイを合わせてくる。
◇ ◇ ◇
指に指環がついていると、案外気になるものだ。
薬指に銀色が光っている光景が慣れなくて何度も見てしまう星を、サンポが頬杖つきながら見つめている。
「気に入らないですか?」
「いや、そういうのじゃなくて……勢い任せに作りに行ったのに、結構私好みなんだよなって思って」
酔いで頭が回らない中、色々とやることがあると言ってサンポに連れ回されたうちの一つが宝石店。この指環の由来だ。流れ星みたいに細かい装飾が施されているこの指環は、由来こそアレだが案外お気に入りである。
「いやぁ、今だから言えるんですけど」
「うん」
「指環、別に適当に買った訳ではなく……前々から発注していたものなんですよねえ」
「うん?」
凄まじい勢いで顔を上げた星に揺らぐことなく、サンポは相変わらず頬杖をついたまま飄々と話を続けた。勢いに負けて目にかかった星の前髪を少しずらしてやる余裕つき。
「僕が言うのもなんですけど、おかしいと思いませんでした? 婚姻届の保証人欄も指環も全部一晩で用意できる訳ないじゃないですか。貴女の言葉を借りるなら「お金の使い方が変わっている」僕ですよ? 指環は拘りに拘り抜いてますから」
た、確かに。指環の話を聞いた時になのかと丹恒が何か言いたそうにしていたのはもしかしなくともこれが原因だろうか。
他にもあれやこれやと、サンポは星と籍を入れるに至るまでの手順を余すことなく話してくれた。順を追って丁寧に。犯人が犯行計画書を目の前で読み上げてくれているような心地になりながら聞いている星は、不思議なことに一切怒りを覚える事が無かった。どちらかといえば納得と困惑が強い。
一見矛盾している二つの言葉だが、納得はサンポの言う通り「一晩で用意できるわけがない」という点についてで、困惑は「何故自分にそんな手間をかけたんだ」という点について。
「はあ……」
「僕が言うのもなんですけど、此処まで聞いた感想がその二文字なんです?」
「いや、よくそこまで面倒なことができるなって感動してるよ。ねえサンポ、わざわざ私をぐでんぐでんに酔わせてからじゃなきゃ駄目だった?」
痛い所を突かれた、というような顔をサンポがしている。視線が微かに泳いだのを星は見逃さない。出張帰りでスーツ姿のまま星を連れ回したサンポは珍しくネクタイをちゃんとつけているので、それを緩めるついでに引っ張れば意図を察したサンポが顔を寄せてくれる。
「別にあんたなら、素面の私でも言いくるめられたでしょ。わざわざ酒で潰してから安全な道を選ぶくらい焦ってた?」
「断られたら悲しいじゃないですかあ……」
「はいはい、しらばっくれないで。本当のところは?」
わざとらしい泣きまねも悲しがるふりも要らない。道筋も建前も抜きにして、星が求めるのは真実だけだ。ネクタイを弄んでいた星の手のひらをサンポの手が掴む。
「上の人達が、結婚云々言っていたでしょう? 僕、平和に穏便にその話を無くすつもりだったんですけど……貴女に直接その話がいきそうになって。貴女のことですから仕事の一環だと言われたら受け入れかねない」
ゆっくりと指を這わせてネクタイから剥がされた後、やや強い力で手首を握られた。
「ね、ほら……お気に入りを横取りされるなんて、許せないじゃないですか」
サンポの瞳がぎらりと光る。そこに垣間見える執着を向けられるのは初めてのことではないが、陽の光の当たる所では初めてかもしれない。夜に向けられることが殆どだったその感情を昼間に向けられているアンバランスさで頬が少し攣った。
「貴女の価値を正しく理解できる相手なら考えますけど、有象無象なんかに貴女の価値は分かりませんよ」
「だから手早く私を言い包めるために酔わせたってわけね」
「大正解です♡」
捜査一課で出会った時から今も相変わらず――星はいまいち、サンポが自分に何を見出しているのかは良く分からない。薬の件や船の件など、色々な事件を通して距離を詰めてきたサンポはうまく星の許容範囲に滑り込んできた。
だが、彼自身は意図せずして公安以前に星の信頼をある程度勝ち取っている。そこだけはサンポがうまく立ち回る前のことなので、星の意思で彼を信頼していたことは確かなことだ。
「別に恋人らしい内容で、とは言わないし見たくもないんだけどさ」
「ん?」
「プロポーズくらいはやり直してよね。あんたの言葉で」
結婚を証明する婚姻届は二人の関係値において、人生をお互いの背に預け合う契約書である。プロポーズは契約するための提案の台詞だ。それくらいは用意してもらわないと夢が無い。
「公安でのあれこれもそうだけど……拘束される気も無いくせして手綱を無理やり私に握らせて来るんだから、誠意くらいは見せてよ」
◇ ◇ ◇
そのあと
「星さん、キスしてもいいですか?」
「やだって言ってもするくせして、っむ」
「こんなのキスに入らないでしょう、触れるだけのお遊びじゃないですか」
舌で唇をぺろっと舐められる。反射的に開いた唇同士の隙間に指をねじ込まれて、指が上顎を撫でる感覚で背が震えた。車の中だからといって此処は家の中ではない。こんなことになるならシートベルトなんてつけるんじゃなかった、と身動きを取りにくくする選択に内心舌打ちをした。シートベルトを外そうとした手はサンポに捕まってしまう。
「ここに舌を入れて、ぐちゃぐちゃにしてもいいかと聞いているんですよ」
……夫婦らしいことって結局こういうことになるわけ? と文句を言いたい気持ちはあったが、指が口の中で蠢いている感覚は背が跳ねそうになって少し嫌い。頷かなくても勝手にすればいいのに、星は嫌々とごねるだけで今更強く拒絶はしないのに、全部分かっての上で星に言わせたり、頷かせたり、とにかくそういう趣向なのだ。サンポという男は。
こくりと頷けば、星にやや上を向かせたサンポがゆっくりと舌をねじ込んできた。質量に押し潰されていく感じが、息苦しさも相まって支配されているような感覚に陥っていく。貴女が見張っていてくださいよ、なんて公安で星に手綱を握らせるような真似をしておきながら、その星の手だけでなく首に手をかけてきている現状について、上下関係も定まらないくらいに歪だということは星も分かっているけれど――まあ、それはそれでいいのかもしれない。
サンポは、この男は約束だけは違えない。
星をこの世界の誰よりも退屈させない自信があると口にしたサンポのことを、何だかんだ星は信じている。それだけの信頼が、ある。
ならば人生一つ分の契約を交わす価値も、そこには存在するのだ。