この部屋が、一番集中出来るから。
そんな理由でジャミルが課題を持ち込むようになったレオナの部屋。
外は午後の強い日差しに焼けているが、日陰を通り抜ける風は案外冷たく心地好い。
遠く談話室から漏れる寮生の賑やかな声と、ジャミルが走らせるペンの音が生み出す穏やかな空気はレオナの眠気を誘うには十分で、いつもこの時間には睡魔に誘われるがまま午睡に身を委ねるものだが、ひと眠りしてもまだジャミルの課題が終わっていないとは思わなかった。
苦戦している様子は無い。枕に頭を乗せるレオナとさかさまになるようにベッドにうつ伏せに寝転がるジャミルの手元からは淀み無くペンを走らせる音が続いている。よくそんな場所で文字が書けるなとも思うが、ジャミル曰く、慣れているから問題ない、らしい。レオナが起きた事にも気付かず、緩慢に膝から先を揺らしながら課題に向き合っている。
もうひと眠りする事だって出来た。レオナにとって睡眠とは瞼を閉じればそこにある物だ。
寝るのに飽いているのなら読みかけの本もある。今のこの時間ならプロのマジフトリーグの試合中継もやっている頃合いだろう。暇を潰す物には事欠かないし、普段ならば大人しくそのいずれかを選んで大人しくジャミルが終わるのを待っていた。
ただなんとなく。本当に理由等ない。なんとなくそのどれも選ぶ気にならなくて、目の前で健康的に骨ばった踵が揺れていたから。
掴んだジャミルの右足首はさらりとしていた。やんわりと動きを阻害され、リズムを崩された左足が宙で戸惑っていたが、ジャミルがこちらを見る事は無かった。それならばと、右足首から膝の下までをゆっくりと掌で辿る。決して太くは無いが、年齢相応の運動部員の筋肉の感触。多少、疲労を溜めて張っているだろうか。柔く揉めばようやく、ジャミルがレオナを振り返った。
「マッサージしてくれるんです?」
揶揄するような、面白がるような顔。してくれる、と言うのなら望まれているのだろう。王族相手に随分と図々しくなったものだとついレオナの口角も緩む。
のそりとレオナが身を起こせばそれが応えとばかりにジャミルは再びノートへと視線を戻していた。大人しくレオナの手を待つ足首を揃えてベッドに下ろさせ、足首から膝裏へと順に両の掌で圧をかけてやる。全体的に少し張っているが、凝り固まっているという程では無い。レオナとて別にマッサージのプロというわけでは無いから出来る事などあまり思いつかない。張っている場所に圧をかけ、気持ち良い所は丹念に揉み解すくらいが関の山だ。自分の足とは違い、ジャミルがレオナの手をどう感じているのかはジャミルにしかわからないが、ジャミルは感想を言葉にすることなく課題に向き合ったまま全てをレオナに投げ出しているのだから自分で読み取るしかない。ただ闇雲に揉むのではなく、少しばかり指先の感触に集中する。
自分のものよりも一回り細いふくらはぎ。毛の一本もない滑らかな肌にくるまれた足首には固い骨の感触。焼いて食べたら美味そうだなとなんとはなしに思う。脂身の少ない、若く柔らかな赤身肉。想像して、要らぬ食欲を呼び起こしそうになり慌てて意識を反らす。夕食の時間まではまだまだ先だった。
「ん、っ……」
そそるふくらはぎから離れ、レオナもよく疲労が溜まる膝の裏を今までと同じ力で押しただけのつもりだったが、ジャミルの反応は先ほどまでとは違った。耐えるように身を強張らせ、しかしそれでも逃げる気配はない。
「痛ぇのか」
「ほんの少し。――ッッぁ」
ぐ、と少し強く膝の裏を押してやれば、反射のようにジャミルの足が跳ねた。確かに此処はだいぶ固くなっている気がする。声は上げれど止める様子が無いという事は、このまま揉み解せという事なのだろうと解釈し、親指の腹で念入りに固くなった筋を押してやる。
「ぁう、ひ、あ、ぁっ、あ、」
押すたびに上がる悲鳴は、本人にとってそんなつもりは全くないのだろうが妙に耳に艶めいて聞こえる。そもそも、いつもならばとっくにジャミルは課題を終え、二人でまったりと肌を探りながら熱に溶けている時間だ。マッサージをしてやる事は吝かでは無いが、そのせいでジャミルのペンが止まり、これ以上のお預けを食らわされるのでは意味がない。マッサージはただの暇潰しであって、暇潰しのせいで目的の物が遠ざかるのならば本末転倒だ。
多少ほぐれたであろう膝の裏を宥めるように数度撫で、それからジャミルの背にぺたりと圧し掛かる。肩に顎を乗せて手元を覗き込めばレポートの終盤に差し掛かろうという所だった。
「あれ、マッサージは終わりですか」
「お前の手が止まるだろうが」
「痛気持ち良かったのに」
「それが終わったらやってやるよ」
「すみません、思ったより筆が乗ってしまって」
「別に構わねぇ。けど早く終わらせろ」
レオナの下で、ジャミルの身体がふふ、と笑いに揺れた。
「待ちくたびれてしまったのなら、もう終わりにしますよ。残りは帰ってからでもすぐ終わりますし」
「いい。待つ」
レオナの口から出た声は自分でも驚く程に拗ねたような色を滲ませていた。あまりにも決まりが悪くてジャミルの方に顔を埋めてぐりぐりと顔を押し付ける。恐らく、寝起きでまだ頭が回っていないのだ。ぐるるぅと喉が勝手に鳴るのだってレオナのせいではない。
此処はレオナの縄張りの一番安全なベッドの上で、良い匂いがする獲物が腕の中にあるのにお預けを食らわされているのだから、これは仕方のない事だ。余裕を持ってジャミルの好きなようにさせてやりたい気持ちだってもちろんあるし、常ならばそのように振舞える筈だったが今日はもう駄目だった。
くつくつとレオナの下でジャミルが笑っている。そもそも誰のせいだと思っているのだと腹立たしさすら沸いて、服越しの肩をがぶがぶと柔く噛む。ジャミルの笑いは大きくなるばかりだった。
「あと五分で終わらせますから。もう少しだけ、良い子で待っていてください」
そう言って、つむじに触れた柔らかな感触。たったそれだけであっさりと納得してしまうのだから我ながらチョロいものだとレオナは思う。あとごふん、その言葉を握りしめて瞼を伏せる。その五秒後には穏やかな寝息を立て始めたレオナにますますジャミルが笑いを誘われてしまい、約束の五分では終わらなかったことをレオナは知らない。