性癖パネル⑧ 接触恐怖症(無印軸♂)事実上ザフトを離反し元は敵対関係にあった戦艦に身を置くことになったアスランは、驚いてしまう程に許されている自由に戸惑いながらリフトグリップを掴んで低重力の廊下を進む。目的地はようやく手を取り合えたかけがえのない幼馴染に与えられている私室だ。いつでも来ていいよと微笑んでくれたその言葉に甘え、落ち着いて昔話でもと手には二人分のドリンクボトルを持っている。そんなアスランにすれ違うアークエンジェルのクルー達は特段嫌な顔などせずに会釈したり手を振ったりしてくれるので、本当にこの戦艦は良い意味で異質だ、とアスランは苦笑を浮かべた。アスラン自身もアークエンジェルで再会したディアッカとの二人部屋を与えられているが、そもそも元敵軍の兵士二人を同室にして何かを画策しようとするとは考えないのだろうかと呆れてしまう程だった。
ナチュラルの戦艦にコーディネイターのキラが一人でいる事が不安で堪らなかったけれど、何の心配もいらなかったと安堵しアスランは辿り着いたキラの部屋のドアをノックする。
「キラ、いるか?」
呼びかけの後もう一度ノックしてみるが室内からの応えはない。途中通りかかったラウンジにも、食堂にもその姿は無かった。一体どこに、と首を傾げたアスランに、近寄ってきた人影が声をかけた。
「あれ、アスラン?」
「えーっと、サイ」
キラがヘリオポリスのカレッジに通っていた頃の学友だというサイ・アーガイルは手に何かの書類が挟まったファイルとツールボックスを持っている。これから格納庫に向かうのだろうかと思いながら、アスランは彼なら何か知っているかもしれないと向き直った。
「キラを知らないか?」
「部屋にいなかったか?」
「ああ、ノックはしてみたんだが」
「あー、じゃあストライク……じゃなかった、フリーダムの中だと思う」
「フリーダムの?」
「キラ、最近殆ど部屋で寝ないんだ」
「……それはいつから?」
「いつだったかな……ストライクが撃墜されて、っあ……なんかごめん」
「いや、こっちこそ」
ストライクに組み付いて自爆したイージスの元パイロットであったアスランにする話ではなかったと思ったのだろう、サイは酷く申し訳なさそうな表情を浮かべている。しかしアスランにとっては最早些事でしかなく、過去よりも今現在のキラの状態の方が気掛かりで仕方なかった。ただでさえ元はただの学生であり軍人としての訓練などした事がないキラには常に強いストレスがかかっているはずで、それが影響している可能性もあったからだ。敵として戦っていたアスラン自身もまたその一因である自覚はあるが、こうしてそばにいる機会を得た以上出来るケアはしていきたい。詳しく話を聞かなければ、とアスランはサイに続きを促した。
「まぁ……その一件でキラがMIAになる前あたりからかな」
「まさかそれからずっとコックピットで寝泊まりしてるのか?」
「そうみたいだよ。ちゃんと部屋で寝ろって皆言うんだけど、アイツ聞かなくてさ……その前からストライクの中で寝る事はあったけど、一切部屋に戻らなくなったのはその頃だと思う」
アスランからも言って聞かせてやってくれよ、と眉尻を下げたサイに了承を示し、もし格納庫に届けるなら請負うとサイの手荷物を受け取る。機密情報にもあたり兼ねない書類をあっさり渡してくれた彼に自ら言い出しておきながら戸惑って、しかしそれもキラの幼馴染として名が知れてしまったせいかもしれないと思うと悪い気はしなかった。
時刻的には深夜が近付いている頃合で、シフト制で動いているクルー達は夜勤の者達に代わり徐々にその数を減らしている。アスランは格納庫に入りサイから預かった書類とツールボックスを目当てのクルーに手渡した。そしてそのまま視線を巡らせたアスランは、トリコロールカラーの機体を見つけてリフトを足蹴にして飛び上がる。作業用の足場や手摺りを使ってコックピットとの距離を一気に詰めると、少しだけ開いているハッチの隙間から求めていた人物の姿を確認し安堵からその肩を撫で下ろした。
キラはコックピットのシートの上で持ち込んだ毛布に包まり寝息を立てている。本当にここで寝泊まりしているのかと眉を顰め、コンソールを操作してハッチを強制開放させるとアスランは隙間から身を滑りこませた。
「キラ」
呼びかけてもキラは微かに瞼を震わせたのみで目覚める気配はない。コックピット内には飲みかけの飲料ボトルやレーションの包みも散乱し、ミーティングや出撃が無い時には殆どこのコックピット内で過ごしていると言われても納得できてしまうような状態だった。
アスランはキラの様子をじっと観察する。あまり顔色が良いとは言えず、目の下には薄らと隈もある。こんな場所では体も休まらないだろうと断じたアスランは、キラの体を抱えてでも部屋に連れ帰ろうと手を伸ばした。その時、小さく呻いたキラの瞼がゆっくりと押し上がる。虚ろなアメジストが焦点を結んだ刹那、ひっとキラの喉が引き攣れたような音を漏らした。
「キラ、起き……」
「さ、わら、ないでっ……!」
「……っ、キラ?」
悲鳴のような拒絶の声がアスランの耳を劈いた。狭いコックピットの中、それでも逃げ場を求めるように身を捩ったキラにアスランは絶句して、伸ばしかけた手を思わず引っ込める。
「や、だっ……こないで、いやっ……」
「キラ!どうしたんだ、キラ!」
恐慌状態にあるらしいキラはがくがくと体を震わせ、その瞳には涙を蓄えている。呼吸は徐々に浅く早くなり、苦しそうに胸元を押さえている。
さわらないで、と叫んだキラが何より恐れているのは接触なのだろうと、アスランは一度ハッチの外側へと体を出してキラとの距離を取り、キラ、となるべく柔らかな声音でその名を呼ぶ。根気強くそれを繰り返しているとそれでようやくキラは我に返ったのか、その瞳にアスランを映した。
「ア、スラ……?」
「ああ、俺だ……その、大丈夫か?」
「……っ、ご、め……寝ぼけて、た……」
どうにか笑みを取り繕おうとして口元を歪めたキラの顔は酷く青褪めていて、掻き抱いた体は未だがたがたと震えたままだ。どう見てもただ寝ぼけていたとは言えない、尋常ではない様子にアスランは眉を顰める。
「落ち着いて、キラ」
「……っ、は……だい、じょ……」
「お前が嫌がることはしない。触られたくないなら、触らないから」
「……っ!」
どうして、と色の失せた唇が動いた。
「俺と二人きりなのは、怖いか?」
アスランの言葉にキラは戸惑った様子で、それでも首を横に振った。
「話が、したい。部屋には戻れるか?」
その問いには先程とは違いぶんぶんと首を振って強い拒否反応を示した。部屋に戻りたくない理由があるのかもしれないと考えながら、アスランはキラに決して触れないよう細心の注意を払いながら再びコックピットに体を捩じ込む。キラは怯えるような表情こそ浮かべたままだが、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながらアスランの体が入り切ったのを確認してコンソールを操作してハッチを閉めた。
薄暗いコックピットの中、コンソールが放つぼんやりとした灯りだけがキラを照らしている。泣き濡れたような瞳には憔悴が色濃く表れていた。
「ごめん、ね……アスラン」
「うん?」
「もうすぐ、落ち着く、から……誰にも言わないで」
「誰にもって……まさかラミアス艦長やサイ達も知らないのか?」
アスランの問いにキラは力無く首肯する。確かにサイですら、部屋に戻らないということしか異変としては勘づいていない様子だった。
「いつから?」
「……?」
「怖いのは、俺だけ?」
「……っ、ちが……本当に、大丈夫……ちゃんと、落ち着けば……平気だから」
「平気って……」
「ほら、見て……大丈夫、だよ」
そう言ってキラは小さく息を吐いた後、アスランが握りしめていた拳に自らの手でそっと触れた。指の先まで冷えきった手はやはり震えていて、キラの表情からは血の気が失われていく。接触に対する強い恐怖症と、その改善を試みる為の認知行動療法と見て間違いないだろう。そしてキラがその状態に陥る程の何かしらの強いストレスがあったはずだ。部屋に帰りたがらないのもそのせいで、恐らくその強いストレスがかかった場所が部屋だとみて間違いないだろうとアスランは推測した。
「何があった」
「……」
「俺には言いたくないか?」
「アスラ、……」
「お前と殺し合った俺が何を言うんだって思うかもしれない……でも、またこうやって話せるから……キラの助けに俺はなりたい」
アスランの切実な訴えに、やや暫く黙り込んでいたキラはやがて絶対に誰にも言わないでと改めて前置きしてからぽつりぽつりと顛末を話し出した。
冷静にならなければ、と何度もアスランは自らに言い聞かせた。キラを怖がらせないように。それでも、その自制すら簡単に崩壊させてしまいそうな、吐き気すら催す程の怒りにアスランは戦慄いた。
「……なんだ、それは」
「その人達は僕が君との戦闘でMIAになってる間に転属になったって……だからこの艦にはもういないし、探し出してどうにかしたいって気持ちもない」
だからもういいんだ、と言う無理に取り繕ったような笑顔に、アスランの思考が沸騰する。感情が完全にコントロールを失って、声が震えた。
「いいわけ、ないだろ」
「軍ではよくある事だって言ってた。僕は男だし、別に」
「いいわけないだろ!」
「……っ」
「それでお前が今、苦しんでるのに!」
裏切り者のコーディネイターと罵られ、間違っても敵軍に寝返るような気迷いなど起こさないよう暴かれた体に耐え難い恐怖を何度も何度も植えつけられ、逆らえば次にこんな目に会うのはお前の友人だと脅されて。そうしてキラの心は壊れていったのだろう。ナチュラルの戦艦でも優しいクルーや友人達に囲まれて過ごせていたと一瞬でも安堵した自分自身に腹が立って、奥歯がぎりぎりと軋んだ音を立てる。
「アスランは……やっぱり、優しいね」
昔から変わってないや、とキラはシートに背を預けて力無い笑みを浮かべた。痛ましい姿になんと声をかけていいのか迷いあぐねて口を噤んだアスランに、そっっと息を吐いたキラはまるで意を決したようにアスランを見つめた。
「アスラン……お願い、してもいい?」
「何でもする。俺がしてやれることなら、何だって……」
「君は、僕を抱ける?」
「……っ……は?」
「僕を可哀想とか思ってくれるなら……上書きして欲しいんだ、君に」
上書きという言葉の意味を必死に噛み砕いて理解しなければないのに。不安そうな顔をしている彼に何か言葉を返さなければならないのに。頭では分かっていても、アスランは呼吸の仕方すら忘れる程にその泣き濡れたアメジストに目を奪われていた。