ふう、と熱いココアの表面に息を吹きかけながら、ウォッカは勉強道具の何も乗っていないテーブルの上を眺め、もうすぐ高校生活が終わる事を実感していた。
本日は土曜日。ウォッカが成人してから毎週続いている、勉強会という名目のジン宅でのお泊まり会の日だ。それが名目上でない事は最初の日にジンに叩き込まれた。ウォッカはてっきりデートに行って身体を重ねる事が目的の勉強会だと思っていたから、リビングのローテーブルの前のラグに座らされ、これを解いてみろとジンの過去受けたテストを出されて仰天したものだ。
ジンは容赦がなかった。ウォッカの出来がそう良いものでないと気づくや否や、きっちりと学習計画を立ててウォッカに履修させた。お陰で三ヶ月という短い期間でウォッカは第一志望の大学の合格判定Aになったし、試験の自己採点の結果からも合格は間違いないだろうという状況だ。だからこう呑気にココアなんか啜っていられるのだが。
ちら、とラグに座り込んだままのウォッカは、自分が背を預けているソファに腰かけて膝上のパソコンを睨むジンを盗み見た。今日は会社の方で何かトラブルがあったのか、ずっとパソコンと睨み合って何かを打ったり電話をかけたりと忙しくしている。しかし心配する事はない。何といってもジンは合格の怪しかった大学に受かるほどの学力向上と、その上で毎週きっちりウォッカを抱く時間を捻出できた男だ。変な所で信頼が高まってしまっている。
もう少しだけ待ってろとの言葉と共に渡されたココアをちびちびと飲みながら、ウォッカは勉強予定のない今日、これから何をするのだろうとぼやぼや考えた。昼間から事に及ぶというのは初めての時以来した事はないが(何せ夜まで勉強三昧だった)、今日は有り得るかもしれない。期待は常にあるので既に準備はしてきてある。ジンさえフリーになればウォッカから誘うのだってやぶさかではない。
「……よし、間に合ったな」
「間に……え、兄貴、予定あるんですかい?」
ジンがようやくパソコンを閉じたと思ったのに、後が詰まっているという言い種にウォッカはきょとんと聞き返した。どこかに出かけるならジンは大抵数日前には伝えてきていたはずだが、今日は全く何も聞いていなかった。昼ごはんは既に出前で頼んで食べた所だし、一体何の予定なのか見当もつかない。
「ああ、お前のお袋さんに話があってな。三時に家に行く事になってる」
「えっ!? なんですかいそれ、聞いてやせんぜ?」
ジンとウォッカの母親が連絡先を交換している事は勿論ウォッカも知っている。だが自分の知らない所で話が進むのは妙な怖さがあった。
「本当は昼前にお前ん家に行く予定だったんだが、昨日の夜からゴタついちまってな、時間変えてもらったんだ」
「そうなんだぁ……じゃねェですよ兄貴! どうしてそう俺にも事後承諾なんですかい!?」
ウォッカの抗議は真っ当なもののはずだ。だというのにジンはふん、と嘆息してみせる。
「じゃあ訊くが、お前が大学入ったら一緒に住みてぇって話をするつもりだって聞いて、お前はお袋さんの前で普通に振る舞えんのか?」
「……?」
ウォッカは少しの間話が理解できずに固まった。一緒に、住む、とは。とネット社会に染まった頭が勝手にカチリと検索する様を描いた。勿論ウォッカの脳みそはインターネットではないので答えは出ず、しかし数秒ほど止まっていた脳が動き出してやっと理解した。理解したウォッカが叫ぶより早く、ジンが恐ろしい眼光でもってウォッカを制した。
「テメェ先週自分が言った事も覚えてねェのか」
「え……先週、」
ウォッカは冷や汗をかきながら頭をフル回転させて先週ジンとした会話を浚った。そういえば一緒に暮らすというキーワードに聞き覚えがある。
記憶力自体には自信のあるウォッカの脳裏に、これだという会話が甦った。
『兄貴ん家は暖かくていいですねぇ……俺もここに住みてぇや』
『部屋は余ってる。高校卒業したら住んでも構わねぇぜ』
『ほんとですかい? じゃあ兄貴と一緒に住んじまおうかなァ、へへへ』
『そいつは楽しみだ……』
ただの雑談であり軽口だ。少なくともウォッカはそう思っていた。だってまさか、あんなぽろっと言っただけの言葉で同棲が決まっているなんて思わないだろう。安アパートで暖房の効きにくい自宅に比べてジンの家が住み着きたいほど暖かくて魅力的だという、ちょっとした褒め言葉くらいのつもりだったのに。
「ほ、ほんとに……俺、兄貴と一緒に住んでもいいんですかい?」
「元からそのつもりだったさ。合格発表を待つつもりだったが、お前の方からここに住みてェと言ったんだ。早めに話通しといた方がいいだろう」
ウォッカは喜びのあまり踊り出しそうになった。ジンと同棲という響き自体も嬉しかったが、何よりジンとずっと一緒にいられるというのが一番嬉しい。思わず目の前にあるジンの足に抱きついた。
「兄貴、大好きですぜ」
顔面中に喜色を浮かべたままウォッカが見上げると、ジンはウォッカの脇に両手を差し込み強引に持ち上げた。ウォッカは着々とウエイトを増やしているのに相変わらずの腕力だ。
膝の上に乗せたウォッカを腕に抱き込んだジンは、自身の肩口にウォッカの顔面を押さえつけるようにして、その長い腕ですっかり閉じ込めた。
「これからお前の家に行こうってのに……あんまり可愛い事するんじゃねえよ。襲いたくなっちまうだろうが」
「っ」
体勢が体勢なので必然的に耳元で囁かれる形になって、ウォッカはその腰に響く重低音にぴくりと肩を揺らした。ずっと期待していた身体に火が点りそうになって、思わずジンの広い肩に頭を擦り付ける。すっかり慣れたジンの薄い体臭と煙草の香りが鼻腔に広がり、これでは逆効果だとウォッカは断腸の思いで顔を上げた。至近距離でジンと目が合う。
「……クソ、物欲しそうな面してんじゃねェよ」
一瞬顔が近づいてキスでもするかと思ったが、ジンは悪態をつくとウォッカを横に下ろし、そのままソファから立ち上がった。
「兄貴?」
「……手土産でも買ってくか。ここにいたら抑えが利かなくなりそうだ」
それについてはウォッカも全面同意だったので、ジンに倣ってソファから降りた。ジーパン越しに股ぐらを確認して兆していない事を確認してから、煙草に火をつけつつ外出の用意を始めたジンを追いかける。
これから母親にする話を考えても、ウォッカは少しも動揺していなかった。問題も心配もないな、とあっさり断じ、ウォッカは手土産を何にしようかな、などと呑気に考え始めた。
その瞬間の自分を殴りたい、とウォッカはたった一時間少々過去の己を呪った。
手土産にするお菓子を見にケーキ屋に行って選んでいる間も、ウォッカの家に着くまでの車内でも、ウォッカは全く緊張も何も感じていなかった。それなのに自宅に着いて母親の顔を見た途端、ウォッカはこれからジンが自分と一緒に住みたいという話をするのだと意識してしまって、どうしようもないほどの緊張と羞恥で固まってしまった。
一緒に住むというのがただ同居するという意味ではなく、セックスもして恋人と同棲するという意味だとウォッカは知ってしまっている。母親にそれは言わないにしても、どうしても決まり悪さは拭えなかった。
ジンはそれ見ろと言わんばかりにウォッカを横目で睨み、母親に手土産を渡してさっさと部屋に上がっていった。ウォッカはもたもたと靴を脱いで、時間を稼ぎつつ追いかける。丸い卓袱台の窓に近い方にもうジンは座っていて、母親はお茶を用意しているのかそこにいなかった。
「さっさと座れ。余計な事を言うんじゃねえぞ」
「へ、へい」
ウォッカが用意された座布団の上につい正座すると、ジンはチッ、と鋭く舌を打った。
「普通に座れ」
「す、すいやせん」
自分がどうしてここまで動揺しているのか、ウォッカ自身にも分からなかった。記憶を引っ張り出してきても、ウォッカは前世でも今世でも母親と恋人に関する話をした事はないように思う。前例がないので断定はできないが、親とそういう話をするのは羞恥を感じるものなのかもしれない、とウォッカは自分を納得させた。胡座で座り、やや俯き加減にして表情を分かりにくくしておく。
「お待たせ」
台所から急須と湯飲みをお盆に乗せた母親が出てきた。ポットもお茶請けも卓袱台の横と上にもう置いてある。手早くお茶を淹れた母親は、寒かったでしょう、というありきたりな話題から始めた。
ウォッカが何かを言うより先にジンが会話をしてくれるので、有り難く目の前のお茶を啜ってウォッカは無言を貫いた。気を抜くとニヤニヤと顔が緩んでしまいそうだった。
いくつかのやり取りを終えたあと、母親は遂に核心に触れた。
「それで、お話って?」
きた、とウォッカは背筋を伸ばそうとして、慌てて静止した。ウォッカがかしこまり始めたら母親は不審がるだろう。安い茶葉の緑色の水面とジンの顔を視線だけで行ったり来たりしながら、ウォッカは平常心平常心と自分に言い聞かせた。
「それなんですが、三郎が大学に受かったら、よければ俺の家に一緒に住んで貰えないかと思ってまして……」
「陣くんのお家に?」
「ええ、家の方がどの大学にも近いですし、部屋も幾つか余ってますから。それに……昔から一人暮らししているようなものだったので、家に三郎がいてくれるのが嬉しいんです」
「あら」
「えっ、そうだったんですかい?」
思わず口を挟んでからウォッカはしまったと唇を掌で押さえた。ジンは生い立ちなどを話してくれる事がほとんどなかったので、これはウォッカだけのせいとは言えない。ちらりと冷や汗をかくウォッカを見やったジンは、ふ、とウォッカにだけ分かるように溜め息を吐いた。
「そういや言ってなかったか。親父は忙しい人だからな。会社に泊まり込んだり、帰ってきても夜中だったりしたから、一人で暮らしてるみたいなモンだったんだ。小学校にあがる前に母親は亡くなっちまったからな」
「まあ……」
「あ、兄貴……」
一人寂しく暮らす幼いジンを想像して思わずウォッカは涙ぐんだ。母親も同じような顔をしている。少し居心地悪そうに身動ぎしたジンは、一度湯飲みを手に取って軽く唇を湿らせた。
「三郎も家を気に入ってくれているし、悪い話じゃないと思うんですが……」
「うう、母ちゃん、俺兄貴の家に住んでもいいだろ?」
「そうね、あんたみたいなのでもいるだけで賑やかしにはなるだろうし、陣くんさえよかったら好きにしてちょうだい」
「ありがとうございます」
母親に酷い言われようをされた気もするが、ウォッカは袖で涙を拭うのを優先して聞かなかった事にした。何はともあれ目的は果たされたのだ。
「それにしても、三郎ももう成人なんだから勝手にやったっていいのに、ちゃんと私に話を通す所が本当に律儀よねぇ、陣くん」
「成人とはいえまだ学生ですし……半端な事をしてお母さんに心配をかけたくないので」
お母さん、という響きにウォッカはちょっとドキリとした。最初は『三郎くんのお母さん』と呼んでいたジンだったが、最近は端折って『お母さん』とだけ呼ぶ。何だか本当の家族になったみたいだ、とそわそわするウォッカを余所に、母親はあらぁ、と語尾にハートが付きそうな声を出した。
「陣くんのお母さんって呼び方本当に良いわ。三郎が女の子だったら陣くんを婿に貰って毎日呼んでもらえたのにねぇ」
「っ、ちょっ、母ちゃ、何言って……!」
爆弾発言に慌てたウォッカは、母親を制止しようと身を乗り出し、見事に卓袱台の上の湯飲みを倒した。半分ほど残っていた煎茶が机の上を広がっていく。
「わ、うわ」
「ちょっと何やってるの、もう。タオル持ってくるから下落ちないようにしてて」
近場にあったティッシュで畳への被害だけは避けようと必死に押さえるウォッカの頬に、横からジンの指の背が軽く触れた。
「動揺しすぎだ。お前首まで赤くなってるぜ」
母親のとんでもない発言と湯飲みを倒した失敗で二重に恥ずかしいウォッカは、囁くようなからかいに反応もできずに黙り込んだ。
それから用事も済んだ事だしと家を出るまで、ウォッカは一言も喋らない事で母親への抗議とした。
ニコニコ送り出されたので、たぶん伝わらなかったとは思う。
再度ジンの家に向かう車中でどうにか復活したウォッカは、さっき聞いたジンの話をもう少し詳しく教えてもらおうと口を開いた。
「兄貴、さっき言ってた……あの、お父さんがあんまりいなかったって、」
「ああ、別に嘘は言っちゃいねぇがな。土日どっちかは必ず休みにしてどこかに連れて行ってくれたし、俺も親父と一緒に会社に泊まる事も多かったから、別に寂しく過ごしたって訳でもねぇよ」
「……え?」
ウォッカはポカンと口を開けたまま固まった。一人の部屋で膝を抱えて父親を待つ幼いジンのイメージが崩れ落ちていく。
「通いの家政婦もいたしな」
「ええええええ!」
「うるせェ」
「すいやせ、いやっ、だって! 兄貴……」
聞いた話と違うとウォッカが詰め寄ると、ジンは面倒くさそうに顔を顰めて煙草を取り出した。ジッポで火をつけて深く一服する。馴染んだ紫煙の香りが車中に広がった。
「お前の様子がおかしかったから助け船出してやったんだろうが」
「助け船? どういうことですかい?」
「……自分で考えろ」
「ええ、そんな、兄貴ぃ」
「これだけは言っとくが、俺は嘘は吐いてねぇからな」
二度言ったという事はジンは本当に嘘は言わずにわざと誤解させたのだろう。多くを語らない事で寂しい幼少期を送ったと勘違いさせて、とそこまで考えてウォッカは気づいた。情に訴えて手っ取り早く母親から同居の許可を取り、ウォッカの緊張を紛らわしたのだ。ジンが珍しく居心地悪そうにしていたのは、恐らく想定したより二人の反応がよすぎたからだろう。
ちら、とジンの横顔を確認するが正解は教えてくれなかった。ただ、ウォッカが間違っている時は大体察して訂正してくれるので、何も言わないという事は合ってるという事だろう。ウォッカは納得する事にした。
あっさり騙された事に少しの悔しさも感じるが、ジンが寂しい思いをしていないならその方がいい。
安堵したウォッカはすっかり忘れていた。
ジンが嘘を言っていないという事は、『家に三郎がいてくれるのが嬉しい』という言葉も本心だという事を。
ウォッカがそれを思い出したのは、その夜のベッドの上での事だった。抱き合ってキスしたジンを見て唐突にそれを思い出したウォッカは、嬉しさと恥ずかしさで酷く乱れてしまい、ジンに求められるまま何でも応えてしまった。
その夜の事は、あまり思い出したくない。