初「……バレンタイン?」
「ええ、バレンタイン。その様子を見る限りだと初耳かしら?」
モグラ党の子供たちに一粒一粒包装されたチョコレートを手渡しているゼーレが、偶然通りすがった星にも一粒投げ渡してくれる。今日は2月14日。星にとって2月の14日目である以外の意味を持たなかったただの日付が、ここにきて急にバレンタインデーという名称を得た。
バレンタインデー。ゼーレがいうにはとりあえず仲の良い人やお世話になっている人にチョコレートを渡す行事のようなものだという。そういえば星は今朝起きて早々に列車を飛び出しベロブルグに降り立ったのだが、なのかから呼び止められたような気がしなくも……ない。それに見間違いでなければなのかは手に小さな包みを持っていたし、ラウンジにいた姫子とヴェルトも全く同じ包みを持っていたような気がする。しまった、お菓子をもらえるチャンスを自ら手放すなんて。列車に帰ったら真っ先になのかの所に向かわなければ。
言うまでもなく星の頭の中には現時点で食い意地だけが残っている。少々呆れたような眼差しがゼーレから向けられているが、こればかりはしょうがない。ゼーレから貰ったばかりのチョコレートを早速口に放り込めば、舌の上に甘い味がとろりと溶けて広がっていく。
「そういえばゼーレ、チョコレートはどこで買ったの?」
「ああ、これは行政区の……でも今行って残っているかどうかは怪しいわ。ワタシが行った頃には随分と減っていたから」
「行くだけ行ってみようかな。あとでゼーレにも渡しに来るね」
「気が向いたらで良いわ」
残っていたら良いわね、とひらひら手を振ってくれたゼーレに背を向けて走り出す。向かう先は行政区と下層部をつなぐケーブルカー。
乗り込んでから見渡した車内は、確かに誰も彼もがチョコレートを手にしていた。否、全員がそうかと言われれば怪しい所もある。星の向かいに座っている男などは隣でチョコレートを手にいちゃいちゃしているカップルの存在をこの世の終わりでも迎えたかのような顔で見つめていた。そんな世界の全てを恨むような心地で過ごすものなのだろうか、バレンタインとは。純粋な疑問で首を傾げた星に答える者はいない。
さてさてやって来たのは行政区である。博物館前の噴水に目をやれば、ペラが子供たちにチョコレートを配っていた。自分も未成年ではあるのだから、子供だと主張して貰いに行ってみるべきだろうか。チョコレート配りに惹かれて一歩踏み出そうとしたところで、路上販売の商魂たくましい宣伝文句が耳に入った。
「あと十箱! うちの店はあと十箱で完売だよ! ここを逃したら表通りで今日中にチョコレートを買うのは難しいだろうね! おひとりさま一箱ずつ!」
「……え、えっと? じゃあ十人が並んだら売り切れってこと!?」
遅れて事の重大さに気付いた星は慌てて背を翻す。ゼーレの言葉通り、チョコレートはあまり残されていないようだった。
考えてみればベロブルグのような閉鎖都市、まあ最近はカンパニーとの取引が長年の時を経て再開されたが、限りなく需要と供給のバランスが一点に定まっている都市では行事物の在庫も例年決まった量が流通する筈。そこに今年のバレンタインは下層部との行き来が解放され、供給に対する需要が増加したと考えれば、バレンタイン当日の昼時にチョコレートが売り切れていてもおかしくはない。
という堅苦しい理論を星が考えている筈もなく。
星はただ、そこまでして皆が買い求める時点で、バレンタインにチョコレートを食べるというのは誕生日に誕生日ケーキを口にするようなものなのだろうかというズレた考えのまま足を走らせていた。
チョコレート。食べたい。
もはやチョコレートを人に渡すという元来の目的は二の次になり始めていた。
「あと少しっ……!」
ぞろぞろと人が集まり始めている店の前には、既に五、六人の客が並んでいる姿が見える。今駆け込めばギリギリ間に合う筈。脇目もふらずに足を走らせていた星は次の瞬間、
――ドンッ!
いつかと同じような既視感を覚える光景だが、綺麗に宙を舞う羽目になっていた。
◇
「……さん、星さん?」
「う……」
眩しさに目を擦りながら瞼を開く。ここは、私は何を、と回らない頭で考えていた星の脳裏にパッとお菓子の名前が浮き出た。
「チョコレート!」
「うわっ!?」
「チョコレートは!?」
きょろきょろと辺りを見渡して路上販売の店先に視線を投げかければ完売御礼の文字。つまり星のチョコレートは既に売り切れてしまったのだ。ああ、チョコレート。あからさまに肩を落とせば隣から呆れたような溜息を吐かれてしまう。
「貴女、轢かれて最初に出てくる言葉がチョコレートですか……」
そういえば目を覚ます前から誰かに名前を呼ばれていたような、と視線を戻せば困り眉のサンポが星を見ていた。自分がベンチに横になっている事も謎だが、此処にサンポがいる事も謎だった星は思わず目を丸くする。
「サンポ? なんで此処に?」
「覚えていませんか? 貴女、思いっきり線路の上に飛び出して車体と正面衝突したんですよ」
偶然その車両に僕も乗り合わせていたという訳です、と簡潔な説明をされた。つまり星はチョコレートに向かって一心不乱に走っていたばかりに電車に轢かれ、その上チョコレートも買い損ねたのである。
そういえば以前、なのかの写真を復元する手伝いでベロブルグを訪れた時にも電車に跳ね飛ばされたような。
「二度あることは三度あるって言うし、またいつかぶつかるんだろうな……」
「はい?」
「ううん、こっちの話」
怪訝そうなサンポの声をさらりと躱し、今度は星が溜息を吐く。
「あーあ、チョコレート買えなかったな」
「誰かに渡すおつもりで?」
「うん」
「おや、それなら行政区の路肩で販売されているチョコレートはあまりおすすめしませんよ。少なくとも貴女たち列車の皆さんは、他の惑星でもっと美味しいチョコレートを買えたでしょうに。まあ、運がない日だってありますよ。そう気落ちしないでください」
あと自分で食べたくて、と付け加える前にサンポが被せてきた言葉がこれだ。気落ちするなとは言うが同情するような声色ではなく、むしろ星がチョコレートを買えなかった事を喜んでいるような物言い。
既に電車に弾き飛ばされて(これは左右を見ていなかった星が悪いが)散々だというのに、何故チョコレートを買い損ねた事をサンポに喜ばれないといけないのか。星がムッとしたまま立ち上がった歩き出せば、サンポは慌てて横に並んでくる。星が全面的に不機嫌だと押し出している様子が珍しかったのだろうか。
「私がチョコを買えなかった事、そんなに喜ぶなんて思わなかった」
つーんと刺々しい言葉でついて来ないでと意思表示をすれば、サンポの顔に困惑が過る。
「はい? 貴女、誰かにバレンタインのチョコレートを渡すために買いに来たんじゃなかったんです?」
「あんたに誰かに渡すつもりかって聞かれたから頷いたけど、渡す分以外は自分でぜんぶ食べるつもりだった。バレンタインってそういう日じゃないの?」
この時、ゼーレがモグラ党の隊員たちにチョコレートを配る姿を見ていた星の脳内には余ったチョコレートを食べても良いという方程式が既に出来上がっていた。そしてそれを当然ながらサンポは知らない。バレンタインというものに対して星と自分には何かしらの認識の齟齬があると気付いたサンポは言葉を選びながらストップをかける。
「……ああ、ちょっと待ってください。もしかして星さん、今日初めてバレンタインというものを知りました?」
「そうだけど。ゼーレが仲のいい人とかお世話になった人にチョコレートを渡すって言ってたから、余った分は食べちゃっていいんでしょ?」
星のバレンタインに対する認識を聞いて初めて、サンポは全てに納得がいったような顔をした。
「ええと……その。僕が悪かったです、ええ。お詫びと言っては何ですが、チョコレートなら持ち合わせがあるので全てさしあげますよ」
サンポは「僕が悪かった」とは言ったが、その表情だけを見ればあまり悪いとは思ってい無さそうで、どちらかと言えばそうならそうだと先に言って欲しかったとでもいうような顔をしている。しかし星の気を引いたのはチョコレートをさしあげるという言葉だったため、其処を追及されることは無かった。
「え!? サンポって本当に気が利くね。普段からそうやって良いことばかりしてたらいいのに」
「僕は普段から至って善人ですが!? ほとんど仕事のついでに貰った義理でして、食べるつもりも無かったので丁度良かったです。人に渡すなり、自分で食べるなり、お好きにどうぞ」
全て既製品なので危ないものは入っていませんよ、という保証の言葉付き。仕事のついでという事は今日も今日とて詐欺を働き、詐欺をふっかけた相手からチョコレートをもらったのだろうか。バレンタインにも抜かりなく商売をしているんだなと思いながら幾つかの小箱をサンポから受け取った。チョコレートがこんなに沢山。腕いっぱいに抱え込んだチョコレートに目を輝かせている星を前に、サンポは肩を竦めて苦笑している。
「……あ、このチョコレート好きにしてもいいって言った?」
最上層に積んである箱を開き、個包装のチョコレートを一粒口に含みながら問いかければ、いつの間にか取り出していた紙幣を数え始めているサンポが此方にちらりと視線を投げかけてきた。
「ええ、苦手なものや要らないものがあれば捨ててもらって構いませんが」
「ううん、そうじゃなくて」
はい、と手に出したばかりのチョコレートを指先で掴んでサンポに差し出してみる。
「はい、バレンタイン。チョコレートを仲の良い人に渡す日なんでしょ?」
紙幣を数えていたサンポの手が止まった。それも手だけではなく星と並走していた足も止まり、きょとんとした顔で星とチョコレートを見つめている。
「……はあ~~~」
微動だにしなかったサンポがやっとの事で動いたかと思えば、最初に出てきたのが溜息ときた。
「なに、要らないなら私が全部食べる」
「気が早いですよお姉さん、僕はただ貴女がこうやって他の惑星でも誰彼構わずたらしこんでいる所が容易に想像できただけです」
「たらし……? 何言ってるの?」
良く分からないが失礼な事を言われた事には変わりないだろう。要らないならそう言ってくれればいいのに、と思いながら指先に持っていたチョコレートの包装紙を外して自分で食べようとしたところで手首を掴まれた。
「なっ」
ぐっと手をサンポに引かれて、指先にあった筈のチョコレートをその口に奪われる。体温で溶けて指先に残ったチョコレートまで舐めとって、サンポがぺろりと唇を舐めていた。
「だから、気が早いんですよ貴女。要らないなんて僕は言っていません」
「……別に、今の一粒じゃなくても良かったと思って」
なに、今の。
謎の動揺からぎこちない返答をした星の手首はまだサンポに掴まれたままだ。そんな星に顔を寄せたサンポが、ふっと息を吐くように笑う。してやったりという顔で。
「折角貴女が僕にくれたものですから、その一粒である事に意味があるんですよ」
「そういうもの?」
「ええ、そういうものです。僕はそろそろ次の仕事に行かなくてはならないので、お姉さんはどうぞバレンタインを楽しまれてください」
それでは、とサンポは握りしめていた星の手を離す。そのまま去っていくかと思えば親指の腹が星の唇の端を擦って、そこにいつの間にかついていたチョコレートを拭い去った。
「ご安心ください。僕は商人ですから、頂いた物に対する返礼はきっちりと行いますよ。一か月後にベロブルグでお会いできるのを楽しみにしています」
他の誰よりも貴女が喜ぶ返礼品を用意してみせますとも。
星の返答を待たずに言いたいことをつらつらと並べ立てていったサンポは、今度こそ背を翻した。返礼? 一か月後? 困惑で何も言えないまま時間だけが過ぎる。ようやく声を発した頃にはもうサンポの後ろ姿が点のように小さくなっていた。
「……は、えっと?」
ベロブルグの冷たい空気の中、掴まれていた手首と唇が触れた指先、指がなぞっていった口の端に微かな熱が残っている。
意気揚々と去っていった男の背が完全に見えなくなるまで、星はチョコレートを抱えたままその場から一歩も動くことが出来なかった。