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    ta_mi_d

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    ta_mi_d

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    kirn♀

    海外の細かな事情までは調べてないので、日本式だったりしますが気にならない人向けです。

    茨の腕に囚われるスペインのレ・アールとドイツのバスタード・ミュンヘンの国際交流試合。国際Aマッチとも国際親善試合ともまた違うものだ。国内リーグも大事なものではあるが、内側にばかり目を向けていては世界に置いて行かれる。それがイングランドに起こったとある悲劇でもあり、一定は他国との親善試合や交流試合が公式的に推奨されるようになった。
    カイザーが行きたくもないスペインの地を踏んだのはこの試合が組まれたせいである。スペインという国が嫌い、ではなく単純にアウェー試合が得意ではない。勝っても負けてもブーイング。ドイツもそうであるが、スペインもまたサッカーが熱狂的に国民から愛されているスポーツである。
    数年前、スペインチームのサポーターからトマトを投げつけられてからトラウマのようなものだ。面倒で、鬱陶しくて仕方がない。今回だって遠征代表に選ばれないように手を抜いたというのに、それがバレて逆に抜擢されてしまった。アルミでも噛んだ顔をすれば、同情するようにネスから背を撫でられたのは記憶に新しい。
    交流試合の日程は三日間。一日目と三日目が試合で、二日目は休息と調整である。その第一日目、カイザーが所属するBMが勝利を飾った。決勝点を取った瞬間の割れるようなブーイングの嵐。辟易とあからさまに顔を歪め、それが大きなスクリーンに抜かれてもカイザーは表情を改めることなんかできなかった。
    訴えられる不満をサポーターたちが露わにする前にさっさとベンチへと引き上げる。本当に性質が悪いサポーターばかりだと、自国を棚上げしてカイザーは胸中だけで舌打ちをした。ふっと顔を上げたその視界の端で、負けた癖に涼しい顔をしている冴が見える。走り回っていただけあって汗を吹き出させて何度も何度も額を拭って大変そうだと他人事のように見ていた。その冴の表情が、ふと一変する。
    どんな美女レポーターに迫られても、睨む以外に動じなかった顔が、ゆるんだ笑みを乗せた。優しい眼差しを向ける先へ手を挙げる。そこに誰がいるのか、とカイザーも連れられるように視線を向けた。
    長い黒髪を背に揺らす少女が、冴にタオルを手渡す。ぴたりと体を寄せて仲睦まじくしているようだ。
    ふうん、と思いながらも気に食わない。面白くない。負けた癖に、とどこか八つ当たりのような感情のままロッカールームへの壁を蹴った。

    選手専用の通用口からスタジアム外に出る。本来なら送迎バスでがっちりと守りながら、であるが今日の試合でカイザーは少し目立ち過ぎたらしい。ダミーのバスが用意されるくらい現地サポーターが荒れているようで、それならばと観光を希望したのだ。まさかあのカイザーがのんきに買い物なんかするとは誰も思わないだろうし、スタジアムから離れれば衆目の中で暴れるような馬鹿に会っても止める人の方が多くなる。
    ところが、出た矢先の騒がしさにこれからの楽しみなんか一瞬で消えてしまった。相手チームのユニフォームを着たサポーターの集団が騒いでいる。サエ、MF、負け。聞こえてくる声にうんざりとしながら少し眺めていると、集団の切れ間から真ん中にいる人物が見えた。
    長い黒髪の、冴より少し背の低い少女。負けた腹いせか、冴と同じ日本人という理由だけで物を投げつけられている。そのほとんどは当たっていないが、ときおり頭にぶつかっては少女の体がふらついて、サポーターたちは歓声と暴言で叫ぶ。正直言って見ていられないが、少女は決して顔を伏せていない。
    泣くことも、怯えることもなく、真っ直ぐと。静かに鳴る鈴のように、シャンとした態度で清廉の空気とともにそこにいる。集団を見ていた。
    抵抗も反抗も、睨むことも何か文句を言うこともない。ただそこにいる存在感とともに、愚者を見るように淡々と佇んでいる。
    積極的に助けようとしないカイザーも、このサポーター連中と同じだ。少女の目に映ったわけでもないのに、そう言われたように感じられて苦い思いが広がる。気分が悪い。落ち着かなくなる。
    無反応な少女に腹が立ったのか、それとも限界だったのか。集団をつくる一人が手を振り上げた。さすがに少女も驚いて目を丸くして、覚悟するように目を強くつむる。
    瞬間、体が駆け出した。出来ていた集団の切れ目に割り込んで、押し開き、飛んでくる罵声もものともせずに輪を抜ける。そして振り下ろされた手が少女に当たる間一髪で掴んで止めた。
    「見苦しいぞ」
    こない衝撃と、知らない声に少女はそろりと目を開く。あれだけ親し気だったのだ、冴の恋人なのだろう。今日の試合で冴とマッチアップを繰り返したカイザーのことは強く印象に残っているようで、サポーターたちにも動揺が広がる。
    ざっと強く視線を向ければ怯えるように輪が乱れた。ここで相手チームの有力選手が一人でも潰れれば自分たちのチームが優勢になると考えたのだろう、批難の矛先がカイザーに向く。
    その矢先に、強く後ろに手を引かれ、黒髪が宙を打ってカイザーの視界を閉ざす。すぐ後に聞こえてきたのは、固いものがぶつかるごしゃりともぐしゃりとも言い難い音。殴られたのだ。黒髪の少女が。
    少女に庇われたということはカイザーのプライドを傷つけたが、何よりも暴力でねじ伏せようとしたサポーターに怒髪冠を衝く。
    「わたしのことをどう言おうが構わねえけど、選手に傷つけんのは違う! レ・アールはンなことしなけりゃ勝てねえ弱いチームか! 違うだろ!!」
    吠えるような大きな声で、少女が怒気を滲ませた英語で叫ぶ。傷がついたのか、こめかみから血が流れ、綺麗なかんばせを汚しながら、顎先から滴ったものが石畳を汚す。ぽたり、ぽたりと赤い花が弾けて咲いていく。
    別にカイザーを庇ったわけじゃない。きっとどんな選手がいてもこの少女は盾になったことだろう。そして傷つけられかけた誰かのために、烈火のような感情を露わにする。
    「どけ」
    ふらりと足元を怪しくさせた少女の腰を抱き寄せ、カイザーが低い声で制した。道を開けろ。気迫に押されて人が割れる。
    「離せ」
    「……」
    「おい、聞いてんのか? 誰が助けろって言った。どけ、離せ」
    歩き出すカイザーに引きずられる形で少女も前に足を出す。カイザーの胸元を押して抵抗するが、一向に埒が明かない。こんなにも男女の差があるのかと少女が目を丸くするくらいだ。
    「大人しくしてくれ」
    耳打ちするように、掠れた甘い声が少女の耳朶を震わせる。ぞくりと粟立つ感覚に少女は思わず体を強張らせた。
    「傷を負わせた俺に恥をかかせるな。治療を受けろ」
    「いらねえ。自分で行く。わたしが勝手にしたことだ、責任はわたし自身にある」
    「なら俺も勝手にするだけだ」
    興奮したサポーターの輪から離れた場所に立っていた暗い赤髪の男がサングラスを押し上げる。その顔にも少女は覚えがあって澄んだ緑の目を丸くした。ひらりと手にしたスマホを振った男が指差す先には一台のタクシー。伊達に魔術師とは呼ばれていないらしい。カイザーがするだろう行動を読んでいたようだ。もし手を出さなかったとしても、彼らがホテルに向かう手段にすればいい。何一つ不足はない。
    見えてきた車に少女も抵抗を必死にする。一番はカイザーの足を蹴とばすことだ。どんな最強人間でも弁慶の泣き所は鍛えられない場所である。そこを蹴ればなんとかはなるが、カイザーがサッカー選手であるという知識が少女の行動力を乱していた。
    とはいえ暴れられれば少女と言えども鬱陶しいものである。カイザーに対して強く出られないのであくまでも彼からの解放を望むしかできない。
    ぐっ、とカイザーの胸を押して腕から逃げようとする少女の顎を掬って、口をつけた。驚きの隙に舌を潜り込ませる。少女の舌を絡めとれば、んぅーっと悲鳴をあげた。
    腕を突っ張って逃げようとしていたのに、今は拳で彼の胸を叩きつけている。カイザーは抵抗の可愛い変わり方に少し気分を良くした。腰に回している手をさらに伸ばして、少女の腹を撫でる。
    口付けを深め、舌裏をなぞってやれば、いやいやとでも言うような声が鼻にかかって甘く鳴く。口内の内側の歯列をなぞれば、肩が震えて力が抜ける。叩いていた拳はいつの間にかカイザーのシャツを握りしめるようになった。酷いシワになりそうだと思いつつも、少女の思ったよりも長い舌が心地良い。
    絡めて、捏ねて、混ざって、誘う。無意識だろうにカイザーに合わせて動き出す舌を引っ張って、じゅうっと吸い上げた。
    「んっ、ぁ……ーーッ!」
    カイザーで塞がれたままの唇から悲鳴は外に出ないまま。ぐじゅ、と乱れる唾液の音に混ざってしまう。次いでとばかりに腹を強く押し上げられ、なんだかよく分からない感覚に少女は押しやられて目を白黒と瞬かせた。
    ぶるぶると体が震えて仕方がない。ぱちぱちとした心地良さが弾けては広がって、頭の芯をぼやけさせる。
    「こんな人前で……ゴシップに取られても知りませんよ」
    「は、願ったりだ」
    くったりと力を抜いて、カイザーにされるがままの少女は、顔を真っ赤にして息も絶え絶えだ。カイザーのシャツを握る力だけは一向に弱めず、タクシーに放り込んでお終いというわけには行かなくなる。
    呼びつけたタクシーに乗り込んで、行き先を告げた。近くのそれなりの設備のある病院へ。
    投げられていたものは様々で、石や卵と言ったものが多かった。いくら小さくても当たりどころが悪かったらどうなるものか。挙句にこの少女は殴られもしている。精密検査ができるならしたいくらいだ。
    ネスに見送られて向かった先の病院で、事情を話せば多少融通が効くらしい。明らかにスペイン人らしくない二人組である。金が取れるとでも思ったのだろうか。
    受付を済ませるころには、余韻も過ぎてけろりとした顔になっていた。ただしカイザーに連れて来られたことに関してはどこか罰が悪いのか、居心地悪そうに視線を忙しなく動かしている。
    汚れている髪をタオルで簡単に拭い、傷口を見られて、少し踏み入った問診。あとは丁寧な傷への処置を受けて待合室に追い返される。
    「リン」
    短い名前を呼ばれ、ひらりと手の平が振られた。受付のために明かした少女の名前であるが、何故だか彼に呼ばれると親しげに聞こえるから落ち着かないし、落ち着けない。
    手招かれるままカイザーの方へ向かい、半人分ほど空けて隣に腰を下ろす。一瞬で詰められ、海外の男の距離感にどうにも慣れない。兄の紹介で会ったルナという男もやけに近くて馴れ馴れしくて、凛は最初から最後まで場違いな感覚に襲われたものだ。
    「いくらだった?」
    「ん?」
    「怪我の金くらい自分で出す」
    「これは俺が負わせたようなものだからなあ」
    包帯を巻くほど仰々しいものじゃない。カイザーの少し熱い指先が凛の髪をかきあげて、ガーゼがさらされる。
    「汚い、から。触んな」
    叩き落とすのでも、払いのけるのでもない、押し返すだけの小さな抵抗。そんなつもりは無いのだろうが弱味を見せられたようで、ぞくりとしたものがカイザーの背を駆け抜ける。
    「綺麗だ。お前は決して土に塗れることはない」
    髪を掬って梳いてやろうにも、風に絡まり、砂埃を浴びて、心無いサポーターに投げつけられたもので散々だ。それでも凛の黒髪そのものに汚れは無い。汚いなどとは言わせたくなかった。
    こんな健気な彼女を置いて、冴は何をしているのか。不甲斐ない男の方へ苛立ちが募る。それならいっそ。
    いや、確かに、そうやって破局させたことは何度かある。わざとの時もあれば、本当にただの偶然も。だけどこんな、面白いからと手を出すのではなく怒りから奪いたいと思わされるのは初めてだった。
    あんな男はやめて俺にしろ。そう言えればいいのに、出会ったばかりで、怪我をしている凛にはいつもの口説き文句すら上手く使えない。
    「申し訳ないと俺に思うなら、お前の時間が欲しい」
    「時間を……? 六時には、あのスタジアムに戻れるのなら」
    少しだけ考え込んで、凛は時間制限とともにカイザーの提案を飲んだ。凛の母国である日本には、時は金なりと言うことわざがある。元は英語であるが先に知ったのが日本語だから日本語の方がしっくりと来てしまう。
    スマホで時間を確認したカイザーはリミットまでの短さに舌打ちをしたくなった。だが許された時間を無駄にはしたくない。
    「構わない。行くぞ」
    立ち上がり、手を差し出す。慣れないのか凛はぱちぱちと長いまつ毛を揺らして、カイザーの顔と手を交互に見やった。それからそろり、と懐かない猫のように指先だけがちょこんとカイザーの指先に触れる。
    合っているだろうか、と伺う不安なんて感じさせないように、触れた指先が逃げないように包み込む。腰を上げたタタイミングで腕を引けば、集団から逃げた時のようにカイザーの腕の中に凛の姿がすっぽりと収まる。
    消毒液の匂いがきつい病院内だからだろうか。カイザーがつけている香水だろう、甘やかな花の匂いが清涼と通る。瑞々しさを含んだ香りに嫌な気持ちなんか微塵もない。何の匂いなのかと探究しそうになって、凛は自分の汚れた髪と服を思い出して身を引く。引きたかったが、強く押し留められて逃げられない。
    腰を抱かれた至近距離のエスコートなんて生まれてこの方初めてである。歩幅も速度も合わせられていて、タクシーに乗るまでの短い間に把握されていたのだろう。とんだ伊達男だ。
    まず連れて行かれたのはヘアサロン。一体何の用事かと思えば、話が先に通っているようであれよという間に席につかされた。
    「この通り、汚された髪を綺麗にしてくれればいい」
    カイザーに髪を持ち上げられ、それが鏡に映って自分の状態がよく見える。タオルで拭われはしたがこびり付いたものがあった。ベトリともギシリとも言いがたい髪は自分でも触りたいとは思えない。
    なのに躊躇いなく触れられると、急に小っ恥ずかしくて堪らなくなった。見ないで、と言う女優の気持ちが初めて分かるような気分である。
    髪から手が離されて、重みが肩に帰ってきた。凛の頭上で二人がいくつかの言葉を交わす。スペイン訛りの英語には慣れたが、カイザーのどこか固く強い発音は単語を選び損ねる感じだ。それでいて歌うように聞こえるのだから不思議で仕方がない。男の魅力というやつなのだろうか。
    「リン、俺は少し席を外す。すぐに戻る」
    「え、ああ……うん」
    「寂しくさせてすまない」
    ぎゅ、と足の上で手を握りしめる。凛はこの国に観光ビザで来ている身だ。感情表現が大きい人が多いとは聞いていたが、サッカーサポーターの激しさを目の当たりにしてからトラウマのような感情が生まれている。
    どこの国でも言えることだが、誰もが過激な人間では無いことくらい分かっていることだ。でも一度、この国が怖い、と思ってしまった感情も簡単には消えてくれない。
    頼れる相手は試合後のミーティングが長引くとのことで凛に観光を勧めてくれた。あんな風に絡まれるだなんて凛も思いもよらなかったことであるし、彼もきっと同じだろう。
    そんな不安の中で唯一、一番近くで信用できるのが彼の試合相手、いわゆるライバルの一人であるのはどういう皮肉的な状況なのか。行かないで、と子供のような嘆願を口にしそうになって、緩く下唇を噛んだ。
    「安心しろ、直ぐに戻る」
    「ッ!」
    噛んだせいで巻き込んだ下唇を軽く吸われる。ちう、と可愛らしい音が二人の間で鳴った。なんだか似合わなくて笑いそうになる。
    凛の緊張から解かれた目尻を、親指で撫でたカイザーが涼やかな笑みを浮かべた。そのまま凛の形の良い耳たぶを揉んで手を離す。
    「良い子でな」
    悪態がつけず目をそらした。鏡越しの自分の姿がまた映るが、その顔の赤いこと。カイザーにも隠しきれない朱色を首にまで染めつつ、凛は小さく俯いた。
    ヘアサロンの店員が、カイザーがいなくなった隙間に立つ。凛に一声かけてから髪が持ち上げられ、丁寧に梳かれる。櫛が通らないところもあってそれは仕方がない。丁寧にゴミを取り除かれ、洗髪台へ。
    シャワーが頭皮に当てられる。指が差し込まれ、根本からほぐすように洗われていく。温もりとマッサージのようなタッチに眠気がふらりと訪れる。
    ウト、と夢を見かけたところで、髪が引かれて目が覚めた。タオルで絞るように水気を切らされ、ドライヤーの温風で勢いよく乾かしていく。何かよく分からないオイルのようなものが塗られ、再び温風がかけられれば髪の毛がさらりとなびいた。店員が両手で広げれば絹のような音を立てて流れる。
    それを手早くまとめ、大きく編み込まれていく。されるがままになっていると、小さな赤い花が咲いた造花が差し込まれた。後ろから大きなが鏡を当てられて反射で見るが、どうにも薔薇らしい。カイザーのイメージであれば青色だが、情熱の国であるから赤い薔薇だった。
    「へえ、いいな」
    ひょいと視界にカイザーが入ってきた。どこかのブティックのものらしい紙袋を提げ、彼自身も服が変わっている。どちらにしろシンプルだが、それが彼の持つ雰囲気とよく似合う。
    そのブティックの袋とともに奥の部屋へと連れて行かれ、着替えるように紙袋を手渡された。え、と戸惑う暇もない。カーテンが目の前で無慈悲に閉められ、出ることはできるが好意を無駄にするのも悪い気がする。
    何より、この汚い服のままでいたらそれはそれで変な心配をされそうだという気もあった。着替えるくらいなら汗をかいたから、とでもなんとでも言える。凛の言い訳の余地を考えてか、入っていたのはシャツ一枚だけ。ズボンはそこまで汚れているわけではないので、着替えなくてもいいらしい。
    汚れた服を隠すための紙袋だろう。ここに置いて帰るわけにも行かず、紙袋に入れて部屋を出る。
    支払いは思った通り、済まされていた。外にいたカイザーの元へと案内され、店員が深々と頭を下げている。はあ、と溜め息をついて隣を見上げた。
    「自分で出せるものは出すと言った。お前にやったのは時間だけで、金を出せとは言ってない」
    「言っただろう。俺も勝手をしただけだ」
    「いくら使ったか言え。返す」
    「いらない」
    「っ、おい!」
    するりと腰元を撫でられ、そのまま歩き出される。速度はやや早いがついて行けないほどではない。喚きながらも向かうところがスタジアムで、凛はもう終わりの時間が来ているのかと頭の片隅が冷静に受け止めていた。だからといってこのままカイザーの、敵チームの人間に必要以上に世話になりたくはない。
    「もう一度か?」
    と言われ、カイザーに顎を掴まれる。親指の先が唇をなぞって凛はそのまま何も言えず、エスコートされるがままスタジアム近くへと歩いた。その頬は赤く、言葉とは裏腹な感情が隠しきれていない。
    夕暮れ特有の長い影が伸びる。カイザーの薄金髪がきらきらと光るように眩しくて目を細めた。
    「もっときちんと礼がしたかった。強引だとお前に言われて躍起になって、子供みたいで言い出せなかったんだ」
    「それなら、そう言えばいいのに。意地、張っちまっただろ」
    大きな影に踏み込めば、もはやそこだけ夜のよう。黄昏の黄金の尾を引きながら、カイザーの金色もすっかりとなりを潜めてしまった。
    もう少し歩けばスタジアムの出入口である。そこで凛は待ち合わせをしていた。カイザーのエスコートも終わり、もうあと少しと足を向ければ、腕を掴まれて止められる。
    影の外縁から反射するようなオレンジが見えた。
    「時の過ぎ去る速さが惜しい。君の温もりは夜に冷えてしまうだろう。だからどうか、俺の元に残して欲しい。この思いに答えて欲しい」
    芝居がかった口調に、揺れる遠浅の海の瞳。自身の左胸に添えられた手は、シャツを握りしめるようにも見える。
    馬鹿にしているのでも、遊んでいるのでもない。凛は知らないが最近流行りの歌劇をもじったもので、ドイツ国内ならば相当の知識人と見られたものだ。
    掴まれた腕を撫でられ、手指が取られる。大切なもののように取り上げられた手の甲に口付けられれば、意図は分からずとも意味は分かる。
    顔が熱い。スペインの熱気と情熱にやられてしまったのではないだろうか。だって凛は、自分自身がこんなにも惚れっぽいなんて思いたくない。
    でも、こんなアプローチは初めてだった。育ちの良い胸や尻ではなく、真っ直ぐ自身を射抜く蒼色に勝てそうにもない。助けられた時点で、もうとっくに撃ち落とされていた。
    「次の試合も俺が勝つ」
    「同じ戦法がレ・アールに通じると思うなよ」
    つい反射的に返したものを、それこそ待っていた言葉のようにカイザーが笑みを深くする。すっと顔を上げたカイザーが凛の頬に唇寄せてリップ音だけを残していく。
    「ははっ、冴の必死な顔なんて初めて見たな! どうやらお前の迎えらしい」
    最後に囁きを残してカイザーが凛から体を離す。惜しみなく立ち去るその背は影から抜けて、斜陽の中に眩んでしまう。後ろに冴が、兄が来ているということを教えてもらったのに振り返ることもなくただ見えなくなるまで見送った。
    「凛!」
    「にいちゃ」
    「その髪は? 服は? あいつに何をされた? クソ、次は必ず足を潰す。いや、それは今はいい。凛、無事か?」
    矢継ぎ早の質問に飲まれる間に、ハンカチが見つからなかった冴がスペイン語で罵りながら凛の頬を指で拭く。
    「俺の凛にキスなんざ百万年早いんだよ……」
    地獄の底から出されるような低い声に、珍しい兄の本気の怒りを感じて凛の肩が小さく跳ねる。頬をこすり揉むようにしているのは、どうやら挨拶代わりのチークキスを本気でしたものと捉えているらしい。早とちりではあるが、あえて凛は訂正せずにおいた。
    「明後日の試合は俺が勝つ。あのクソ薔薇を埋めてやる」
    「サッカーが好きな兄ちゃんはやっぱカッケーな!」
    「俺とあのクソ薔薇野郎なら」
    「え」
    何を言われたのか分からなかったなんてことは言わない。凛の戸惑いは、答える前に一瞬ばかり違う姿がそのまぶたによぎったから。いつもなら迷うことなく即答できるのに、戸惑いを誤魔化すように口の中で兄ちゃんと言った。
    つまり、それが答えである。



    終。
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