かぞくになろうよ数日前から続いている体の怠さに、書類に走らせていた目をきゅっと閉じてキラはゆっくりと息を吐いた。胃のあたりがずんと重く、食欲は無いし吐き気がする。少し微熱もあるだろうか。症状には心当たりがあって、今の内から対策を練らねばとキラは席を立った。
長く戦場に身を置いていたキラの月の障りは酷く不安定だ。月に二度くることもあれば数ヶ月来ないこともざらにあって、周期は実質読めない上に始まる前の不調も大きい。胃の調子が悪くなって嘔吐するのは珍しくなく、微熱や頭痛にも襲われる。今現在の症状とも合致していて、ああ久しぶりに来るのだ、とキラは気を重くする。酷くなる前に医務室に行って鎮痛剤を貰っておかないと、いざ始まってからでは余計に動くのが億劫になることは間違いなかった。
しかし医務室に行く為に自室を出ようとドアに向かって歩き出した段階で、どこかおかしいとキラは胸元に手をあてて不自然に乱れる呼吸に首を傾げた。目眩が酷く、じわじわと血の気が引いていく感覚に悪寒が走る。つきん、と痛む下腹部はやはり生理前の症状に他ならないのに何かがおかしい。急速に目の前が暗くなって、キラは応接用のソファーの背もたれに手をついて体を支えようとするものの、上手く力の入らない手がふわふわとした材質の上を滑る。
倒れると理解した瞬間、守らなきゃ、と何かが頭の中で囁いた。守る?何を?刹那に自問自答をして、それでもキラは腹を抱えるようにしながら倒れ込み意識を手放した。
「……妊、娠」
たまたま部屋を訪れた隊員に発見され医務室へと運ばれたキラは、医療クルーに告げられた診断結果をそのまま復唱するように口にした。それはキラにとってあまりに現実味に欠ける言葉であり、まだ初期だという下腹部にそっと手を添えてみても当然まだ何の変化も感じられない。
「この事は、誰かに……?」
「勿論まだ准将以外にはお話していません」
「……ではこのまま暫くは、内密に」
キラの言葉に医療クルーはその表情を曇らせた。
「その……お相手の心当たりは」
「……それは……あります。大丈夫です」
流石に准将という高位にある身で可能性は低いものの、戦時中の軍内部では性被害が横行するなど珍しいことではなかった。その心配をしてくれたであろうクルーに苦笑を向けて、それはさておきどうしようとキラはぼんやりと天井を見上げる。
相手は、アスランだ。キラが肉体関係を持っているのはアスランだけだったのでそこに間違いはない。ターミナルでの諜報活動の報告書を持ってミレニアムに乗艦したアスランと久しぶりに体を重ねた時、丁度避妊具を切らしてしまった事があったのでその時の結果だろう。流れすら碌に定まらないこの体で、まさか命を宿すなど思ってもみなかったのだ。
「貧血の症状が強く出ているのでそのケアはできますが、妊娠継続も堕胎も、戦艦の医務室では対応しきれません。勿論その体でモビルスーツに搭乗するのも無理です。何か事情がお有りかもしれませんが、なるべく早くクライン総裁とお相手には相談をした方がいいと思います」
「……わかりました」
点滴を終え、重い足取りのまま自室へと戻る。今は特に流産しやすい時期だから可能な限り安静にしているようにと言い聞かされた通りに、キラは仮眠室のベッドに体を横たえた。
アスランとの子供が、この薄い腹の中に息衝いている。その事実もさることながら、最近はモビルスーツでの出撃の機会が無かった事も既に奇跡と言えるだろう。大気圏に突入する際のGや戦闘時の衝撃は胎児にとって致命的でしかない。これまで生き残ってくれた命を思うと、どうしようもない愛しさが込み上げてくる。
しかしそれと同時に不安も湧く。人工子宮で誕生した体で普通に命を育むことができるのか。もし産んだとしてちゃんと育てられるのか。そして何より、父親にあたるアスランがこの事実を知ったら、何と言うのだろうか。
キラはアスランと曲がりなりにも交際関係にある。いつか世界情勢が落ち着いたら一緒に暮らせたらいいと未来を語り合ったこともある。しかしキラが『最高のコーディネイター』として業を背負っているのと同じように、アスランも自らの出自を疎んでいる節があった。かつて『ザラ派』と称された急進派は未だにプラント内部で密やかに存在していて、実際アスランはパトリック・ザラの息子として何度かそういった勢力に担ぎ上げられそうになった事もあったという。俺はザラの血が疎ましいよ、と思い悩む彼の姿をキラはそばで見てきたのだ。
アスランに望まれないかもしれない、まだ小さな命。そうなった時、自分は一人で守っていけるだろうか。
「……ラクスに、連絡しよう」
まだ答えは出ないけれど、答えが出るまでは確実に守らなければならない。生理休暇ということにすれば一週間程度は軍務を軽くする事くらいはできるだろう。モバイル端末で申請を出し、キラはベッドの上で身を縮めるようにして腹を抱え込んだ。
それからキラの体調は下降の一途を辿り、医療クルーにはもう悪阻が始まっているかもしれないと診断を受けた。吐き気が強く食事も満足に摂れない事もあって、キラは一日の殆どを自室での事務作業に充てている。実際モビルスーツのハンガーに入ると整備用のオイルの臭いが鼻について吐きそうになってしまうのだ。
キラの体調に関する噂はどうやら思いの外広まってしまっていたらしく、アスランがミレニアムへとやってきたのはキラの妊娠が発覚してから一週間後の事だった。自室で書類を広げていたキラにアスランは焦ったような表情で駆け寄った。
「キラ!」
「……アスラン、久しぶり」
「体調を崩してるって聞いて……痩せたな」
「あ、ああ……うん、大丈夫。ちょっと、食あたりっていうか」
妊娠していることをアスランに告げるかどうか、未だに結論は出ていなかった。もし拒絶されたらと思うと怖くて仕方がないし、そうなればアスランとはもう一緒にいることはできない。アスランを選ぶ為に宿った命を切り捨てるような真似はできないという事だけが唯一キラの中で定まっていることだった。いざという時、一人で産んで育てるという覚悟を決めなければならないのだ。
今はまだもう少しだけ、先延ばしにしたい。手元の書類を片付けてキラはアスランにどうにか取り繕った笑顔を向けた。
「何か飲む?コーヒーとか……っ」
「キラ!」
席を立った途端眩暈がして、デスクに手をついてキラは荒い息を吐く。盛大に狼狽えたのはアスランで、問答無用でキラの体を抱え上げると奥の仮眠室へと向かった。
「あ、アスラン!大丈夫だってば!」
「そんな顔色で何言ってる……あと軽い。何キロ減った?」
「……そんなの、いちいち測ってないし」
衣服越しでも伝わってくる体温と、一つになりたかった。そう思ったのは一度ではないのに、いつかいつかと密かに夢見てきた未来はその輪郭すら失いそうになっている。無性に泣きたくなって、キラは息遣いすら震えそうになるのを堪える。
それを見てアスランは眉を顰めた。キラをベッドにそっと降ろし、何かあったか、と気遣わしげに問うてくる。
「水か何か、飲めるか?」
「いい、いらない」
「少しでいいから。ちょっと待ってろ」
そう言って仮眠室を出ていくアスランの背中を見送り、キラはそっと腹に手を添える。君には僕しかいないんだよね、とぽつりと呟いて、揺らぎそうになる心を叱咤する。ちゃんと言わなきゃ。そして彼がどういう選択をしても受け入れなきゃ。そう自らに言い聞かせていたキラの元に、アスランは表情を凍り付かせた状態で戻ってきた。
「……キラ」
「アスラン?どうしたの?」
「……これは、どういう事だ」
アスランの手にはキラのタブレットがあった。そしてその画面に映ったものに、キラの喉がひゅっと音を立てる。
「これは、お前のか」
「ア、アスラ……」
「お前、まさか妊娠しているのか?」
硬い声音に、キラの体が震える。タブレットに表示された、医務室から送られてきた胎児のエコー写真を見てのこの反応は完全にアウトだ。そしてアスランの態度から見てほぼ確実に彼は子供の存在を望んでいないとキラは判断した。
頭の中が真っ白になる。どうしよう。どうしたらいい。目の奥が熱を帯びて、体がぶるぶると震え出す。まるで何かに追い立てられるようにキラは口を動かして、どうにか赦しを乞おうと思いつくままに言葉を吐く。
「ごめっ……君には、めいわくかけない、からっ……」
「……キラ?」
「ぼくが、一人で……産んで、……から……」
「……は?待て、キラ……」
「だからっ……っ、……」
今すぐ堕ろせと言われるのが堪らなく怖い。心臓がばくばくと早鐘を打って、喉が引き攣ってヒュッと音を立てる。息を吸っているはずなのに苦しくなる一方で、じんわりと涙が浮いた。
「キラ!?」
「……っ、ひ、……はっ」
「……キラ、落ち着け。過呼吸を起こしてる。ゆっくり息を吐くんだ」
「はっ、ふ……ひっ……」
「吸うな、息を吐く事に専念するんだ」
「ひっ……ふ、ぅ……」
アスランの片手が背を摩り、もう片手が胸元に添えられる。とん、とん、と一定のリズムで叩かれ、それに合わせろと落ち着いた声音が語りかけてくる。ぼろぼろと涙を溢しながら、キラはこの苦しさから逃れようとどうにかアスランに意識を向けた。手の温もりを追う様に息を吐いていると、やがて引き攣るような息苦しさが和らいでくる。肩で息をするキラの涙と汗をアスランはハンカチで拭って、やがて完全に落ち着いたのを見計らってベッドに寝かしつける。
「大丈夫か」
「……も、大丈夫……ごめん」
「この事、ラクスは知っているのか」
「……まだ、言ってない」
「何故っ……すまない、俺が感情的になっている場合じゃないな」
くしゃりと前髪を掻き上げる様にして頭を抱えたアスランを見て、キラは声を上げて泣きたい気分だった。しかしそんなキラに、アスランは努めて声音を落ち着かせて語りかけた。
「ラクスには俺から話す。カガリにも掛け合って、俺がコンパスに出向させてもらえる様に頼む。だからキラは早くミレニアムから降りろ」
「……どうして?」
「どうしても何もないだろ。ここは戦艦で、いつ戦火に巻き込まれるか分からないんだ。お前とお腹の子に何かあってからじゃ遅いんだぞ?」
「え……え?」
「は?……まさか、堕ろす……のか?」
「え……産んでも、いいの?」
キラが恐る恐る問うと、それに目を剥いたアスランはやがて呆れたように大きく溜息を吐いた。
「……あのなぁ、いくら何でも、キラとの子供が欲しくないんだったらコンドーム無しでセックスしたりしないぞ」
「ほ、しい……の?」
「当たり前だ……キラと、俺の子なんだろう?」
アスランの手がそっと下腹を撫でる。じんわりと染み入ってくる温もりがキラの強張りを解いていって、それと同時にアスランの強張っていた表情もようやく和らいでいく。そしてアスランの瞳にはうっすらと涙の膜が張った。それを呆然と見つめたキラは、へにゃりと眉尻を下げた。
「アスランが泣くの……久しぶりに見る、かも」
「俺だって嬉しかったら涙くらい出るよ」
「嬉しい、んだ」
「……すまない、俺が不安にさせたんだよな。お前が俺に隠して、モビルスーツに乗ったりとか危ない事をしてるんじゃないかって思ったら……居ても立っても居られなくなって」
すまない、と謝罪を重ねたアスランを見て、キラの瞳からまた涙が溢れた。夢ではないだろうか。この身に宿った命は、望まれて生を受けることが出来るのか。ひくっとしゃくり上げて、キラは下腹に添えられたままのアスランの手に自らの手を重ねる。
「お母さんに、なってもいいのかな……」
「いいし、俺のこともお父さんにしてくれ……でもその前に」
「あす……?」
「キラを俺のお嫁さんにしたいんだが」
少し緊張したアスランの面持ちに、一瞬何を言われたのか分からずきょとんとしたキラは、やがてようやく意味を理解して破顔した。