留伊本サンプル こぼれ落ちるは恋の音『ジャージの貸し合い』
「留三郎〜」
「伊作、どうかしたの……ってなんでずぶ濡れなんだよ!」
**
その日は朝から生憎の雨。剣道は室内競技なので雨でも晴れでも基本的に関係がないから、いつものように朝練をして教室に行く。伊作はまだ登校していないらしい。一時間目は英語。教科書やノート、筆記用具だけ出して隣の席の友人と話していると情けない声が聞こえてくる。
「留三郎〜」
「伊作、どうかしたの……ってなんでずぶ濡れなんだよ!」
「歩いてたらトラックに水かけられて……」
「またかよ。ジャージは?」
「忘れた……」
ロッカーから自分のジャージを出してきて伊作に渡す。一応洗ってから一度も着ていないから匂わないはず。
「俺の貸してやるから着替えろ」
「すまない留三郎〜」
出したジャージを受け取って伊作はそそくさと教室を出ていく。どこか人のいないところで着替えるのだろう。
「相変わらずの不運だなー、善法寺は」
話していた友人の一人が言い出す。
「この前の雨の日はなんだったけ?」
「転んで泥だらけになってきてなかったか?」
「そうだったそうだった!あのときも留三郎がジャージ貸してやってたよなー」
その隣で話していた二人の友人も次々と言い出す。
「あの格好のままじゃ風邪引くだろう?」
「そりゃそうなんだけどさ。お前の世話焼きが完璧すぎてな」
「世話焼きって……」
「さすが幼馴染って感じだよな」
「というよりも彼氏彼女」
「慣れすぎてて夫婦の域」
「「わかるわ〜」」
そこまで言われるほど世話を焼いてないと思うのだが。腑に落ちない顔をしていたのだろう。すぐに指摘される。
「あっ、納得してないな!でもどっからどう見てもお前らは恋人同士か夫婦の域だぞ。みんなもそう思うだろう?」
一人がクラス中に聞く。聞いたやつ全員が頷いていた。
「なんの話?」
噂をすればなんとやら。着替えてきた伊作が戻ってきた。俺のジャージは伊作には少し大きいから少し裾を引きずっている。
「お前、まためくってないな」
「えっ?」
すぐに近寄ってズボンの裾をめくってやる。クラス中の視線が俺に刺さっている。そういうところだよと言いたげな視線ばかり。しかし伊作は気づいていない。
「お前な裾ぐらいめくれよ。またコケるぞ」
「ありがとう留三郎!」
「そこのバカップル早く席に着けー。先生来るぞー」
隣の席の友人が冷やかしてくる。席に着いた瞬間、先生が教室に入ってくる。
「出席取るぞ。善法寺、なんで食満のジャージ着てるんだ?」
「トラックに水をかけられて制服が濡れたので、留三郎が貸してくれました!」
「そうか。風邪引くなよ。じゃあ出席を取るぞ」
先生ももはや慣れていると言わんばかりの反応。そんなにか?と思いながら右斜め二つ前の席に座る幼馴染を見ながら俺は思った。
***
「今日はどんな不運だったんだ?」
二時間目は一組と合同の化学の授業。俺は仙蔵と同じ班だった。ビーカーに薬品を入れていると面白いネタを見つけたと言わんばかりの顔で聞かれる。
「トラックに水をかけられたらしい」
「それでお前のジャージを。よかったな留三郎」
「どういう意味だよ」
思わず睨みつけるが仙蔵に効いてない。
「さぁな。ところでお前、昼休みは空いているな?」
「空いているなじゃなくて空けておけだろう?」
「よく分かっているではないか。ではいつもの場所で」
「分かったよ」
試験管に入っていたもう一つの薬品を入れると無事に色が変わる。化学の得意な仙蔵と組んで失敗する実験はない。無事に思っていた通りの結果がとれた。
**
「遅いぞ留三郎」
「茶室をこんなふうに使っていいのかよ」
「気にするな。茶道はおもてなしの場だ。私はお前をもてなしているではないか」
「もてなすの意味が違うと思うが?」
俺が今いるのは仙蔵が部長を務める茶道部。といっても活動自体はそこまで多いわけではないらしい。俺と仙蔵はここで昼を食べることも多かった。理由はただ一つ。
「で?文次郎のやつと何があったんだ?」
「この前の日曜日にあやつと買い物に行ったのだが……」
「ついにデートまでこぎつけたのか?」
「そうだったのならよかったのだがな。新入生歓迎会で使う物の買い出しだ」
「もうすぐだしな。それで?」
「あやつと一緒に回っていたのだが、そのときに後輩と出くわしてな」
「後輩?誰だ?」
「名前は知らん。同じ生徒会の後輩だ。文次郎を慕っているらしく、一緒に回ろうと言い出してな」
「で、あいつはそれを承諾したと」
「そういうことだ」
ため息をついているが、呆れているというよりはすねているのだろう。
「その後輩は文次郎に恋しているのか?」
「私の見立てでは」
要は仙蔵に恋敵が出現したらしい。
「だから最近あいつと一緒にいないのか?」
「……」
仙蔵は黙り込んでしまう。図星らしい。俺は弁当に入っていたウィンナーを一つ、口に入れた。
「お前こそどうなのだ?伊作とは」
「どうもこうもない。相変わらず意識されていない」
「あいつも鈍いからな。あとお前が奥手すぎる」
「うるせぇよ。何年片思いやってると思ってる?」
「十五年だろ?」
「……」
仙蔵は自分の弁当からプチトマトをぱくりと食べた。
「違うアプローチでもするか」
「違うアプローチ?」
「私たちはあやつらに近すぎる。そうだろう?」
「まぁお互いに幼馴染で今も同じクラス。親より一緒にいる時間は長いな」
「だから少し距離を置くんだ」
「距離を?」
「そうだ。ありきたりだが、少しの間距離を置いてみよう」
「もしダメだったら?」
「その時は別の作戦を立てるまでさ」
この友人は繊細そうな顔のわりに図太い。
「お前はこの勝負乗らないのか?」
わざと俺が乗るような言葉を選んでくる。
「乗るに決まっているだろう!」
「言ったな留三郎。なら実行あるのみだな」
***
『作戦実行中』
「留三郎、一緒に帰ろう」
今日の放課後は互いにフリーだ。こんな日はたいてい一緒に帰っている。でも最近は仙蔵との作戦を実行中で帰ったりはしてない。
「すまん、伊作。今日は仙蔵と予定があるんだ。だから先に帰ってくれ」
「そうなの?じゃあまた明日ね」
「おう」
伊作はなんの疑いもなく帰っていく。この後は予定なんてない。ただ仙蔵と時間をつぶすだけだ。待ち合わせの場所へ向かい、喉が渇いたからカバンの中から水筒を取り出して麦茶を飲む。
「留三郎」
「仙蔵」
「行くぞ」
「分かった」
スクールバックのチャックを閉め、仙蔵と歩き出す。
「どこに行くんだ?」
時間をつぶすだけだと思っていたが仙蔵の足取りから付き合ってほしいところがあるらしい。
「今日は菓子を買いに行く」
廊下を歩きながら尋ねる。
「菓子?部活で食べるやつか?」
「そうだ。茶道では季節を感じる菓子などを使ってもてなすからな」
「ってことは器とかもなのか?」
「あぁ。三月ならぼんぼりの形の柄杓置きとか、年が明ければその年の干支にちなんだ茶器とかな」
「奥が深いんだな」
「そういうことだ」
「で、どこに買いに行くんだ?」
「行きつけの菓子屋がある。古くからある菓子屋でな。そこで買う」
「そんなところが学校の近くにあったのか」
「まぁ少し奥まったところにあるからな。知らないのも無理はない」
大通りから細い道に入って、さらにもう一本細い道へ。車すら通れないほど狭い路地の一角にその店はあった。いわゆる知る人ぞ知るといった場所で、昔からのお店といったたたずまいだった。
「こんにちは」
仙蔵がよそゆきの笑顔で挨拶をする。奥から人の好さげな年配の女性が出てきた。
「立花君、いらっしゃい」
「部活で使うお菓子を買いに来ました」
「こんにちは」
俺も挨拶をする。
「はい、いらっしゃいませ。いつもとは違う男前をつれてるじゃない?潮江君はどうしたの?」
「今日は生徒会で忙しいらしいです」
「そう。ゆっくり見て行ってね」
「はい」
「ありがとうございます」
ショーケースの中には様々なお菓子。あまり見慣れない菓子ばかりで思わず近くまで寄って見てしまう。隣で見ていた仙蔵はすぐに歌菓子が決まったらしい。
「すみません」
「決まったの?」
「はい。花くれないを七つください」
「花くれないね。そちらのお兄さんは?」
「俺は……」
伊作に何か買っていってやろうか。何がいいかなと思い悩んでしまう。
「もう少し考えるそうです」
仙蔵が助け舟を出してくれた。
「また声をかけてね」
仙蔵の方は会計も終わり、菓子を受け取っている。ふとショーケースの右上。見慣れた和菓子がそこにはあった。これにしよう。
「すみません。三色団子、八本ください」
「全部包んでしまっていいかい?」
「五本だけ別にしてもらってもいいですか?」
「いいわよ」
四本は伊作の家に、残りはうちで食べる用だ。
「三色団子か。まさしく春といった菓子だな」
代金を渡し、団子が包まれるのを待っていると仙蔵がそんなことを言った。
「そうなのか?」
「昔は花見にはかかせない菓子の一つだったからな。川柳にも残っている」
「へぇ~。さすが茶道部部長様だ」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「またいらっしゃいね」
団子を受け取り、店を出る。春とはいえ夕方から朝にかけてはまだまだ寒い。
「その菓子は明日の部活で食べるのか?」
「一年生が二人、入ってきたばかりだからな。その団子、伊作にやるのか?」
「あぁ」
「どうやらお前は距離を置けそうにないな」
「伊作のご両親の分もある。それに今日はおばさん休みだったと思うし。おばさんに渡す」
「そういうものか?」
「そういうものなんだ!」
元来た道を戻りながら話していると、再び大通りへ出る。仙蔵と俺の家は真逆の方向のためここで別れる。
「じゃあ私はこっちだからな」
「おう。また明日」
「また明日」
**
「こんばんは」
「あら、留三郎君!伊作に用事?」
「いえ。今日はこれを渡しに来ただけなので」
さっき買った三色団子を渡す。
「これって学校の近くの和菓子屋さんの三色団子じゃない!どうしたの?」
「母からです。先日のお裾分けのお礼だと」
間違ってはいない。この前、作りすぎてしまったと伊作の家からシチューを貰った。何かお礼になりそうなものがあれば買ってきてほしいと母親から頼まれたのだ。
「そんなの気にしなくていいのに~。今、伊作呼んでくるわね」
「あっ……」
引きとめる間もなく、伊作を呼びに行かれてしまう。
「あれ?留三郎?仙蔵と用事があったんじゃないの?」
「用事は終わったんだ。おばさんに団子渡したからまた食べてくれ」
「お団子!ありがとう留三郎!」
満面の笑みでお礼を言われる。こんなに喜んでくれるとは思わなかった。
「じゃあ俺は帰る」
「ちょっと寄ってかない?」
まだそんなに遅い時間ではない。いつもなら一緒に宿題くらいはしている。
「いや、今日はやめておく。またな伊作」
「そう……またね留三郎」
少し寂しそうな顔をされるが、珍しく俺が断ったからだろう。
――きっとそれ以上の思いはない。
**
作戦実行して三週間たった。俺は深刻な伊作不足だ。確かに昨日は伊作の家に行ったが、特に大した会話もしないで帰ってしまった。作戦のためとはいえ、いつもなら確実に宿題くらいはしていた。
「つらい……」
「我慢しろ。伊作の気持ちが知りたいならな」
「お前は平気なのかよ」
「私か?少しは思うところがあるが、基本的にお前たちよりも一緒にいる時間が少ないからな。こんなものだ」
「裏切り者め」
「私たちは同志だと思っていたのだが?」
俺の発言は右から左へ。聞いてくれる気配も無い。
「ところで伊作の様子はどうなのだ?昨日、団子を渡しに行ったのだろう?」
「伊作に会ったってなんでわかるんだよ」
「大方、伊作の親に団子を渡していつもの調子で伊作を呼ばれたのではないかと予想しているのだが?」
何一つとして間違っていなくて黙り込んでしまう。
「……図星か。で?伊作はどうだった?」
「どうもこうもねぇよ。少し寄ってかないかって言われたけど、作戦中だから断って帰ってきた」
「それで伊作不足に拍車がかかったのか?ちなみにお前が断ったとき、伊作はどんな顔してた?」
「……少し寂しそうな顔してた気がする」
「それは脈ありではないのか?」
「……そこまでじゃないだろう」
「そんなことないだろう」
「なんでそう言い切れる?」
「きっともうすぐ分かるだろうさ」
仙蔵はそれだけ言うとブロッコリーを一つ食べた。
**
五時間目は現代文。教師の解説が眠気を誘い、大きなあくびが出た。少しだけ伊作の方へ視線を向けるとどこかぼんやりとしていた。あれは確実に何か考え事をしている。現代文の教師は律儀にも順番に当てていくため、次は間違いなく伊作が当てられる。ぼんやりしていて大丈夫か?と思ったとき。
「……寺。善法寺!」
「は、はい!」
俺の予想通り、伊作が当てられる。
「次のところ、読んでくれ」
「つ、次の文は……」
慌てて立ち上がったが聞いていなかったからどこを読めばいいか分からないようだ。すぐに助けが入って、伊作は指定された文を読み始めた。そして読み終わるとすぐに教科書に顔を伏せてしまった。
**
「伊作、大丈夫か?」
「留三郎……」
授業が終わると思わず伊作の席まで行って聞いてしまう。
「大丈夫だよ」
「ならいいが」
とはいえ自分の体調不良は隠しがちなこいつのことだ。熱くらいはあるかもしれないと思って額に手をやる。
「熱はないな」
「大丈夫だって言ったじゃないか!それよりも留三郎、最近お昼を一緒に食べてないけど仙蔵とよく食べてるって本当?」
「なんで、それを?」
「噂になっているんだよ。二人が付き合ってるんじゃないかって」
「俺と仙蔵が?無い無い!天地がひっくり返っても無い」
思わぬ噂が俺たちの知らないところで広まっているらしい。これはまずい。俺にとっても仙蔵にとっても。俺はお前と付き合いたいんだよと言ってしまいたいが、まだそんな勇気は湧いてこない。
「じゃあなんで二人で食べてるの?」
そう思うのは当たり前だ。俺が同じ立場でも間違いなくそう思う。けど、こればかりは伊作にバレるわけにはいかない。
「それは……すまん言えない」
「分かった。けどお昼は一緒に食べよう。小平太たちも寂しがってる」
『も』という言い方に伊作も寂しかったかもしれないという希望が少しだけ見える。それに俺自身も伊作不足ですでに限界だった。
「分かった」
「あと、時間があるときは一緒に帰ろう」
「あぁ」
――こうして俺は伊作と一緒にまたお昼を食べるようになった。伊作になんだか悪い気がして仙蔵と二人で食べる回数も減った。
**
「ほぉ、伊作がそんなことを。やはり脈はありではないか?」
「そうだったらいいけどな」
その日の夕方、部室の鍵を職員室に返しに行くと、同じく茶道室の鍵を返しに来た仙蔵にばったり会う。
「自信がないのか?言われたのだろう小平太たち『も』寂しがっていると」
「言われたけど、そんなに深い意味はないんじゃないか?」
歩きながら今日あったことを話す。
「深い意味はないかもしれんが、伊作が寂しいということはそれだけお前の存在が大きいということじゃないのか?ならばこれはチャンスだ。もっと仕掛けろ」
「仕掛けるってどうやってだよ」
「例えば二人で帰ってるときに恋人みたいだなとか言ってみるとか?」
「二人で帰るのなんて日常茶飯事なのに?それで変な風に思われて距離を置かれたら俺はもう無理だ」
「お前も伊作のことになるとだいぶ面倒臭いな」
「ほっとけ」
「なにかきっかけがあればいいのだが……」
――そのきっかけは意外と早くに訪れた。