失われた時を求めて(中編)*医療の知識のない素人による小説です。疾患・障害に関する記述がありますが、すべてフィクションです。
飛行機のタラップを降り、外の空気を吸うとムッとした東アジアの風が鼻を通り抜けていった。べっとりと蒸し暑い日本の夏。LAのカラッとした陽気とは全く違う。もう腕のあたりがベトベトしてきた気がする。譲介にとって五年ぶりの日本だ。
パスポートコントロールを抜けると、おなじみのコンビニエンスストアの看板が見えた。どこを見回しても日本語。「帰ってきた」と思う。
空港から都心に向かうシャトルバスに乗り、窓際の席を陣取った。ケータイを出して、「圏外」と書いてあるのを見て、SIMカードを入れ替えた。そして、メールの受信フォルダを開いて、神代からのメールを読み返す。
「帰りを待っている」
淡々とした文面だが、読むたびに自分の頬がゆるんでしまうのがわかる。ドクターK。譲介にとってもっとも尊敬し、信頼できる医師だ。彼がN県T村の診療所で待っていてくれるのは心から嬉しい。
その反面。「あの人」のことを考えると、気が重くなった。朝倉はクエイドの力を使って真田の居場所を探してくれた。もしかしたら見つからないかもしれないと思っていたが、杞憂に終わった。朝倉が神代にメールすると、「彼はT村の近くの街に住んでいる」と返ってきたのだ。朝倉は困ったような顔をして譲介に言った。
「今のドクターTETSUの主治医はK先生だそうだ」
頭が真っ白になり「主治医?」と呆然と聞き返すしかなかった。譲介の知っている真田は、基本的には他人の治療を受け入れなかった。かつて、神代の手術を受けたことはあっても、それ以降は一貫して自分で治療計画をたて、投薬をした。譲介に手伝わせることがあっても、誰かに治療の主導権を渡す気はなさそうだった。
真っ青になってしまった譲介に、朝倉は「あのね、そんなに容体は悪くなさそうな口ぶりだったよ?」と慌てて言う。
「K先生からドクターTETSUに和久井君が帰国することを伝えたら、会うことは快諾してくれたらしいし。とにかく、K先生に連絡をして……」
そう言われて、笑顔を作って「そうですね」と答えた。でも、それはうまく笑えていなかったようで、朝倉が肩を抱いて「大丈夫、K先生がついてるんだから。大丈夫だよ」と優しく言った。その言葉に頷いたが、指先が冷たくなり、そのままその場にうずくまってしまいそうだった。
自分が会うと決めたはずなのに、真田のことを考えると憂鬱になる。「あの人が簡単に死ぬわけない」と思う自分と、「死」という言葉がよぎるだけで動揺する自分がいる。末期癌の診断が出てから、彼は何年生きているのだろうか。ずっと生きている気がしていた。医学の知識がどれだけ身について、診断名の重みが理解できても「あの人だけは死なない」という気がしていた。
朝倉は、最後まで帰国に付き添うと言ってくれたが断った。クエイドで責任あるステイタスの医師を、たかだか里帰りにつき合わせるわけにはいかないと思った。いや、今回の帰国を「たいしたことない」と思いたかったのかもしれない。
とにかく、神代の顔がみたかった。なにか言ってほしい。
「死なないですよね?」
ひとりで呟いてみる。真田のことを考えると、自分は医学生でもなんでもなく、ただのひ弱な少年であるような、そんな気持ちに引き戻された。
都心からN県に移動すると、途端に空気が変わった。さらにT村に向かうバスに乗ると、「服装を間違えたな」と思った。ラフな襟付きシャツにジーンズで、そんなにおかしな格好ではないと思っていた。だが、サーモンピンクの布地に小さな椰子の木の柄が入ったシャツは、否が応でも目立った。意図せずに「陽気なアメリカ野郎」を体現してしまった。
「あとでユニクロに行こう」
診療所のみんなに、この格好で会うのは構わない。でも、真田に見られるのは嫌だった。どうせ、からかわれるに決まっている。まあ、そんな元気があれば、だが。「あの人」に会いたいような、会いたくないような、矛盾した気持ちだった。
村ではみんなが大歓迎してくれた。診療所には神代、麻上、一也、宮坂が揃っていた。さっそくイシさんが新作カレーを披露する。東京で仕入れてきたスパイスをふんだんに使ったカレーは、今まで食べたこともない。絶賛すると、珍しくイシさんが照れていた。
一也は、米国のメディカルスクールに興味津々で矢継ぎ早に質問をされた。宮坂が呆れて「今、全部を聞き出さなくてもいいんじゃないの?」と止めに入ったくらいだ。それがなければ、一晩中、質問攻めにされていたことだろう。
平和だった。みんなが元気で、自分を迎え入れてくれる。喜んでいるはずなのに、どこか気もそぞろで、心から笑えていない自分がいる。
「譲介、話しておくことがある」
宴もたけなわの頃、神代にそう切り出されてドキッと心臓が跳ねた。自分が一番聞きたくて、聞きたくないことをこの人は言うつもりだ。覚悟を決めて頷くと、診察室の方に呼ばれた。
ツンとする消毒液の匂いと、見慣れた光景。変わったのは机の上にある巨大なモニターだ。電子カルテや診断画像を鮮明に映すため、最新式の液晶が導入されていた。神代は部屋に入るとすぐに、そのモニターのスイッチを入れた。
「明日、ドクターTETSUに会いに行くと聞いた。間違いないな?」
まっすぐにこちらを見る目。ここに来ると、初学者の頃を思い出してしまう。毎日、ここで神代の後ろに立ち、必死に医療技術を習得しようとした。厳しい声が飛んできて、萎縮しそうになる自分を叱咤激励して、毎日の業務に取り組んだ。
「そのつもりです。メールの返信が来ました」
そう答えると、神代は「そうか」と一瞬視線を逸らし、手元のタブレットを見た。表示されているのは「真田徹郎」という名前。
「俺が主治医ということになっている。本人が、譲介にはカルテを見せていいと言っている」
「どうせ、自分が説明するのが面倒だからでしょう。先に理解しておけということですね」
苦笑して答える。神代からタブレットを手渡されて、治療の経緯と最近の検査結果の数値に目を通していく。モニターには画像写真が拡大して映し出された。
「そんなに悪くないですね……一時期に比べれば良くなっているとも言える……」
思わずそう口走ってしまった。真田の病状については相当厳しい状況を覚悟してきた。あの男が、神代の治療を受け入れるということは、今すぐ命に危険があったからだと想像していた。
「抗がん剤の開発も進んでいるからな。薬剤の効果がうまく出て、数値上は安定しているように見える。ただ、去年肺炎にかかったらしくてな。そんなに酷いものではなく、自己治療をして功を奏したようだ。ただ、静養中に体力が落ちた。本人としてはそれが心理的に堪えたと言ってる」
「あの人が体力が落ちただけで……?」
末期がん状態に陥って凄まじい痛みに襲われても、自分でモルヒネを注射していた人だ。まだ未成年の一也に安楽死を迫ったこともある。もちろん、がん患者にとって肺炎は命に関わる重篤な危険ではあるが、回復したのであればリハビリをするなりなんなりで、体力の取り戻せるはずだ。
「率直に言えば加齢もある。気持ちが弱ったんだろう。俺に連絡をしてきて治療の依頼をした」
「あの人から、先生に? なぜ……だって、あの人は……」
「お前のために決まっているだろう。あの男は譲介が医者になるまでは死ねないと思っているらしいぞ」
譲介は口を開いたまま呆然と立ち尽くしてしまった。神代が「俺は何度も、お前に連絡しろと言った」と苦笑いをする。
「プライドもなにもかもかなぐり捨てて、俺に治療を頼むような勇気があるなら、譲介に一本、電話をかけろと言ったんだ。帰ってきてくれ、と言えばいいだけだからな」
「僕は……帰ってきましたよ? もし、あの人が帰ってきて欲しいというなら、それは、なにもかも捨てても……」
考える前に口からそんな言葉がこぼれた。たしかに、医者になることは夢だ。そのために、アメリカで死に物狂いで勉強してきた。最短コースで医師免許を取るつもりだった。真田にもし何かあれば、自分が治療できるように。
「なんで、僕に言ってくれないんですか? なんで、K先生に……」
そう言いながら唇がワナワナ震える。不遜なことを言っているのはわかる。やっと正式に医学の勉強を始めた譲介と、神代とは次元が違う。真田が神代を選ぶのも当然だとも思う。
「僕が、あの人の主治医に……」
「身内切りになるから、それは許さないと言っていた。どうも、あの男にとって、お前は身内のようだな」
胸の奥がぎゅっと痛くなり、涙が溢れそうになったが、それを見られたくなくて堪えた。「身内切り」とは、外科医が家族や親族の手術をすることだ。「身内切り」は客観性を保てなくなるとして避けられることも多い。だが、真田と譲介はたった3年たらずの同居生活をしただけで、血縁関係はない。それなのに真田は自分を「身内」だと決め込んだ。
「あの男はお前に対して過保護だ」
神代は不満そうにそう言った。たしかに、Kの一族であれば身内であればなんであれ、客観的に手術をすることを要求され、やってのけるだろう。神代が一人を主治医に指名してもなんら違和感はない。だけど、真田はそれを拒絶する。
「あの人、僕の手術はしたじゃないですか? でも、僕には切らせないなんて、そんなの矛盾してる……」
「どうだろうな。あの男は、お前だけではなく、もう誰のことも切るつもりはないようだ」
「え?」と聞き返すと、神代は「俺から言っておいた方がいいだろう」と続ける。
「医者を辞めたつもりはないと言っていたが、いくつかの手術がこっちにまわってきた。特殊な症例というわけでもなかったんだが」
「体力的に難しいということですか?」
「それもあるだろうが……加齢に伴う視力や聴力の低下も大きい。手術には体力はもちろん、集中力や観察力も必要だ。外科医の引退というのは難しい。ただ、俺は、まだドクターTETSUは第一線に十分立てると思っている。でも、本人にその気力がないらしい」
譲介は「そんなの僕の知ってるあの人じゃない」とつぶやいてしまった。
「負けず嫌いで、周りに迷惑をかけてでも自分の意思を通す。わがままで気まぐれで、自分勝手で……」
「根っこのところは変わらないと思うが。大人になったんじゃないか? お前に負担をかけたくなくて、連絡もしないし、主治医にもしない。未成年を拾って勝手に自分に主治医に仕立て上げていた、あの男と同一人物とは思えないな」
神代はそう言うと少し笑って、「会ってくるといい」と言った。
「きっと、お前には相変わらずだ。うるさいぞ。罵倒されるかもしれん」
「そうであってくれたほうが、僕としては安心ですよ……」
譲介はそういうとため息をついた。
真田が住んでいるのは、閑静な住宅街にあるマンションの一階だった。かつては二十七階から、道ゆく人々を見下ろしていた闇医者は、小さな庭のある静かな部屋に住んでいる。もらった住所を頼りに歩いてそのマンションを探していると、生垣の向こうから声がした。
「よぅ、早かったじゃねぇか」
Tシャツにジーンズを履き、手には手袋をはめて、頭には麦わら帽をかぶっている男がこちらを向いている。「嘘でしょ」と思って立ちすくんでしまった。
「オートロックを開けるから、そっちの玄関にまわれよ」
そういうと、額の汗をシャツでぬぐう。まるで、庭仕事に精を出す引退後の爺さんのようだった。
玄関にまわると、彼は帽子や手袋を脱ぎ、新しいTシャツに着替えて、顔をだす。「まだ来ねぇと思ってたから、庭仕事やっててよ」と言いながらドアを開けた。
トレードマークの長い前髪は、少し勢いがなくなってぺたんとなっている。白髪も混じった。顔つきは相変わらず凶暴だが、乾いた肌に、増えたシワが目に入り、「年をとったのだ」と最初に思った。
「あなたが庭仕事をするなんて、思っても見なくて」
「主治医には止められてんだがな。土は雑菌だらけで破傷風に危険が高い。先代のドクターKも抗がん剤治療中に破傷風になったのがきっかけで、死に至ったらしいぞ」
「じゃあ、やめてくださいよ」
呆れたように言うと、「やめろと言われてやめると思うか」とこちらを見てニヤリと笑う。その表情は昔から変わらない。
「俺だって、まさか土いじりが趣味になるとは想像もしてなかったが、やってみると面白いもんだ。どうせ、おめぇは昨日、イシさんのカレー食べたんだろ? そんなかに入ってる茄子は俺が育てた」
「はぁ?……あなた、イシさんのカレーを食べたんですか?」
「俺は重症患者で診療所の常連だからな。終わったら、カレー食って帰る」
「カレー、気をつけてくださいよ。スパイスも油も……」
「うるせぇ。おめぇが説教くさいのは、Kの影響だな。余計なこと覚えてきやがって」
そう言いながら、真田は楽しげだった。信じ難い話だ。ドクターTETSUが、T村の楽しい仲間たちとご飯を食べてる? そんな話は昨日は出なかった。
「具合はどうなんですか?」
「俺のカルテは見たんだろ。なにも隠すつもりはねぇ」
「でも……あなたの主観的な…その、痛みとか……」
「診るか? そのほうが早いだろ」
そう言って、真田はTシャツの裾をぺろっとめくって腹を見せる。挑発的だった。譲介はできるだけ感情を抑えて言った。
「そこ、横になってください」
ソファを指差して言うと、真田は苦笑いして「譲介先生、頼むぜ」と言って寝転がる。ためらいもなくシャツがまくられて、傷跡だらけの肌が剥き出しになる。
「拝見します」
努めて淡々と言い、腹の上に手を置いて触診を進めていく。ざらついていて、あちこちが盛り上がった切り傷のケロイドの残る肌の上で、指を滑らせる。
「相変わらずだな」
低い声が笑いを堪えて言った。
「おめぇ、指先からなにもかも伝わってくる。なにを緊張してるんだ、深呼吸しろ。それじゃ、自分の指の震えでなにもわからんだろ。アメリカで何やってたんだ」
「学生ですよ! 診察なんて五年やってない。ひたすら医学とは関係ない勉強をして……」
そう言いながら、両目から涙が吹き出してしまい、慌てて腕で拭った。それを大きな手に掴まれた。
「なんで泣いてんだよ? あん? 俺が怖いのか? 怒ってねぇぞ」
「怖いに決まってんでしょ! なんで、何も教えてくれなかったんですか?! 僕は、あなたのために……あなたのために、アメリカでっ……」
しゃっくりあげそうになって、いたたまれない気持ちになった。逃げ出したくなって腰を浮かそうとすると、両腕が伸びてきて、抱きすくめられた。
「泣くこたぁ、ないだろ」
とんとんと背中を叩かれて「ちょっ、もう止まらなくなるから、あやさないでください!」と叫ぶ。
「おめぇ、子どもみたいに泣くなあ。アメリカに行って、若返ったのか? 俺は歳とるばっかりだってのにな」
笑いながら言われて「感情を表現できるようになったんですよ」と泣き声で言う。
「僕は良い医者になろうと思って……あなたを支えられるくらいの医者に……だから、セラピーも受けたし、感情を殺すんじゃなくて表現できるように……僕は、あなたにちゃんと……」
必死にしゃっくりあげながら言うと、「そうか、そうか」と笑いながら背中をさすられた。
「これがアメリカ流の感情表現か? 聞いてるこっちが小っ恥ずかしくなるくらい素直だな。たいした変化だよ」
「だって、言わないとわからないから、言わないと……」
「わかった、聞いてる。俺はなんにも変わらねぇ。心配するな」
心の中で「嘘だ!」と思う。これじゃ、優しいお爺ちゃん先生じゃないか。こんな腑抜けた姿は見たくなかった。罵倒して、自分を叱咤激励して、追い返すくらいでちょうどいい。それなのに、鼻が「すん」と鳴って、真田の胸に頭をもたせてしまった。敗北だった。
「俺は末期がん患者だぞ。調子がいいときも悪いときもある。まあ、なんとかやってる。なにしろ、主治医は神代一人だ。おめぇだって、それなら不満はないだろう」
「嫌です……僕が主治医になるまで、あなたは……」
真田はクククと喉を鳴らして笑って、譲介の顔を覗き込んだ。
「これじゃあ、主治医は無理だな」
涙と鼻水でどろどろになった顔で、譲介は真田の腕を掴み、「待っててください」とすがった。
「僕はもっと強くなるから、あなたを支えられるくらい、強く……」
「そんな必要はない」
きっぱりと言われて「でも」と言い募ったが、真田は顔を歪めて「主治医ってのは、距離があるほうがいいんだ」と言う。
「俺は母親を看取ったが、主治医は別の奴に頼んだ。人間はそんな単純に強いとか、弱いとか言えねぇ。おめぇは、あいつにめんどくさい役はやらせて、俺が死んだ時は好きなだけ泣けばいい」
「縁起でもないこと言わないでください!」
「おめぇが、俺の死に水を取ると、宣言したんじゃねぇか。勝手な奴だな」
笑って言う真田をみると、またポロポロと涙がこぼれてしまった。
「さっさと一人で死ぬつもりだったが、生きる理由ができた。責任は取れよ」
こくりと頷くと、「おめぇ、ほんとに子どもみたいだな」と頭を撫でられた。ざまぁなかった。
真田は、譲介からのメールを見て、必要な書類をまとめておいてくれたらしい。何冊ものファイルと、ノートがテーブルの上に重ねられていた。
「俺はライフストーリーワークというのはよく知らねぇが、要するにお前に関する資料があればいいんだろ? これで全部だ」
きちんとまとめられた紙類を見て「こういうところ、マメですよね」とつぶやいてしまう。
「いつか、そういうことを言い出すかもしれねぇと思ってたからな」
あっさり言われると「そう、ですか」と言葉少なになってしまう。ようやく涙は止まって、冷静な自分に戻ってはいるが、さっき泣きじゃくってしまった気まずさは半端ではない。軽口を叩く気にもなれず、黙ってファイルを開いた。
最初に目に飛び込んできたのが、動物虐待事件の資料なので「どっからこんなもの」と口走る。警察関係者しか見れないはずの極秘扱いの資料だ。どれもコピーが取られ、日付が書き込まれていた。金をばら撒いたとはいえ、こんなことができるものなのか。
「あの時代だったからできたことだな。今は電子ファイルになってるから、金を使っても資料の横流しは難しくなっている。もう手に入らないだろうよ。俺がやっておいて良かったな」
堂々と不法行為をについて語られて、「あなたは……」と力なく言う。実際の話、この手の資料は手に入らないだろうと思っていたので、驚きだった。
「精神鑑定書」が出てきたので手を止める。事件のときに精神科医の診察を延々と受けた記憶がある。自分ではうまく誤魔化したと思っていたが、なんと書いてあるのか。指先が冷たくなり、緊張しているのがわかる。それを、ひょいと横から取り上げられた。
「俺が読んでやろうか?」
すぐに奪い返して「見ないでくださいよ」と抗議する。
「俺は、この鑑定書を読んでるに決まってるだろうが。自分で見るのが怖いなら、俺が見て、代わりにおめぇが知りたいところだけ教えてやる」
「ふざけないでください。僕は医者ですよ。どんな結果だって……」
意地になって鑑定書のページをめくる。真田の口ぶりからよっぽど酷いことが書いてあるとは察せられる。字面を追うのは勇気がいるが、平気な顔をして読んだ。
鑑定書を書いた医師は、譲介を真面目に診察したらしい。長々と家族歴と生活歴が書いてある。両親の顔を知らず、養護施設に預けられたこと。施設が合わず転々とし、里親の養育にもつながらなかったこと。施設で職員から性的虐待があったこと。幼い頃は施設の年長者から繰り返し、いじめられていたこと。「困難な幼少期」という単語を見て「意外と、よく知ってるもんだな」と思った。
次のページを開くと、「現在症状」とあり、身体に対する所見と、精神症状の記述がある。実際に当時の譲介の発言が引用され、その分析がなされていた。印字された文字を追うと、当時の譲介は非常に危険な状態にあり、今すぐ入院も含めた治療が必要であると明言されていた。このままいけば凶悪犯罪に加担する可能性もあるとされている。本来なら、譲介は事件後に医療機関への収容されるはずだったことがよくわかる。
「最悪ですね。心の闇を抱えた少年だ。釈放しない方がいい」
自重気味に笑って言うと、ファイルを閉じてテーブルの上に置いた。真田は「そういう話になってたな」とあっさり同意した。
「おめぇは、鑑別所に行ってより詳しい検査を受けて、医療少年院に収容される案もあった。実際に小動物の殺害から、殺人へと移行した少年事件の例もある。おめぇも、その危険はわかるだろ?」
そう言われて「やめてくださいよ、そういう抉り方は」と額にこぶしを当てて苦笑いした。真田は「過去の話だ」と返す。
「だいたいな、おめぇの診断に使われてるナントカ障害の症状の例は、全部俺にも当てはまる。他人の感情に無関心で、些細なことでキレて人間関係をぶち壊し、人を傷つけても罪悪感も持たない。暴力行為を正当化し、平気で嘘をつく。全部、俺じゃねぇか」
「ドヤ顔で言わないでください。この障害、一般社会の人々にはほとんどいないんですが、刑務所の収容者の罹患率が高い。つまり……」
「俺が刑務所にいてもなんの不思議もない。よく考えろ、俺は闇医者なんだぞ? 俺のほうが、おめぇより社会には適応してねぇ」
譲介は「あなたに、そんなこと聞いてないですよ」とため息をつく。
「僕は異常な人間だ」
そうつぶやくと、真田は「くだらねぇこと言うな」と呆れたように言った。
「正常と異常の違いはなんだ? おめぇは医者にその線を引かせるつもりか? 精神鑑定なんかに振り回されやがって」
「医者が支配してるんじゃないですか! あなたが言ったんです。医学は人を支配すると。僕もそうだ、異常の側に分類されて……」
「バカ言うな、医学が支配するってのは、治療するってことだ。おめぇが精神医学で治療されるなら、それは支配されたってことだ。でもな、おめぇを治療すると言い出す医者はいなかった。だから、俺が引き取った」
「はぁ? 専門外でしょ?」
譲介が食ってかかると、真田は「俺は難治例が好きなんだよ、おめぇも知ってるだろ」とニヤッと笑った。
「おめぇが社会に適応できれば、支配成功だ。それを狙った」
「いや、僕が社会に適応できたら、支配じゃなくて、ただの治療成功じゃないですか。しかも無償で僕を引き取って? あなた、言ってることめちゃくちゃですよ」
「そんなことねぇよ。おめぇ、ちっとは勉強しろ。アメリカで何やってんだ。おめぇは教養ってもんがないな」
そういうと、真田は立ち上がって杖をつき、コツコツと音を鳴らしながら歩く。そして、本棚の前で足を止め、分厚い本を抜いた。「ほらよ」と渡された本の表紙にはミシェル・フーコー『狂気の歴史』と書いてあった。
「この本に答えが書いてあるんですか?」
「そんな単純な話じゃねぇ。とにかく、俺は精神鑑定なんかどうでもいい。そういうことだ」
そう言い切られたが、飲み込めないものがあり「でも」と続けた。
「僕は危険人物だった。それは今も変わらないかもしれない。僕なんかが医者になっていいのか……」
「変わっただろ? 今のおめぇが、俺にナイフを振り回してすっ転んで胸にブッ刺すところが想像できるか? 俺はできねぇ」
「そりゃあ、ちょっとは変わったかもしれないですよ?! でも、今も精神的には不安定で……未熟で幼く……だから、さっきみたいに、急に泣き出したりして……」
だんだんと声が小さくなり、言いながら情けなくて涙が出そうになった。こういう自分の弱さはどうやって克服すればいいのかわからない。すぐに動揺し、感情が前に出て冷静に話ができなくなる。そういう自分が恥ずかしく、いたたまれない。
「医者が感情豊かなのは悪いことじゃねぇだろ?」
「だって、あなたはそんなことない。いつも冷静で……」
「俺に足りねぇもんだ。共感能力が欠如し、相手の感情に反応して行動できない」
真面目な顔で真田が言うから、譲介は「そんなことはないでしょう」と真顔で返した。
「いつだって、僕の感情に一番最初に反応してくれたのは、あなただ」
「だったら、おめぇのせいで他人の感情に聡くなった。おめぇの影響を受けたんだろ」
譲介はどうしていいかわからず、「はぁ?」と言いながら笑ったような、泣いたような顔をした。真田の言っていることの意味がわからなかった。
「思春期のガキを引き取ったんだ。保護者の真似事もやった。こっちだって暗中模索だ」
「そんなわけない。あなたは、いつも冷静で、僕を外から観察して……」
「おめぇにそう見えてたなら、俺もよくやったもんだな」
真田が可笑しそうに言うので、「嘘だ!」と言い返した。
「あの頃の僕にはそんなそぶりはみせなかった」
「おめぇが大人になったから、言ってんじゃねえか。すくすく健全に育ちやがって。これじゃ、闇医者は継がせられないな」
真田の笑った顔。目尻の皺が寄っている。ああ、こんな顔をするのか、と思う。
「そうですね、僕は継ぎません。だから、あなたが医者を続けるしかないんですよ」
「しばらく辞めるつもりはねぇがな」
そう言いかけて、彼はテーブルの上に置いていたスマホが震え出したのを手に取った。ちらっと見ると、すぐに電話に出る。なにやら診察の依頼のようですぐに快諾していた。
「ああ、今すぐ来るのがいいだろう。ちょうど助手もいるから都合がいい」
譲介は眉をひそめて「助手って僕ですか?」と横から聞く。真田は電話を切って、「おめぇ以外に誰がいるんだ?」と聞き返した。
「まさか、手術を……」
「ガキのワクチンの接種だ。すぐに一人来るから用意するぞ」
譲介は「子どものワクチン接種?」と聞いて目を丸くした。