キスの日「――今日は『キスの日』らしいですよ」
ポットに湯を注ぎながら何気なく切り出してみた僕への返答は、予想――と云うか、ちょっとだけ期待していたものとは、大幅に違っていた。……え? 期待するだけ無駄じゃないかって? いや、ここはさすがにさせてほしい。だって、『作家と担当編集者』から晴れて『恋人』という関係になってそろそろ三か月が経つ。何かしらこう、身体的接触があってもいいんじゃないかな……って、思うよね? 普通は。ともかく――読んでいた本から目さえ上げずに、先生はこう言ったのだ。
「日本で初めて、その類の場面が登場した映画の公開日らしいな」
そうですね。その通りです。百点満点の回答ですよ? クイズの回答者なら、だけど。
ほんのひとかけらくらいはいい雰囲気になったりしないかな……なんて云う、僕の甘すぎる期待をあっさりと打ち砕いただけでは飽き足らないらしく、先生は更に言葉を続けた。
「GHQの介入があったそうだな。日本人に個の感情を意識させることで『民主化』、ひいては『軍国主義』からの脱却を目論んだと云う話だが――表現の自由の拡大と云う点では、少なくとも恩恵を受けた側だと言わざるを得ない」
きみもだろうと付け加えて、漸く視線を上げる。眼鏡の奥の切れ長の目を縁取る睫毛がレンズに触れそうなくらい長くて、今日は結んでいない真っ直ぐな髪のひとすじが白い額に落ちかかっているところが何だか色っぽいのに――振られる話題には依然として微塵の色気もない。
「きみの世代は特に『個人であること』を重要視する傾向があるからな。『ムラ社会』として発展してきたこの国の伝統的価値観とは、とかく対立しがちだが――」
「その『伝統的価値観』とやらが、現在の社会構造から乖離しているって云うだけですよ。個をすり減らして集団に貢献したところで、犠牲にしたものを誰かが補償してくれる訳じゃないですし」
――では、なく。
思わず、うっかり、話に乗っかってしまった自分を殴りたい。案の定と云うか何と云うか先生は本を置いて身を乗り出し、膝の上で指を組んだ。
「五年の年齢差でも、きみと俺とでは基盤になった社会情勢や教育が随分と違っているだろうからな。俺が通っていた学校は歴史の長い中高一貫校で、校風としても教師側の意識としても、『皆が同じように在り、振る舞う』ことが求められる環境だったように思う」
「じゃあ、先生みたいに変わった人には、随分窮屈だったでしょうね」
逸れ過ぎた話題の、更に横道に突っ込んでいくつもりはなかったけど――これは正直、仕方がない。好きな人の高校時代に興味を持たないなんてこと、ある訳ないよね?
「……きみの言う通りだ」
あまり馴染めなかった、と先生は苦笑する。
「殊更に揶揄われたり、嘲られたりと云う経験はないが――友人と呼べるような存在は、いなかった」
「でも、あの人は――ほら、ピアニストの。同級生だったんでしょう」
「当時はまだ、顔を知っていると云う程度の関わりしかなかったな。見かける時はいつもピアノを弾いていて、随分と真剣に打ち込んでいるようだったし、話しかけていいものかどうかも、正直判らなかった」
ひと言で雑に片付けてしまうなら、『コミュ障』というやつになるのだろう。でもそれは多分人と関わることに真摯であろうとするがゆえの臆病さであって、そこは世代のギャップと云うよりはきっと、根本的な性格の違いだ。
「……知ってはいましたけど、真面目ですよね。先生」
緩々とこちらへ視線を向けた先生は、なぜか少しびっくりしたような顔をしている。何ですかその顔、とすかさず突っ込んでやれば、そんな評価をもらえるとは思っていなかったと言って、先生は苦笑した。何だろう。ちょっと、心外なんだけど。僕、そんなにいつも悪態ばっかり吐いてるかなあ。いや、吐いてるのかもしれないけど。
「もしかして、『コミュ障』の、『陰キャ』だって言われるとか、予想してました?」
「……まあ、そんなところだ」
「そこは残念ながら事実です。自覚ありますよね?」
「否定はしない」
「でも、それはそれとして、です。友達になりたい相手にも遠慮して話しかけられないくらい真面目で大人しくて、ブレザーの似合う美少年だった先生のことが、僕は――大好き、ですから」
ひたり、と。音の出そうなくらい見事に静止した先生の、白い頬のあたりがやがて、じんわりと淡い色に染まってゆく。身長百八十センチの、しかもアラサーの男が、『大好き』って言われたくらいで頬を染めちゃうとか――ありかなしかで言えば、圧倒的に『なし』だ。でも。それを可愛くて仕方がないって思ってる時点で、僕も大概ヤバいやつ、なのかもしれない。
立ち上がって、向かい側のソファ――つまり、先生の隣へと移動する。ポットの中で放置されたアールグレイはとっくに泥水みたいになってしまっているだろうけど、今はもうどうでもよかった。
「――先生」
額にかかるひとすじを掻き上げてやった亜麻色の髪から、ハーバル系のシャンプーの清々しい香りがふわりと漂う。
「さっき、今日は何の日だって言ったか――覚えてますか?」
こくり、と。白く透き通るみたいな喉もとで、ちいさな骨が上下するのが見えた。レンズの向こう側から僕を凝視する青灰色の目を覗き込みながら、眼鏡の蔓にそっと手を掛ける。
「もし、厭だったら、今――言ってください」
外した眼鏡をテーブルの上に置き、きれいな卵形の輪郭に沿って流れる素直な髪の中に、指を差し入れる。引き寄せる。そうして僕は、はあ、とため息を吐いた。
「……先生」
「…………」
「あの、できれば目、閉じてほしいんですけど」
「…………」
長い睫毛をはさりと瞬いて、やがて、先生はまた、こくりと息を呑んだ。
「……目を、閉じる――もの、なのか」
「映画で目開けたままキスしてるの、見たことあります?」
僕の言ったことを噛み締めるように一度俯いた後、小さな吐息をこぼして、そうか、と先生は呟いた。
「目を閉じてしまうと、きみの顔が見られないと思ったの、だが」
そうするものなら仕方がないな、と言った後、今度はぎゅ、と目を瞑るその――どうしようもなく可愛くて愛しくてちょっと間抜けな美貌を見下ろして、僕は、否応なしに急上昇した体温に汗ばんだ手のひらの汗を、ジーンズの膝でこっそりと拭った。