Cafaea Avium③「本当に――大丈夫ですので」
怒ってもいないし、気分を害してもいない。
そもそも、謝罪を受け入れるかどうかの話ですらない。何もされていない。
強いて云えば――。
「事故です」
その瞬間はそれなりに痛かったのだとは思うけれど、本当に一瞬のことだったし、何が起こったのかを察する頃には、とっくに痛みは引いていた。今は、多少皮膚が赤くなっている程度だろう。何の問題もない。その一点を凝視する男の視線を遮るように額を覆って、本当に気にしないでくださいね、とアステルは言った。
「いらっしゃいませ」
黒いベストとエプロンを着けた長身の店主が、水のグラスとおしぼり、メニューをテーブルの上に置く。
「ご注文は――後程お伺いしましょうか」
口元に二つ並んだちいさなほくろが印象的だった。店の佇まいと同じく落ち着いていて、それでいてどこか不思議な収まらなさのような空気がある。
「えっと……先生のおすすめ、何でしたっけ」
「カツカレーです」
「じゃあ、それで」
「――同じものを」
大盛りで、とすかさず言い添えた男が、こちらへと視線を向ける。問われているらしい質問とその内容を察して、僕は普通でいいですとアステルは言った。
「お飲み物はいかが致しましょうか」
「え……っと、じゃあ、アイスカフェラテをください」
「アイスコーヒーをお願いします」
伝票にペンを走らせて、少々お待ちください、と店主は微笑んだ。戻ってゆく背中を何となく目で追い、ついでに店内を改めて見回してみる。
窓際の席の二人連れの他には、カウンターの端に一人客がいるばかりだった。先程出て行った会社員らしい男を入れても、ランチタイムにしては人が少ない。
「……ここって、あのマスターさんが一人で?」
何となく声をひそめて訊ねれば、水のグラスを取り上げて、だと思いますがと男は言った。
「私も、頻繁に通っている訳では」
「そうなんですか」
「昼は――その、弁当ですし。ここは七時閉店なので」
「そうか。遅くなりますよね。高等部は」
「……初等部は、どうですか」
どうとは、などと問い返しても始まらない。同じ学園内のことであっても、互いの勤務形態について想像がつかないのはこちらも同じだ。ただ――今ここで自分の働き方についてつらつらと述べても仕方がないし、そう云うことを訊かれているのでもないことは知っている。知ってはいるが、現時点で無難に膨らませられそうな話題が他にはないことも、また理解している。何せ目の前の男とは、『互いに何となく顔を知っている』程度の間柄でしかなかったのだ。
つい先程までは。
「初等部は、部活、ないですし」
「そう云えばそうですね」
「ナガセ先生は――」
陸上部です、と男は言った。
「ちなみに、体育専任です」
それは、言われなくとも判る。
初めて会ったのは、着任してすぐの全校集会だった。
初等部から高等部の校舎は同じ敷地内にあってそれぞれが独立しており、互いに行き来することはほとんどない。年に数回、長期休みの前にだけ、校長の訓示を聞くために全校生徒が大講堂に集められる。
まだ幼く声の甲高い初等部低学年を日頃見慣れていると、高校生などはもはや別のいきもののように感じられる。あんな大きな子供たち(もはや子供とも呼べないが)の指導は大変だろうなと、ある意味畏怖に近いような眼差しで眺め遣った――教員たちの中に、一際背が高く、体格のいい男がいた。
「……最初お見かけした時、すごく背が高い方だなあって思ったんです」
「そう――変わらないと思いますが」
長めの前髪の下で、やや三白眼気味の目がぱちぱちと瞬いた。黙っていると少々取っつきにくい雰囲気はあるが、口調や表情は思いのほかやわらかい。
「変わらなくは、ないですよ」
「アステル先生、身長は」
「百七十五センチ――ですけど」
「四センチしか変わりません」
「あれ? そうなんですか? もっと大きく見えますよね。やっぱり、鍛えていらっしゃるから……」
視線は自然、ワイシャツの胸元に吸い寄せられる。広い肩を縮めるようにして、あの、とナガセは呻いた。
「本当に――面目ない」
「あ……え、あの、違います。今のは普通に、すごいなあって云う気持ちで」
「ですが」
両手に抱えたグラスの後ろからおずおずと伺うかのような仕草が、こう言っては何だがどこか可愛らしくさえある。前髪の陰になりがちな目は、優しい空の色をしていた。何となく人となりを掴んでしまってから改めて振り返ってみれば、おそらく先程の一件で――ナガセは、なかなかに焦っていたのだろう。
「それよりも――ナガセ先生。それ、大丈夫そうですか」
「……何とか、今のところは」
大きな手がこわごわと触れる胸元で、その――ワイシャツの小さなボタンは、依然として窮屈そうに引っ張られている。笑いを堪えながら付け直してくれた年配の家庭科教師が、普通の五倍は固く留めといたわよと言っていた筈だが――この分では、そう長くも保たないかもしれない。
「――お待たせしました。カツカレー、こちらが大盛りです」
いつの間にかそこに現れていたかのような店主が、優雅な手つきで皿を並べてゆく。食欲をそそる香りが、湯気と共にふわりと立ち上った。アイスコーヒーとアイスカフェラテのグラスをそれぞれの前に置き、ごゆっくりお過ごしください、と一礼する。
どちらからともなく顔を見合わせた後――手を合わせたタイミングは、ほぼ同時だった。
「……いただきます」
「いただきます」
つややかな米とカレーの境目にスプーンを入れ、掬い上げたひと匙を口の中へと運べば、爽やかなスパイスの香りが鼻腔に抜ける。辛さの向こう側に溢れるような深い甘みのおかげか尖った刺激に舌を刺さされるようなことはなく、むしろまろやかに纏まっている。
「すごい――これ、美味しいです」
肌理の細かいパン粉を使った薄めのカツはさくさくとして香ばしく、ほどよい脂がカレーの辛味を引き立てながら包み込んでくれるようだった。
「お店で食べたカレーの中では、一番かも」
「それはよかった」
前髪の陰からちらと視線を上げて、ナガセは笑った。
笑顔になると、やはりどこか可愛らしいようにも思える。その――右の口角の下あたりにちいさなほくろがあることに、アステルは気づいた。
ほぼほぼものも言わずに掻き込み終え、ひと息を吐く。シロップを入れたアイスカフェラテの優しい味わいが、口の中に残った熱を心地よく押し流していった。
「――だから先生、」
窓際の席の若い男が、今は令和なんですよ――と呆れたような口調を作る。
「時代遅れも甚だしいです。取材費の名目で出せる経費だってほとんどないですからね。昭和と違って、今はそのあたりも厳しいんですから」
「それは――自費でいい……」
向かいに座った男の、ぼそぼそと答える声が聞こえた。自費、と鸚鵡返しに繰り返した若者は、こちらに背を向けているから表情までは判らないが、決して嬉しそうな顔はしていないだろう。
「それってまさか、僕も同行するとか……ないですよね?」
「――編集長には、既に許可を貰っているが」
「……勘弁してくださいよ」
取材。編集長。『先生』と呼ばれているからには、作家だろうか。小説は時々嗜む程度で、あまり詳しくはない。氷だけになったグラスをコースターの上に戻すと、ちょうど同じタイミングでアイスコーヒーを飲み終えたらしいナガセと視線が出会った。
「先生の仰言った通り、美味しかったです」
いいお店を教えていただいて、と頭を下げれば、とんでもないと慌てて首を振る。
「元はと云えば、私のボタンが――先生のおでこをスナイプしてしまったので」
「スナイプ……」
「思い出すだにいたたまれません」
――カツカレーの美味い喫茶店があります。
鬼気迫る表情で肩を掴まれ、判りましたと頷いた時には、実は何も判っていなかった。
全校集会で顔を合わせるだけの、たまたま同世代と云うだけの、二言三言話したことがあるだけの。それだけの関わりだった。
「――ナガセ先生」
「はい」
「今度、一緒にスーツを作りに行きませんか」
「…………」
濃い眉を寄せて暫し沈黙した後、アステル先生、とナガセは言った。
「お詳しいんですか」
「詳しくないです。ちょっといいスーツが欲しいな、くらいの軽い気持ちです。だから何も判らないし、一人で行くには敷居が高いじゃないですか。ああ云う場所って」
「ええ」
「だからナガセ先生に付き合っていただけると、助かります」
ご迷惑でなければと慌てて言い添えれば、とんでもないとまた首を振る。
「こちらこそ――願ったりです。年に数回のことだからと思っていたのがよくなかった。ちゃんとしたものを、作ることにします」
また誰かをスナイプしてしまってはことですから――と付け加えて、ナガセは笑った。
「――今日は、ご馳走になりました」
店外に出たところで、二人分の支払いを済ませた男に改めて礼を述べる。
「すごく美味しかったので、また来ようと思います」
「気に入っていただけて、よかった」
「それから――日曜ですが」
「予定は開けておきます」
また連絡しますねと微笑んだアステルを、少しだけ高い位置から見下ろす空色の目が優しかった。
「あー! ナガセン!」
「ナガセンがいるー!」
囃し立てる声を聞いて視線を投げれば、どうやら下校途中の高等部の生徒であるらしい。
「……『ナガセン』って呼ばれてるんですね」
「――はい」
困ったものだと言わんばかりのしかつめ顔の裏側には、だが、どこかくすぐったげな気配がある。ナガセン寄り道すんなよな! と生意気な口を利く男子高校生たちを振り返って、おまえたちこそ早く帰れ! とナガセは言った。