Io non ho mani che mi accarezzino il volto 神とは人類の発明であり、戒律とは特定の集団の慣習である。祈る、なにかを禁ずる、赦す、そこには原初の理由があり、それを民衆に噛み砕くため、啓蒙するために神は生まれた。やがて政治の道具になった。時の権力者は敬虔な者たちを利用するために神を物語に組み込んだ。神は上に立つ者の舌先に威厳を付与するための重石となった。代わりに天を司るモノという肩書きを与えられた。神はそうやって人類を超越した天上の存在として定義されていく。
靴下は必ず右から履く、たとえば神がそう宣ったとしよう。民草は喜んで靴下は右から履き、左から履くものを追い立てる。そこに合理性がなく原初の理由が見当たらずとも慣習のひとつとして馴染む。かがむ、靴下を広げる、その指先の流線に美が見出されていく。神に祈る言葉が時代を経るごとに増える。言葉は人々の思考を補強して、だれもかれもが舌先で神を紡ぎ祝福のうすいヴェールをまとうようになる。そうやって積み重ねられてきた時代の新たな層の末端に十歳のデイビットは暮らしていた。
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