グラスを置いたタイミングを見計らうように、真っ赤に塗られた爪が一瞬だけ手首に触れた。
「ねえ。あたくしの宝を奪うつもりはおありかしら?」
花のような香水のにおいを纏った女が爪と同じ色の唇を小さく開く。バーの騒めきにかき消されそうな声がブラッドリーの名を呼んだ。ちらりと視線を向ければ女の魔力が歓喜に揺らぐ。まさに西らしい魔女だった。欲望と好奇心に塗れた赤い瞳が、じっとりとブラッドリーを見つめている。どこぞの賢者の魔法使いを思い起こさせた。
女のやり口は悪くない。余計な言葉を飾り立てない冷静さと、黙ったままブラッドリーの言葉を待っていられる自信を持っている。常ならば遊んでやっても構わないが、今日はここに賢者も来ている。慣れぬ雰囲気に表情を硬くして依頼人の元へと向かった背中を思い返すと頷いてやる気にはならなかった。
グラスに残ったブランデーを飲み干す。女への言葉を紡ぎかけた口からは、言葉に代わりに背後に突然現れた魔力へ向けてのため息が零れた。
賢者を探しに来たのか、ただの気まぐれか。空間の扉をくぐっているであろう赤髪を思い浮かべてげんなりとした。賢者についてきている魔法使いは他にもいるが、この場にはブラッドリーしかいない。この男が何かをするとして、影響を受けるのはブラッドリーだけだ。
仕方なしに振り返ると、無駄に整った相貌がやけに近くにあって驚いた。相変わらず隈の刻まれた顔が微かに歪み、黒く塗られた爪がブラッドリーの肩を掴む。何なんだと口を開く前にぐいっと引き寄せられて面食らった。
「おい、ミスラ」
「これは、俺のものなので」
見上げた緑の瞳はブラッドリーを通り越し、西の魔女を見据えている。言われた台詞を咄嗟には飲み込めなかった。誰が、誰のものだって?
何が楽しいのかころころと笑う女の声を背に、ブラッドリーを抱えたままミスラが空間の扉をくぐる。繋がる先はミスラの自室だと認識したと同時に扉が消えていく。思わず舌を打った。賢者と共にいる魔法使いの中には忌々しい双子もいるのだ。いくらブラッドリーの意志ではないとはいえ、魔法舎にいたのではどう考えても面倒なことになる。
先程の台詞は忘れてやることに決めて、ミスラの腕を振り払った。先程まで空間の扉があった場所を親指で指し示す。
「ミスラ。もう一度」
扉を繋げろ、と告げる前に、胸元にぴたりと大きな手のひらがくっついた。何かを確かめるように黒い爪が上下に動き、何かを呟いた唇が呪文を唱える。あっという間に服が脱がされた。傷の残る素肌に、同じように手のひらが当てられる。
腹が立つより先にため息が零れた。普段から考えの読めない男だが、今は更にひどい。
「てめえは何がしてえんだよ」
「確かめておきたかったので」
「何を」
そう聞いても答えは返らなかった。緑の瞳がじっとブラッドリーの肌を見つめ、指先がゆっくりと肌を滑る。鳩尾を通り過ぎ、腹筋をなぞって、脇腹を撫でて、二の腕を掴む。時折指に魔力が灯るのは何のつもりなのだろうか。
「何か、されたんですか。あの人に」
「……ああ」
ようやく合点がいった。あの西の魔女にブラッドリーが何かをされたと考えて、その魔力の残滓でも探していたんだろう。指に灯った魔力で上書きでもしようとしたのかもしれない。
何を言えばいいのか、何をすればいいのか、咄嗟に選び取れなかった。口を開いて、一度言葉を飲み込み、呪文を唱える。ミスラに脱がされた服を着込んで指先を振り切った。ところどころにこびりついたミスラの魔力に舌打ちをする。
「もう、いいだろ」
「よくないです。まだ終わってないので」
不機嫌そうに顔を歪ませ、ミスラが手を伸ばす。項を掴まれ引き寄せられた。
「あなたは、俺のものなので」
ブラッドリーが告げようとした台詞は全て、飲み込まれて消えてしまった。