まだ未知のそれ フィンにとって、恋とは「ピンとこない」ものだった。
友達のレモンがよくマッシュへの愛と恋を謳うことから、彼女にとってそれが何より貴いものであることは知っていた。彼女はフィンに「恋とは言い表しきれない荒ぶる想い」であることを説いてくれたが、それでもよく理解できなかった、というのが正しい。
そもそも恋の話に無縁の人生だったな、とフィンは思う。早いうちに両親を亡くし、兄と二人きりで街をさまよい歩いて生きていた。兄は泣いてばかりのフィンに何も言わず寄り添ってくれたが、寝物語に甘い話をするような余裕はどこにも無かった。イーストンに入学してからも授業についていくことに必死で、図書室で流行りの本を楽しむこともあまり無い。
だから、フィンは一般的な子供に比べてそういったことに心躍らせることが少なかったのだ。
〇 〇 〇
フィンがそのことについて自覚したのは、ランスに泣きついて課題を手伝ってもらっている時だった。
小言を交えながらも丁寧に教えてくれていたランスの声が止まり、フィンは不思議に思って顔を上げる。
「どうしたの、ランスくん」
そう聞くと、ランスはある一点を見つめているようだった。その視線を辿ると、新刊コーナーが目に入る。そこにはよく噂に上る大人気の冒険小説の他に魔法薬学の基礎や考古学、数学など名門校にふさわしいラインナップの本が並べられている。
しかしその横に、もっと目を引く本が大々的に飾られていた。ずっしりとしたハードカバーは可愛らしいピンク色で、表紙にキラキラと輝く箔が施された一冊だ。
「あれ……この前レモンちゃんが読んでた本だ。確か、今女の子に凄く人気の恋愛小説だったっけ」
フィンがそう零すと、ランスは軽く頷いた。
「妹も好きなシリーズだ」
「そうなんだ。色んな世代の子に読まれているんだね」
そう言うと、ランスは熱っぽいため息を吐く。
「あれについて語るアンナがどれほどの尊さだったか……しかしお兄ちゃんは絶対認めないぞあんなチャラついた男は……!」
「あ、あはは……」
おそらく、アンナが小説のヒーローが素敵、というようなことを兄に話して聞かせていたのだろう。急に血涙を流し始めそうな雰囲気を出し始めたランスに引きながら、フィンは話を逸らそうとする。
「シリーズって言ってたけど、何巻あるの?」
「三十五巻だな」
「思ったより多い……!」
即答されたそれに、フィンは思わず軽くのけ反った。漫画ではなく小説でその巻数はなかなかではないだろうか。
「主人公とそのヒーローがいい感じになる前に元許嫁が出てきたり親友が恋敵になったり、父親が記憶喪失になって大騒動になったり、行方不明だった母親が突如現れて仲を引き裂こうとしてきたりするらしい。ちなみにまだ二人は結ばれてない」
「ハード過ぎない⁉ あと結ばれるまでが長すぎる!」
ツッコむと、ランスは遠い目をして言う。
「妹は新刊を読むたびに、オレに感想を話して聞かせてくれたものだ」
「は、話したくなるくらい面白いんだね」
そう言って話を逸らす。しかしランスはそのまま回想に入ってしまったのか、すっかり脳内の妹との会話に夢中の様子だ。
妹と話し続ける友人からそっと距離を取り、フィンは今のうちに予習のための参考書を集めようと本棚の前に移動した。その時、視界の隅にチラリとみえるピンクがやけに気になり、フィンは思わずその表紙を指でなぞる。
恋とはなにか。ぼんやり考えるが、やはり何度思考を巡らせてもピンとこない。
そもそも恋にまつわるものにとんと縁がない、ということに気が付いたのはその時だ。
たまには普段触れないものに挑戦するのもいいかもしれない。そう考え、フィンはそのシリーズの第一巻をそっと手に取った。
少しの気恥ずかしさから、その本を参考書に紛れさせる。
貸出の手続きを無事終え、席に戻ってきたころにはランスも現実世界に戻ってきていた。
引き続き彼に課題を教えてもらいながら、傍らに置いた参考書の山を目の端で眺める。
部屋で少しずつ読もう、と考えてルームメイトのマッシュのことを思い浮かべる。自分と同じく色恋に疎い彼は、きっとこの本の存在も知らないだろう。
面白かったら、彼に薦めてみてもいいかもしれない。そう考えながら、フィンは目の前の課題に集中した。
〇 〇 〇
「ふぅー……」
本を閉じて、フィンは大きく背伸びをした。
あれから時間を見つけては少しずつ読み進めていたが、人気作だというのが納得いく出来で、フィンは自分でも意外なほど夢中になっていた。
「まさか一巻から主人公とヒーローの決闘が始まるなんて……」
思わず独り言でツッコミを入れてしまうくらい波乱万丈なストーリーで、フィンは若干の疲労感を覚えながらも満足した気持ちで表紙を眺めた。
「何読んでるの?」
「わっ⁉」
後ろから急に声がかかり、フィンはビックリして情けない悲鳴を上げる。ドキドキする心臓を押さえながら振り返ると、そこにいたのはシュークリームを片手に持ったマッシュだった。
「ああマッシュくん、帰ってきていたんだね! お帰り」
珍しく扉を壊さなかったらしく、音を立てずに部屋に戻ってきたマッシュにフィンは再度驚きつつそう言った。彼は先ほどまでシュークリームを作りに行っており、その間にフィンは一人で読書していたのだ。
「ただいま。フィンくんも食べる?」
マッシュはそう言ってシュークリームをどこからか取り出し、フィンに差し出してくれる。その光景にももう慣れたもので、フィンは礼だけ言って素直に受け取った。
「なんかキラキラしてるね」
マッシュが机の上の本に目を落とし、一言感想を述べる。
「ああ、そうそう。これ今話題になっている恋愛小説なんだ」
「恋愛……」
マッシュがそう繰り返す。
「フィンくんも恋に興味があるの?」
ストレートにぶつけられたその問いに、フィンは目を丸くした。
「えっ⁉ うーん……そう、かも?」
思わず反射的にそう答えた後に、沸きあがった羞恥心から慌てて手を振る。
「いや、まだ僕にもよく分からないんだけど! そう、今まであんまり恋愛系読んだことが無かったから、そういった意味でね!」
早口で答えながらも、妙な恥ずかしさが消えずに顔が熱くなるのを感じたフィンは、それ以上余計なことを言わないように口をつぐんだ。それと同時に、マッシュの発言がひっかかり首を傾げる。
「……『も』?」
「うん」
マッシュはなんてことがないような顔で、サラリとこう続けた。
「僕も最近、恋に興味あるんだ。お揃いだね」
そう言って花を纏ったようなオーラを出すマッシュに、フィンは今度こそ絶句した。
あのマッシュくんが。恋に。興味。……いや、鯉の方か?
混乱する頭の中でフィンはそう考え、恐る恐る聞き返す。
「こいって……魚の方?」
「ううん、感情の方」
当然だと言わんばかりにそう返し、マッシュはフィンを見つめる。何か言いたげなその視線に気づかず、フィンは「ええっ⁉」と大声を出した。
「マッシュくんが恋⁉ いつから⁉」
「うーん、多分初めて会った時から」
「まさかの一目惚れ⁉ 嘘ぉ⁉」
聞きながら思わずドンドン大きくなっていく声に、フィンはハッとして口を手で覆う。平穏無事な学校生活は、普段の行いから始まるものだ。隣室から騒がしいと苦情が入ったらたまらない。
フィンは落ち着くために深呼吸し、更にマッシュにこう聞いた。
「それは……えっと、僕の知ってる人?」
「うん」
マジか。
思わず心の中でそう叫んだフィンは、ドキドキする胸を抑える。あのマッシュくんが、誰かに恋しているかもしれない。それだけで妙に興奮する気持ちと……。
「……あれ」
「どうかした? フィンくん」
マッシュに不思議そうな顔をされて、フィンは首を振る。
「いや、いま何となく……」
興奮する気持ちの裏でなんだかもやもやするような、胸に圧しかかるような重さを感じて、フィンは戸惑っていた。しかしその正体が何なのか分からず、フィンは作り笑いをする。
「ごめん、なんか盛り上がっちゃって。普段マッシュくんからそういう話聞かないからさ」
「いいよ。楽しそうに聞いてくれて、嬉しかった」
そう返すマッシュはとろりと蕩けそうな目をしていて、フィンは息を呑んだ。同時に胸が鋭く痛んで、服をキュッと握る。
「えっと、マッシュくん」
それでもフィンは声を振り絞って、言うべきだと思ったことを口にした。
「僕、マッシュくんが幸せになれるよう協力するからね」
そう、友達として、一番の親友の恋路を応援するのは当然のことだ。
なのに、さっきからどうしてモヤモヤが治まらないのか。フィンは考えるが、その答えはまだ出そうになかった。
マッシュは瞬きして、フィンをじっと見る。
「本当?」
「うん」
「そっか。ありがとう、フィンくん」
マッシュはそう言うと、フィンの頬を優しく手で包んだ。
えっ、と驚くフィンに、マッシュは顔を近づける。心臓がバクバクと高鳴って、マッシュにも聞こえているのではないかと思うほどだ。触れている手が妙に熱く感じられる。
マッシュの顔が間近に迫り、フィンは思わずギュッと目を瞑った。
「フィンくんのそういう優しいところ、僕すごくすきだよ」
優しい声が降ってきて、同時に手が離される。
「うぇ⁉」
目を開けると、マッシュはもうシュークリームの袋に手をかけていた。
「え……ええ……⁉」
うめき声をあげるフィンに構わず、マッシュはその場でシュークリームに齧りつく。呆れるほどにいつもどおりの彼に、フィンはドッと体の力が抜けていくのを感じた。
「なんだったの……?」
疑問がポロリと口から零れる。マッシュはシュークリームを頬張りながら、フィンの方を振り返った。
「距離を詰めるには、素直な気持ちで褒めるのがいいって。ドットくんに教わった」
「そ、そうなんだ……」
フィンは未だに熱い頬とうるさく鳴る鼓動を感じて、ため息を吐きながら顔を隠す。この親友は、本当に何をするか分からない。
てっきり……と考えて、フィンはピシリと固まった。
てっきり、何をされると思っていた?
先ほどまで読んでいた恋愛小説を思い出す。いい雰囲気の中、ヒーローとヒロインの顔の距離が近づいて、キスを——。
「わーーーーーー‼」
叫んで、フィンは部屋から飛び出した。
「フィンくん?」
背後から聞こえたマッシュの声にも気づかず、フィンは廊下を全力疾走する。
何を考えているんだ、僕は!
叫びながら走るフィンを見て、学生が驚きながら避けていく。普段なら変な目で見られるのではと気にするが、今のフィンにはそんな余裕は一切なかった。
一方そのころ。
部屋で一人残されたマッシュは、首を傾げながらポツリと言う。
「もしかして……そんなに嫌だったのかな」
ズーン、と暗いオーラを纏う彼の耳は、傍から見てもわかるほど真っ赤に染まっていた。