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    flowerriddellk2

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    渡米5年後の譲介とテツの再会の続きです。カプ描写はないですが譲テツの人が書いているので閲覧注意です。捏造もりもり、モブが出ます。

    失われた時を求めて(中編その2) 日中の気温はどんどん上がる。外はよく晴れ、蝉の鳴く声が響き渡っていた。ぎらぎらと輝く太陽が、真田の世話をしている庭を照らしている。
     譲介はいまだに受け入れ難い。いくら闘病生活で気が弱ったとはいえ、ドクターTETSUが、庭いじりをして余生を暮らすなんてありえない。
     手元の細かな字で書かれたノートに目を落とす。神代が診療所のカルテを全て電子化しているのに対して、真田は変わらず手書きだった。若い時から全ての治療記録をノートに書き留めている。譲介は高校生の頃、彼の大量のノートを読み込み、頭に叩き込んだ。いまおもえば、非倫理的行為も含む記録で、若者に読ませていいものではない。ひどい医者だと思う。
     一番新しいノートを渡された。一人の少年の記録がつけられている。あさひ学園の小学校五年生の男の子、ユウト。半年ほど前に盲腸で手術をしていた。本人が痛みを隠していたため発見が遅れ、相当ひどい状態だったらしい。そこにある文字を譲介は見つめてはため息をつく。
    「執刀医 神代一人」
     この子は真田の患者だ。もちろん手術には立ち会っている。でも、自分は手を出さなかった。しかも、神代に患者を任せている。その記録が、本人のノートに淡々と綴ってある。
     譲介の知っている真田は、体調が悪いのをおしてでも「俺の患者だ」と最後まで手術を遂行する。そういう医者だった。
     五年。自分が日本を離れてから、あまりにも真田は変わってしまった。譲介は浦島太郎になったようだ。
     横からぬっと手が伸びてきて、譲介からノートを取り上げる。
    「なんで、そんな景気の悪ぃ顔してんだよ? 経過は良好だろ?」
     真田は見たこともないメガネをかけていた。思わず、「視力が?」と聞くと、彼は「老眼鏡だ」と肩をすくめて答えた。
    「すっかりジジィだ。見えねぇし、聞こえねぇ」
    「この子の手術もできないくらい……」
    「やればできるだろうさ。神代は、俺がやるべきだとうるさかったしな。今回の件も、俺に押し付けやがって」
     めんどくさそうな口ぶりとは裏腹に、いそいそと診察器具を並べていた。口笛でも吹いてもおかしくない。こんなに上機嫌な真田は珍しい。
     今の真田の自宅には、以前のような設備の整った診察室はない。簡素な机と診察台があるくらいか。それでもツンとした消毒液の匂いに、無機質な棚や照明器具が、どことなく「病院」の雰囲気を醸し出している。
    「白衣は着ないんですか?」
    「子どもは白衣を見ると怖がるからな」
     あっさりとそう答えられて、二の句が告げなかった。さっき、こっそりと机の引き出しを開くと、ファイルが出てきて子どもたちが書いた絵が丁寧に綴じられていた。家族や動物の絵、なかには真田を描いたものもある。特徴的な前髪だからすぐわかる。横に「テツ先生、ありがとう」と書いてあった。見なかったことにしようと思って、すぐに元に戻した。
    「闇医者はやめたんですね」
    「そうとも言うか。保険診療もやってるしな」
    「はぁ? あなた、レセプトやってるんですか?」
    「よく知らねぇが。村の診療所を手伝ってるときは、保健証がどうのこうの言ってたぞ」
     譲介はめまいがしてきた。たしかに、T村の診療所は、神代の医師免許が認められてから、健康保険の取り扱いを始めた。譲介も、医療事務の手伝いをしていたのでよくわかっている。だが、そこに真田が手伝いに行き、保険の範囲内で治療をしているのは想像の範囲外だった。
    「まさか、あなたが標準医療にのっとって治療ができるとは……」
    「なんだそりゃ。標準医療ってのは、データに基づいて一番効果があると実証された治療法を中心に進める医療だ。そこに乗っからねぇ、難治例の患者が闇医者を求める。闇医者ってのは、常に標準医療の裏をかくんだ。標準医療がわからねぇと、闇医者なんてできねぇぞ」
    「そんなことは知ってます! あなたの助手だったんですから」
     そう言い返すと、真田はクククと笑って「そりゃあそうだな」と言った。
    「じゃあ、今日の患者のユウトくんも難治例なんですか? ワクチン接種ということですが、なにか特異な体質でも?」
    「いや、ワクチン接種を怖がって困っているという相談が、あさひ学園からあっただけだ。しかも、本人曰く接種前に腹が痛くなるらしい」
     譲介は「それは、注射が怖い子どもってことですよね?」と聞き返す。
    「お腹が痛くなるのは、心因反応でしょう。小児科か児童精神科の仕事だと思いますけど」
    「心因性だと鑑別できるのは、ほかの身体疾患がないと確証が得られたあとだ。半年前に手術をしたんだ。なにか関係があってもおかしくはない」
     もっともな話なので、譲介は同意するしかない。真田が、元闇医者でさえなければ、非常に真っ当な医者だと思う。



     しばらくすると、車で若い女性に連れられた男児がやってきた。あさひ学園の職員とユウトだった。ユウトはきっと繊細で気弱な少年なのだろうと勝手に思っていたが、全然違う見かけの子どもが現れた。刈り上げた頭に、下からじっと見上げる暗い目。左の唇が上がり歪んだ笑みを浮かべている。子ども特有の明るい澄んだまなざしはない。ただ、こちらの様子をじっとりと伺っていた。全く可愛くなくて衝撃を受ける。
    「おぅ、よく来たな。こっちだ」
     真田も笑顔のひとつも見せない。まるで大人に接するように少年に声をかける。ユウトは返事もせず、無言で靴を脱いで上がる。ちらりと譲介を見る目は、猜疑心に満ち「お前は誰だ」と睨みつけるようで、険しかった。
    「あの、助手の方ですか?」
     職員の女性がおずおずと譲介に向かって聞くので「ええ、そんなようなものです」と答える。
    「お世話になります。テツ先生からも聞いてるかもしれませんが、難しい子で。虚言癖もあるんです。今度のことも、注射が嫌でお腹が痛いと嘘をついてるんじゃないかと私は疑ってるんですけど……でも、園長先生はテツ先生にお任せするように言われますし、ユウトもテツ先生なら注射されても平気だと言うんで……」
     愚痴のように彼女は譲介に小声で早口で言った。「ご迷惑じゃないかと思うんですが」と彼女がびくびくと聞いてくるので、「あの人は気にしてないし、大丈夫ですよ」と答えた。
    「でも不思議ですね。あの風貌の医者が子どもに好かれるとは思えないんですが。いくら白衣を脱いだところで、でかいし目つきも鋭いし……」
    「ユウトにとっては、命の恩人なんでしょうね。あの子、ずっと盲腸の痛みを我慢して、私たちには隠してたんです。それを見抜いたのがテツ先生で、すぐにT村の診療所をご紹介してくださり、手術を受けてあの子は難を免れました。そういうのは大きいんだと思います」
     譲介は「はぁ、そう言われてみればそうですね」と頷く。だが、T村の神代のほうは、よっぽど顔立ちも優しいし、口調も穏やかだ。ユウトが真田を嫌がって、神代が良いと言うならわかる。年端もいかない子どもが、見るからに凶暴そうなあの医者を指名するというのは奇妙だった。なにか変な薬でも飲ませて懐柔しているのだろうかと疑ってしまう。
     診察室に入ると、少年は丸椅子に座って唇をギュッと噛む。真田は「さてと」と紙のカルテを取り出す。
    「腹が痛ぇらしいな。どんなときに痛む?」
    「注射する日の朝」
    「今も痛ぇか?」
     ユウトは下を向いたまま「ちょっと」とだけ答えた。職員の女性が「毎回なんです」と横から口を出す。
    「注射する日の朝だけ、急に痛い、痛いって言って……」
     真田は彼女をチラッと見て「そうかい」とだけ言うと、診察用のベッドを指差した。
    「そこに上んな。診せてもらうぞ」
     譲介はその言葉で、黙ってさっとベッド横に踏み台を動かして置いた。考えるまでもなく、体が動いた。三つ子の魂百まで、なのかもしれない。ユウトに「こっからのぼりな」と声をかけるが、彼は首を横に振る。
    「いらない、大丈夫。我慢できる」
    「遠慮すんな。いつも診てやってんだから、怖くはねぇだろ?」
    「嘘ついてるかもしれないじゃん。みんな、そう思ってる。俺はほんとは腹が痛くないんだって」
     青ざめた顔を上げると、職員の女性をキッと睨んで「そうでしょ?」と問うた。彼女は動揺した様子で「えっ」とつぶやく。真田はそれを無視して「おめぇは前からそうじゃねぇか」と肩をすくめた。
    「盲腸で腹が痛ぇときには、痛くねぇって言い張ってたぞ。そのせいで、手術することになったんだろうが、おめぇは。今度は痛くねぇのに、痛いって言うのかよ。へそ曲がりな患者だ」
     そう言いながら、ひょいとユウトの脇の下に手を入れて、持ち上げてベッドの上に寝かせる。譲介は「は? 子どもを軽々持ち上げる? まだまだ体力あるじゃないですか」と心の中で思った。ユウトの目がうるっとなって「だって」と泣き出しそうな声が言った。
    「誰も俺の言うことなんて信じてくれねぇ」
    「そんじゃ、信じてやるから正直に答えろ。今は腹は痛ぇのか?」
    「……痛い。すごく痛い……」
     真田は「ククク」と笑って、「最初からそう言やぁいいんだよ」と聴診器を手に取った。譲介は、さっと横に立って「ごめんな、ちょっとめくるよ」とユウトに声をかけた。
     少年の目は真っ赤だった。なにかと闘うみたいに、涙をこらえている。できるだけ優しく「痛いのを我慢してたんだな、頑張ったんだな」と言ってやるが、ぷいと譲介から顔をそらした。真田が「お、泣いてんのか」とからかうように言う。
    「泣いてない! 俺は泣いたりしない!!」
     ユウトが言い返す。真田はこちらをチラッとみて、「この兄ちゃんもさっきまでワンワン泣いてたぞ」と言った。思わぬ矢が飛んできて「はあ?!」と叫んでしまった。
    「あなた、何言い出すんですか?」
    「いいじゃねぇか、本当ことだろ。兄ちゃんは、俺が怖いんだってよ」
     ユウトが目を見開いて「テツ先生は怖くないよ!」と譲介に言ってくる。かあっと顔が熱くなった。絶対に赤面している。
    「優しいよ。怖くないよ」
     真剣に少年に言われ、しどろもどろと「そ、そうかな」と答えた。なぜそんなに真田が優しいと彼が確信を持っているのかわからない。
    「K先生の方が優しいんじゃないかな。君の手術をした先生」
    「え、俺はあの人、なんか怖い。何考えてるかわかんないし」
    「君は、この人の考えてることがわかるの?」
     思わず、真田を指差して聞いてしまった。ユウトはびっくりした顔で「テツ先生はなんも考えてないよ」と答える。
    「顔が怖いだけだよ。言ってることもやってることも、全部優しい」
     真田がまた「ククク」と笑いながら、「顔は怖いのかよ」と肩をすくめる。
    「よし、俺のことは怖くねぇんだから、遠慮なく診せてもらうぞ」
     そう言うと、聴診器の先をユウトのお腹の上にそっと乗せた。たしかに、こうやって見ていると真田は言ってることも、確かにやってることも優しい。顔が凶悪なだけだ。
    「今度は触るぞ。痛ぇか? 痛かったらすぐに言えよ」
     一瞬、ユウトの体がびくりとする。逃げないように抑えながら、「本当にこの子はお腹が痛いんだな」と思う。真田がきちんと耳を傾けなければ、ずっと我慢していたんだろう。ちらっと女性の職員のほうを見ると、彼女は真っ青な顔で呆然と立ち尽くしていた。
    「痛いのはここか? ここが痛ぇか?」
     少年はこくりとうなずいて、顔をこわばらせる。真田はそこをゆっくりとさすって、「悪い病気ではなさそうだな」と言った。
    「手術の後遺症でもない。心配いらないな。あとで、よく治る薬を出してやろう」
    「もう痛くならない?」
    「痛くなったら、また俺が診てやる。すぐに言えよ」
     彼の顔が少しゆるむ。そして、目にみるみると涙がたまって、ぽろぽろとこぼれてきた。真田は少年のお腹をさすりながら「心配しなくていい」ともう一度、淡々と言った。
     診察を終えると、真田の目配せで譲介は注射の準備を進める。言われなくても、さりげなく本人から注射器の見えないように角度を変えた。薬剤を確認すると、ジフテリアと破傷風の予防接種。「たしかに、これはちょっと痛いんだよな」と思う。
     真田はその間に、ユウトを壁向きに座らせて、アルコールで二の腕の消毒を始めていた。なにやらどうでもいいことを言いながら、手際よく少年をおとなしくさせてしまった。子どもの扱いがやたらに上手くて舌を巻く。体で隠しながら、注射器を乗せたスチールのトレイを真田の手元にセットする。そのカチャンいう音だけで、少年の体はびくりとなる。「失敗した、音を立てずにそっと置くべきだった」と反省する。
    「よし、注射も怖くねぇな?」
    「先生は怖くないけど……注射は……」
     真田に目配せされて、譲介は彼の前に立って「じゃあ、こうしてようか」と抱っこするようにかかえて。動かないように保定する。熱い小さな体がこちらに手を回し、ぎゅっとすがってくる。思わず「頑張ろうな?」と囁いた。
     細い腕に針が刺さると、「ひっ」と悲鳴が漏れる。譲介は、背中を軽く撫でて「ちょっとだけ我慢してな」となだめた。真田に目をやると、無表情で注射をうち、さっさと引き抜くと片付けた。相変わらず、怖い顔だった。
    「終わりだ。痛かったか?」
     少年は「痛かったぁ」と小さい声で言った。顔を軽く譲介の服に押し付けてくる。でも、もう泣いてはいない。真田に注射後に小さな絆創膏を貼ってもらいながら、ほっとした顔をしていた。その表情はここに来たときとは、別人のようだった。ずっとこの子は注射が怖くてたまらなかったのだと、やっと理解した。
     ユウトは職員の女性に連れられて、施設に帰って行った。彼女は最後に頭を下げて「申し訳ありませんでした」と謝る。真田はそれには何も言わず、「今度痛がったら、この薬を飲ましてやんな」と紙袋を渡した。それを譲介は後ろに立って見ていた。
     かれらが去ってから、「あの職員、今度からあの子の言うことを信じますかね」とつぶやく。真田は「どうだろうな」と答える。
    「あの施設は昔から人手不足だからな。精神的に不安定な子どもに振り回されることも多いんだろう」
    「でも、最初からあんなふうに虚言だとか、心理的なものだと決めつけたら、身体的な疾患を見逃します。僕があの子の腹痛を心因反応だと思い込んだみたいに……」
    「実際に心因反応だったから、おめぇの見立ては悪くない」
     あっさりそう言われて「は?」と聞き返す。「さっきの薬は?」と問うと「プラセボだ」と返ってきた。
    「盲腸の手術の時に、ずいぶんと痛い治療が続いたからな。医者や処置に対する恐怖心が募って、心因反応が起きてたんだろう。身体的に異常のある所見はなかった」
    「でも、あなた、あの子には心因反応とは……」
    「言う必要あるか? 成人ならともかく、子どもにそんなこと言っても治療的効果はねぇだろ。腹痛が続いて日常生活に支障をきたすなら専門医に送るが、注射が怖いくらいなら、俺が対応する」
     ふつうにそう返されて「そう、ですね」と答えるしかなった。ため息混じりに、椅子に座って「あなたが、そんなに子どもの扱いに慣れてるとは思いませんでした」とつぶやく。
    「おめぇが居たからだろ。同居すればいやでもガキの扱いにはなれるもんだ」
     そう言うと、真田は思い出したように「ククク」と笑った。譲介は耳を疑って「僕のことですか?」と聞いた。
    「僕があなたに引き取られたのは、高校生の時で……」
    「ガキはガキだ。自分からどこそこが痛ぇといってくれりゃあ楽なんだがな。ガキは黙り込んで我慢するから厄介だ。特におめぇらみたいなガキはな……」
    「僕はあなたにそんな……」
     譲介は「そんなに優しくしてもらった記憶はない」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。それは、彼に対して「優しくして欲しかった」と言うみたいだ。
     同時に、ふと頭の中に変なイメージが浮かび上がる。高校生の頃の自分。あの頃、ユウトと同じ目をしていた? そして、ベッドサイドにいる真田の横顔。なんの記憶だ? 混乱しながら、ゆっくりと記憶をたどる。



     高校三年生になり、一也と競い合って医大の受験勉強に励んでいた頃だ。模試が近づくにつれ、だんだんと譲介は胃のあたりがおかしくなってきた。いつもムカムカとして、胃液が上がってくるような気がする。こっそり薬局で市販の胃酸を抑制する薬も買って飲んでみた。それでも、胃がきゅっと痛くなることがある。二日も経つと、食欲もなくなって夕食も手につかなくなった。
     真田にバレたくなかった。ストレスによる胃炎だということは自分でもわかっている。試験のプレッシャーに負けて、体を壊すような弱い人間だと思われたくなかった。部屋にこもって勉強しているふりをして、顔を合わせないように避けていた。
     向こうも仕事が忙しいので、家を空けることが多かった。だから、隠し通せると思っていたのだ。でも、ある夜、吐き気が止まらなくなった。廊下を走ってトイレに行き、吐いた。でも、数日、ろくに食べてないので吐くものもない。何度もえづいて、部屋に戻る。でも、横になるとまた吐き気が込み上げてきた。またトイレに走る。足音を立てないようにしたかったが、その余裕もなかった。便器にしがみつくように崩れ落ち、おえつした。
     後ろでノックする音がする。大丈夫、鍵は閉まっている。息を殺して、知らないふりをしようとした。
    「おい、開けろ。開けねぇと、ドアを蹴破るぞ。俺にとって、そんなこたぁ朝飯前だと、おめぇも知ってるだろ」
     そう低い声で凄まれて、ひっと体がすくむ。そして、のろのろと立ち上がり、鍵を開けた。
    「ひでぇ顔だな。嘔吐か?」
     真田はパジャマ姿だった。薄いブルーに、細い紺の縦縞の入ったかわいいパジャマ。この人は、どんな顔をしてこのパジャマを買ったんだろうか。店の中で手に取って「これにしよう」と思うのか。ぼんやりとそんな光景を夢想してしまう。
     さっと目の下を引っ張られて「貧血、ではなさそうだ」と言われた。間近に彼の顔があり、鋭い目でのぞきこまれて、「すみません」と口走った。
    「謝ることじゃねぇだろ。診てやるから、こっち来い」
     肩を軽く掴まれて促されると、足元がふらつく。それをがっしりした腕に支えられた。
    「なんで、あなたはそんなに強いんですか? スキルス胃がんのくせに」
    「鍛えてるからに決まってんだろ。ほら、しっかりしろ」
     ほとんど抱えられて、廊下をずるずると行く。「気持ち悪い」とつぶやくと、「もう少し我慢しろ」と言われた。急に泣き出したくなったが堪えた。
     診察室のベッドに仰向けに寝転がった。真田は吐瀉物で汚れたスウェットを剥ぎ取ったあと、バスタオルをかけてくれた。前に渡された、思春期の患者の診察技法のテキストに、患者の羞恥心を気遣うことが大切だと書いてあった。こんなことは配慮してくれるんだな、と思う。
    「いつ頃から具合が悪い? 食事は取れてるか?」
     ベッドサイドに立った真田の問診が始まる。もぞもぞと答えを濁そうとすると、「おめぇ、正直に言わないと、麻酔なしで胃カメラ突っ込むぞ? 体に聞いたほうが早いか?」と脅された。仕方なく本当のことを言う。
    「腹を診るから、めくるぞ」
     肌があらわになって、聴診器をあてられる。ゆっくりと丁寧に診察されると、いたたまれない気持ちになって「もういいですよ」と言って、起き上がる。
    「こんなの精神的なものに決まってます。病気なわけない。ほっといてください。寝れば治ります」
    「うるせぇな。患者本人がどうこう言っても、身体疾患の鑑別が先だと教えただろ。心因反応ってのはブラックボックスだからな。先入観がありゃあ、なんでもかんでもそう見えてくる。覚えとけ」
     怖い顔でそう言われて、「横暴だ」とつぶやく。だが、もう抵抗はせず、素直に真田に従うことにした。
     今度は大きな手が腹を触診していく。無骨な手だと思っていたのに、骨張った感触がなく、目を潜めて彼を見る。本当に彼の手か疑わしかった。「なんだよ?」と睨まれた。
     胃の辺りをゆっくりとさすられた。何度も手を添えられると、こわばっていたそこが、少し柔らかくなるのがわかる。優しく撫でられていると、理由もなく涙が盛り上がって、ぽろぽろと流れてしまった。
    「なんで泣く? 痛いか?」
     そう聞かれて首を横に振った。「なんでか、わからないです」と正直に答える。真田は困ったような顔をして「そうか」と頷いた。
    「脱水起こしてるから、点滴してやる。今日はそのまま寝ちまえ。二、三日経ってまだ具合が悪ければ胃カメラで検査だな」
     譲介は、涙が止まらないままでも、掠れ声で「ほら、やっぱり」と言う。
    「心因反応でしょう? 最初から言ったじゃないですか」
    「だとすれば、おめぇは何を気に病んでるんだ。心当たりがあるんだろうな」
     心の中で「しまった」と思う。「特には」と答えを濁そうとするが、またギロリと睨まれた。
    「胃が痛くて泣きじゃくるくらいの悩みって、なんだ?」
     答えたくなくて目を逸らしたい。でも、相変わらず、真田の手は優しくお腹をさすってくれる。鼻の奥がツンとして「どうでもいいことです」と小さい声で言った。
    「吐き出しちまえ。聞かなかったことにしてやるから」
    「……次の模試、また、僕は一也に勝てません」
     思い切って言った。耳が熱くなる。恥ずかしくて目をぎゅっとつぶった。
    「やっても、やっても、勝てない。僕は永遠に一也には勝てないかもしれない。そうしたら、あなたとの約束を守れない。だから、絶対に勝ちたいと思ってるのに……体が言うこときいてくれない。こんなところで寝てる場合じゃない」
     なんて言われるか怖かったが、真田は「おめぇなあ」とつぶやいただけだった。胃の辺りをさすってくれる手は、変わらずずっと優しい。
    「僕はあなたみたいに強くない。勝てないんです、きっとあなたにはこんな惨めな気持ちはわからないけど……」
     低く、聞き取れるかどうかの囁くような声で、彼は「いや、わかる」と言った。
    「おめぇは想像できないだろうが、俺にもお前くらいの歳の頃があったんだ。おめぇの言ってることくらい、わかる」
    「嘘だ、あなたが絶対に勝てないと思う相手なんていない。あのドクターKにすら挑んでいったのに……」
    「兄貴がいたからな。昔の話だ」
     そう言うと、真田は手を止めて、バスタオルと布団を譲介にかけた。「点滴入れるぞ」と何事もなかったように言う。
    「え、なんですか、今の話。お兄さんがいたなんて聞いてない。あのノートの中にも……」
    「忘れろ。たいしたことじゃねぇ」
     腕を掴まれて、アルコールで消毒される。ひんやりとした感触。
    「譲介、自分で自分に呪いをかけるな。勝てない、と口にすれば勝てなくなる。たとえ思っても、勝てると言い続けろ」
    「勝てないとわかってるのに?」
    「おめぇは勝ちたくねえのか? 一也で負けっぱなしでいいのか?」
    「勝ちたいですよ! そんなの決まってる。でも……」
    「だったら、それでいい。勝つと言い続けろ。負けることに慣れるな」
     真田は点滴用の翼状針をつまみ、「入れるぞ」と声をかけた。すっと血管に針が迷いなく入ってくる。なんの感情も伝わらない、落ち着いた手技だった。
    「もう少し早く、自分から胃が痛いと言ってくれりゃあ、俺は助かるんだがな」
     そんな声が聞こえた気がする。そのまま、ストンと眠りに落ちた。もしかすると、抗不安剤でも入れていたのかもしれない。そのまま寝てしまい、起きるとずいぶんと具合はよくなっていた。



     不意に、その高校生の頃の記憶が蘇ってきた。目の前の真田と、記憶の中の真田を比べる。たしかに同一人物だ。
    「あなた、もしかして、僕にものすごく優しかったんですか」
    「なんだよ、気持ち悪いな。ガキだったから当たり前だろ。おめぇはいつも俺に対して不満たらたらで、不機嫌そうにしてたがな」
    「記憶が、飛んでるみたいで……いま、一部を思い出したんですが……」
     真田は一瞬、驚いた顔をして「健忘か」とつぶやいた。そのあと、「気にするなよ」とすぐに付け加えた。
    「脳がおめぇにとって不要な情報だと判断して処理してるんだ。忘れた方がいいってことだ」
    「そんなの……あんまりじゃないですか、あなたがせっかく優しくしてくれたのに……」
    「過去は過去だ。さっさと忘れろ」
     仏頂面で少しも優しい言い方ではない。でも、さっきの記憶の中の真田と重なる。いつも、この人は「忘れろ」と言う。
     ぽろっと口から言葉がこぼれでた。
    「あの子のことは引き取らないんですか?」
     人相の悪い顔がこっちを見て「あぁん?」と聞く。これだけだとヤクザに絡まれてるみたいだ。
    「ちょっと、僕の子どもの頃に似てるかもしれないと思って。そしたら、あなたは、また……」
    「おめぇ、俺にガキの面倒みろってのか? 末期がんの高齢者に無茶言うな。ちっとは休ませろ」
    「僕を引き取ったときだって、もう末期がんだったじゃないですか! あなたは、ああいう、ちょっとかわいそうな子どもを捨ておけないんでしょう」
     そう言うと、珍しく真田が「はぁ?」と本気で困った表情を浮かべた。いつもは余裕をかまして笑ってみせるくせに、こんなときだけ鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。
    「やけに絡んでくるじゃねーか。おめぇも、どっか具合が悪いのか? ちょっと診てやろうか?」
    「こんなときだけ、医者のふりして逃げないでくださいよ。もう一人、拾えばいいじゃないですか! あの子も僕も、あなたにとっては……」
    「俺は、おめぇひとりで十分なんだが……? なんだよ、弟が欲しいのか? いや、そう言う意味じゃねぇか」
     真田は困惑して腕を組み、「やっぱり、熱でもあんじゃねぇか?」とくるりと背を向けて引き出しを開けて体温計を出す。
    「測ってみろ。時差ぼけで、自律神経が乱れてるのかもしれん」
    「違います! そんなんじゃないし……」
    「昔からおめぇは疲れると熱が出るからな」
     「もう! 違うって言ってるでしょう!」と怒りながら、「実家の親ってこんな感じなんだろうか」と思ってしまう。
    「ただ、僕は……僕はあの子が羨ましくて……」
     そう口走ると、居た堪れなくなって言葉に詰まる。真田は間の抜けた顔で「へぇ?」と素っ頓狂な声を出した。顔が真っ赤になるし、逃げ出したい気持ちになった。
     でも、声を絞り出して言った。
    「僕だって、あの子の年頃にあなたに出会っていたら……あんなふうに優しくされていたら、捻じ曲がった人格にならなかったかもしれない。そんなの言い訳かもしれないけど。でも、僕は、もっと早くあなたに……」
     消え入りそうな声でつまりつまりに言うと、真田は「俺はお前が捻じ曲がってるから引き取ったんだぞ」と平然と言い放った。
    「まっすぐな人間に、俺が関わるわけねぇだろ。一也が俺と同居しているところが想像できるか? おめぇ、よく考えろよ」
     真面目な顔で言われて「それは、想像つかないですね」と譲介も我に返って答えた。
    「じゃあ、おめぇ、最初から神代に引き取られたところを想像できるか?」
    「それも、無理ですね」
     即答すると「そういうことだ」と真田は言った。
    「水清くして魚住まず、と言うだろ。俺もおめぇも泥水が似合いの人生よ。クソみたいな親を恨み、社会を憎むしかなかった。そんなかで、人に優しくされた記憶なんぞ、消しちまえ。忘れろ。今を生きればそれでいい」
     そう言い切る横顔。真田は、譲介に向けて話しているというよりは、自分に言い聞かせているようにも見えた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ☺😭💕💕💜💜🙏🙏😭😭😭💜😊😊👏💖💘💞💖🙏🙏💖💖💖💖💖💖💖💖💖😭😭😭🙏🙏💖💖💖💖💖😭😭😭☺🙏😭
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    DOODLE渡米5年後の譲介とテツの再会の続きです。カプ描写はないですが譲テツの人が書いているので閲覧注意です。捏造もりもり、モブが出ます。
    失われた時を求めて(中編その2) 日中の気温はどんどん上がる。外はよく晴れ、蝉の鳴く声が響き渡っていた。ぎらぎらと輝く太陽が、真田の世話をしている庭を照らしている。
     譲介はいまだに受け入れ難い。いくら闘病生活で気が弱ったとはいえ、ドクターTETSUが、庭いじりをして余生を暮らすなんてありえない。
     手元の細かな字で書かれたノートに目を落とす。神代が診療所のカルテを全て電子化しているのに対して、真田は変わらず手書きだった。若い時から全ての治療記録をノートに書き留めている。譲介は高校生の頃、彼の大量のノートを読み込み、頭に叩き込んだ。いまおもえば、非倫理的行為も含む記録で、若者に読ませていいものではない。ひどい医者だと思う。
     一番新しいノートを渡された。一人の少年の記録がつけられている。あさひ学園の小学校五年生の男の子、ユウト。半年ほど前に盲腸で手術をしていた。本人が痛みを隠していたため発見が遅れ、相当ひどい状態だったらしい。そこにある文字を譲介は見つめてはため息をつく。
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