白地図/初恋 「ナタの――ことなのですけど」
やわらかで優しげな口調は常と変わらぬまま、きっぱりと女は切り出した。咄嗟に受け流したり躱したりすることすら思いもよらぬ程、それは真っ向から容赦なく、真っ直ぐに突きつけられたのだった。
「どうされるつもりなのかを、聞いておきたくて」
砂塵を含んだ風が叩きつける天幕の中、オイルランプの灯が作る濃い陰影が、ゆらゆらと揺れていた。
「一時の……思春期の子供が経験する、よくある病のようなものだと思っていました。いつか振り返って、ああ、あんな頃もあったなって、照れ笑いをするようなものだと。でも、」
そうじゃなかったんです、とアルマは言った。
微かなため息。
灯芯の燃える音。
轟々と唸る風の声。
「あの子は、いえ――『彼』は、あなたのことが、好きです。あなたを、愛してしまった」
好き。
愛している。
言葉を理解することと、その感情を覚えることは違う。
養い親だった老爺から与えられたのは身に着けるものと食糧、雨風をしのぐための家屋と、寝床だった。憎まれていたとも、愛されていたとも思ったことはない。身を寄せ合って眠る夜の暖かさを教えてくれたのはセレネーだった。小さく健気ないきものの手に触れて、誰かが傍らに在ることの意味を知った。求められるなら、応えようと思った。だが。
その先を未だ見たことはないから、惜しみなく向けられるものの僅かすら、返してやることができない。
世界の広さを知り、様々な人々に出会った少年の、見たものや触れたもの、得たものが、まだ新しい地図に書き加えられてゆく。そこにぽつりと落とされたインクのような、一際鮮やかな感情のひと雫を、同じ色で記してやることができないことを、初めて――寂しい、と思った。
一羽はぐれて飛ぶ鳥は、地図を持たない。
「――あの子には」
我知らず強く結んでいた唇を、漸く開く。
ナタのことは好きだ。
きらきらと輝いていた目がいつからか燻るような熱を湛えていることに、名を呼ぶ声が以前と違うことに、気づいていなかった訳ではない。それでも自分にとっては未だ、出会った頃の少年のままだったのだ。
「もっと、相応しい行き先がある。これが正しい道であるとは思えない」
「……正しいかどうかでは、ないのですけど」
女のこぼした吐息はやわらかで、その微笑みは優しかった。
「ハンター。いえ――編纂者としてではなく、あなたの身近にあるものの一人として、尋ねます」
眼鏡の奥から真っ直ぐに突き付けられた眼差しが、厳しかった。
「『あなたは、どうしたい』のですか」
◇
強い陽光を一瞬遮られ、頭上を振り仰ぐ。
遮るもののない蒼穹に、翼を広げて飛ぶ大きな鳥影があった。
鳥の隊のハンターが禁足地を去り、それでも――何ひとつ変わらぬまま日は沈み、また昇る。立ち竦んだ場所に座り込み、膝を抱えたまま動けないのは、自分だけだ。
何も、知らされなかった。
予兆も、別れの言葉も、何もなかった。
ただ忽然と男は姿を消し、私物はきれいに片付けられ、痕跡すら残っていない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「……どうして」
どうして、何も言ってくれなかったんですか。
どうして、何も言わせてくれなかったんですか。
どうして。
どうして。
その問いかけに答えるものはなく、乾いた地面にこぼれ落ち、風に流されて消えてゆく。
背後で、さくりと砂を踏む足音が聞こえた。
◇
近づく足音に気づいてはいただろう青年が、振り向くことはなかった。その背中はいつの間にか随分と広くなったけれど、膝を抱えて俯いた姿は少年だった頃と何も変わらない。
「……ナタ」
返事はなかった。
隣に立って見上げる空は青く、どこまでも果てしない。
「――先生は」
長い沈黙の後に緩々と顔を上げ、やがて、青年は口を開いた。
「僕のことが、重荷だったんですか」
「ナタ――」
「だから、何も言ってくれなかったんですか」
「……違うわ」
「だったら、どうして」
どうして。
その問いを向けられるべき相手はここにはなく、幾度自問しようとも答えが見つからぬことを知りながら、それでも今は問わずにいられないのだろう。
「違うのよ。ナタ。そうじゃない」
――あなたは、どうしたいのですか。
選択を突き付けたのは、自分だ。
逃げることも、気付かぬふりをすることも、赦さなかった。だから、男は去った。
無限の世界を描いてゆく地図に落とされたひと雫が、いつか色褪せ、懐かしむだけの思い出となることを、おそらくは願って。
「ナタ。あの人は――ね、」
その先に続ける言葉を探し、見つけたものを暫し眺めた後、そっと喉元に押し返す。その時。
「……こんなところにいたのか」
振り向いた視線の先、精悍な頬を歪めるようにして、随分探したぞ、とオリヴィアは苦笑した。
◇
懸命に着いていくことしかできない背中に、いつか追いつく日を夢見た。どれ程苦しくとも、初めて自分の意思で選んだ道だった。肩を並べてその隣に立つ日さえ、あと少しで手の届く場所にあった。その先も傍らに男の姿があることを、疑いもしなかった。
「……先生は、僕のことが重荷だったんですか」
「ナタ――」
「だから、何も言ってくれなかったんですか」
違うわ、とアルマは言う。
けれど。だったら。
「だったら、どうして」
ここを去ることを選んだんですか。
僕を見捨てたんですか。
どうして。
どうして。
問うことを止められない、その答えなど――本当は、とうに判っている。ただ、見たくないだけだ。
はぐれて飛ぶ孤高の鳥をひとつ所に止めておくことなど、誰にもできない。自分にならできると考えていたのなら、それは傲慢が過ぎると云うものだ。無知で愚かな子供が、一人で思い上がっていた。独りよがりの、身勝手な夢を見ていた。きっと、それだけの――ことだった。
情けなさと、自分に対する怒りが、悲しみを押し流してゆこうとする。視界が滲む。
「……こんなところにいたのか」
低く穏やかな声は、苦笑を含んでいるようだった。
「随分探したぞ」
慌てて袖口で目元を拭い、振り返った先――オリヴィアが背から降ろしたものを見て、ナタは息を詰めた。
◇
「……きみの『先生』から、預かっていたものだ」
遅くなってすまないと微笑むオリヴィアの差し出した、それは――一振りの大剣だった。
「きみに渡してほしいと言われていた。受け取ってくれるか」
長い間師の背にあったその大剣を受け取って、青年は暫し、何も言わなかった。
自らを制御できぬ『原種還り』の個体の、苦悶の暴走を止めてやってほしいと請うた――少年の静かな横顔を、今でもはっきりと思い出すことができる。一度は憎み、自らに重ね合わせもしたのだろう獣の、美しい骸。その剣は常にハンターと呼ばれる男の背に、手の中にあって、離れたところを一度も見たことはなかった。語られることはなくとも、それは誓いのようなものだと理解していた。人の手で造り出された仮初の生命がいつか本当の姿を取り戻す日を、共に見届けるつもりなのだと思っていた。
白い皮の色がすっかりと変わってしまった柄を握り、幾度も研がれた跡のある刃に指を滑らせる。おずおずと伸ばした腕に剣を抱いた瞬間、長く濃い睫毛を慄くように震わせて、そうして――せんせい、とナタは呟いた。
「先生……、」
続く言葉を失った唇がこぼす、乱れた息遣い。
「先生、」
掠れた声が、濡れてゆく。頬を滑り落ちた最初の一粒が、驟雨を連れてくる。
「先生――先生、先生……ッ……」
水位を上げ、堰を切って溢れ出す。
◇
その剣に触れ、腕に抱いた瞬間、もつれ絡まっていた全てが解け落ちる音を聞いた。
好きだった。
誰よりも強く、優しい人を。
美しく、少しだけ不器用な人を。
甘く苦く、不可解で醜く度し難い感情が、漸く与えられたその名を高らかに謳い叫び出す。
「先生……、」
恋――だった。
紛れもない、恋だった。
「先生、」
傍にいたかった。
触れていたかった。
接吻けたかった。
「先生――先生、先生……ッ……」
後悔が、寂しさが、悲しみが、愛しさが溢れ出す。
この想いに気づいたから、あの人は去ったのだろうか。この想いを告げたなら、あの人は去らなかっただろうか。答えのない問いは嗚咽に攫われ、流され、やがて、塩辛く温かい潮のうねりに呑み込まれた。
◇
波打つように泣きじゃくるその背に触れる寸前で引いた手を、緩々とこぶしに握り締める。
引き止める言葉を聞いた人が静かに浮かべてみせた微笑みが、酷く遠かった。それ以上は何も言えぬまま、波立つ感情を呑み込んで口を噤むしかなかった。短い別れの挨拶で共に過ごした数年を終わらせた男が、けれど――自分を慕う青年に何ひとつ告げることなく去った理由が、漸く判ったような気がした。
この青年だけがきっと、羽ばたこうとする鳥を地上に留めておくことができる唯一の存在だったのだ。
地図を持たぬ鳥の心に落とされたひと雫が、どれ程特別な意味を持っていたのかをナタは知らない。ただひとつその手に残されたものが、全てを『なかったこと』にはできなかった男の優しさと弱さだということも、また。
物言いたげな眼差しを伏せて背を向けたオリヴィアを見送り、そうして――アルマは空を仰いだ。