月満つれば
真っ暗なところにいる。
匂いはなく、風もない。ただ真っ暗なところだった。不思議と恐怖はなかった。この感覚を知っている、と思った。今まで数えられないほど見舞われた不運によって、落ちてきた場所と似ている。
違うのは、土の感触がないということだけ。だからこれは夢だとわかった。立ち上がる。上を見上げる。丸い穴が、満月のようにくらがりの中にあいている。つかむように手を伸ばすと、何かに触れた。あたたかい体温をもっていた。
「伊作」
聞き馴染みのあるやわらかい声が降ってくる。せんぱい、と声にならない言葉を出して、その手をつかもうと伸ばした。
まぶたを開けると、世界はまだ夜の中あった。
部屋はとっぷりと闇に沈み、仕切りを挟んだ向かいからは規則正しいひとりぶんの呼吸音が聞こえる。顔をのぞかせると、ひとつも布団を乱さず、ただしく眠りについている同室の姿があった。灯りはとっくに消していたので、その表情はよく見えない。
「とめさぶろー…」
口元に手を添え、空気だけで名前を呼んでみる。起こしたいわけじゃなかった。眉根のひとつも動かすそぶりもなく、留三郎はただこんこんと睡眠を享受している。ふ、と笑いをこぼした後、つづけて深いため息は吐いた。
彼に倣うように、もう一度布団へと身体をあずける。仕切りに背を向けるようにまるくなってみても、眠気はうまく落ちてこない。
部屋の扉のわずかな隙間からは白いひかりが差し込み、床に一筋の道をつくっていた。辿るように指先を伸ばす。きょうは満月だっただろうか。まぶたを落とす。
似たような夢を、最近よく見る。
暗くて狭いところで動けなくなっている僕へ、その人はいつも手を差し伸べてくれる。僕はそれを掴もうともがくけれど、いつもあと少しというところで目が覚める。いつになったって届かない。
まぶたを開ける。あたたかさも冷たさもない、細い光を人差し指で叩く。床を照らしていたそれはやがて陰り、ゆっくりと消えていく。
――喉が渇いた。
そっと起き、立ち上がる。高いところからもう一度、眠りについている留三郎を見下ろすと夜目に慣れたのか、今度は顔がよく見えた。いつもきり、としている眉はなだらかに下がっていて、まるで年相応の少年のようだった。
音を立てないように外へ出る。虫のざわめきがひときわに近くなる。乾いた冷たい夜風が袂の隙間に潜り込んでくる。薄い雲の向こう側に、朧な明かりがあった。触れると崩れてしまいそうな心許ないひかりだった。
食堂へ続く渡り廊下へ出たところで、人影を見つけて立ち止まる。その人は、じっと空を見上げているようだった。背格好から(また、こんな時間に外にいることから)上級生であるようだったが、夜着には見えなかった。
誰だろう、と目をこらす。冷たい風が、木々をざわつかせる。世界が反転するように、ゆっくりと輪郭が浮かび上がっていく。
闇に順応している忍び装束、結われたまま柔らかく風に揺れる髪、つんとした鼻筋、まなざしは遠い。
白い明かりのしたで浮かび上がるように現れたのは、他でもない。西園寺光雲先輩だった。
「光雲先輩」
はっきりとした声が出た。
光雲先輩は最初からわかっていたかのように、特段驚きもせずこちらに穏やかに視線を向ける。そうして「伊作」といつもの陽だまりのようなあたたかさで名前を呼び、微笑んだ。
「どうしたんですか。こんなところで」
「さっき実習から戻ってきたんだけど、月がきれいだからここで眺めてた。伊作が来たと同時に雲が流れていったんだよ。ラッキーだね」
ごく自然に、そう言葉を紡いで笑った。それは不運な僕の人生にとっては、とても不自然な言葉だった。僕と会ったのが運のツキこそあれ、ラッキーだなんて。
きっと、光雲先輩しか言わないことだ。否。光雲先輩しか言えないことだった。
「夜間実習、お疲れ様です。けがはありませんか?」
「うん。大丈夫」
そう微笑んだ後、
「王子は『眠さの限界だー!』って言って、とっとと部屋に戻っちゃった」
と、わざとらしく口をすぼませて言った。それは僕の視線が、普段なら一緒にいるはずのその人の姿を、思わず探したのと同じくらいの間合いだった。敵わない、と小さく苦笑する。
「こんなに月が綺麗なのにもったいないよね。でもまあいいか。伊作と会えたし」
そう言いながら、天にむかって先輩はおおきく伸びをする。つられるように僕も空へと顔をあげる。なににも邪魔されない薄い金色が煌々と輝いている。
「今日は待宵の月、っていうんだよ」
視線は高いまま、光雲先輩が言った。僕はまちよいのつき、と確かめるように繰り返した。
「満月になる一日前の月のこと。昔、王子が教えてくれたんだ」
「へえ。ちゃんと名前があるんですね」
「うん。僕は、満月よりこっちの方が好きだな」
「え。どうしてです?」
光雲先輩の方へ顔を向けると、彼は得意げに口の端をあげ、人差し指を僕の鼻先へと掲げた。
「月満つれば則ち虧く、という言葉がある。満月は必ず欠ける。物事には盛りがくれば必ず衰えがくるってこと。だったら、今から満ちていく方が、希望があると思わない?」
屈託なく笑う。先輩らしい、と思った。月明かりのせいではなく、先輩が持つ無邪気さが眩しくて目を細める。このひとのこういう明るさに触れると、沈んでいた心も自然にほぐされていくから、不思議だ。
「確かに。そうですね」
微笑みながら頷き、ふたりで笑い合う。
思えば、進級してから先輩とふたりだけで話すのは随分久しぶりでもあった。
鍛錬こそつけてもらっていたが、そこには大体流石先輩と留三郎も一緒にいたし、後輩も増えた手前、互いばかりにかかりきり、というわけには当然いかない。
なにより上級生ともなると、課題やら試験やら実習やらに追われることが多く、学園にいない時間も増える。意図的に示し合わさないと、ゆっくり話をすることさえ難しい。思えば光雲先輩の姿を見かけたのだって、三日振りだ。こうして二人だけで笑い合うのは、一体どれくらいぶりだろう。
――ずっとこのままだったらいいのに。
決して口にはしない、それでも何度も思い浮かべてはかぶりを振って打ち消してきた言葉がゆっくりと湧き上がってきて、僕はまた自分の浅さを思い知る。
先輩は、満ちていくことに希望を見出しているけど、僕は違う。満ちれば欠けるなら、永遠に欠けたままでいい。そう願ってしまう。
そうすれば、この人だってずっと。
「そろそろ戻ろっか」
ぽん、と軽く肩を叩かれる。学園は依然として静まり返っていて、起きている者の気配はしなかった。その静寂に僕たちも戻っていく。名残惜しく、曖昧に笑うと
「あれ」
と、思わずこぼしてしまったような光雲先輩の声が降ってきた。
先輩は手に肩を置いたまま、二、三度瞬きを繰り返した後、下から上までゆっくりと僕の方を眺めた。
「……ど、どうかしましたか?」
「なんだか、伊作大きくなったんじゃない?」
「えっ」
「この前より、なんだか視線の位置が高い気がする」
「そうですか? そんなに変わってないと思ってましたけど…」
「ううん。絶対そう。僕の目はごまかせないよ。あんなに小さかったのになぁ……」
はああ、と演技がかったため息を大きく吐いて、先輩は両手で赤子抱くそぶりをみせた。
「いえ、そんなに小さくはなかったです」
小さく手をあげて言い返すと、吹き出すような嘆息が返ってくる。
大きく冷たい風が吹いて、僕たちの袂をはためかせる。流れた雲が、月明かりをそっと隠していく。降ろしている髪が、顔にかかるのをかきわける。
「みんな成長しているんだね」
先輩が呟いた。
その声色が少し震えているような気がして、思わず眉を寄せる。宵闇があたりを覆ったせいで、表情はよく見えない。
「先輩?」
「さ、もう寝よう。寝る子は育つっていうからね」
断ち切るように手を打って、先輩は踵を返す。思わず手を伸ばすが、指は揺れる髪先に触れるだけで終わった。何も掴めないてのひらを眺め、握りしめる。
「伊作」
廊下の向こうのくらがりから名前を呼ばれる。月が隠れてくれてよかった。きっと僕は今すごく情けない顔をしているから。
はあい、と何でもないように返事をして後を追う。鼻先を通り過ぎる風は、凛とした冷たさで嗤い、もう残されている時間は少なくないことを思い知る。しっかりしないと。先を歩く先輩に追いつくように、一歩を大きく踏みだした。
雲の向こうで眠る月はぼやけた輪郭のままで、光は遠く、遠くにあった。