イサ+ヒス『知らない部屋』 ある日、ヒースクリフが風邪をひいた。
憂鬱大罪から水鉄砲という名の集中攻撃を受けた後で断首魚の討伐に挑んだのが原因になったのか、鏡ダンジョンから帰還した日の夜に熱を出してしまった。
寒気がすげぇくしゃみが止まんねぇと愚痴るくせに、部屋へ戻るのを渋るヒースクリフの元へ「ファウストという天才に風邪をうつした場合、どのように責任をとりますか?」と鋭い一言がとんできたことで、完治するまで部屋に引きこもる宣言をようやく本人から引き出せたのである。
渋々といった足取りで戻る直前、腹が減ったら勝手に食うからと言い残し、彼はドアの向こうへ消えていった。
「ヒースクリフさん、あれから全然出てきませんよね…」
「うむ、夕食も朝食も食べにこなかったな」
両眉を八の字に曲げたシンクレアとドンキホーテがそれぞれ囁いている隣でイサンも首を縦に振る。
「悪しこそ食はひしと取るべけれ…」
一度でも集中し始めるとつい食事を疎かにしがちな人が言う言葉ではないだろうとシンクレアはツッコミを入れそうになるが、言いたいことは分かるので心の中に留めておいた。
「そうですね…看病は必要ないと言ってはいましたが、そろそろ食事ぐらいは届けに行かないとやばい気がします」
「ふむ……ここは私が行かせさせむ」
とイサンは迷わず挙手した。
突然の挙手に面食らったシンクレアは、本人が看病を拒否しているのに部屋へ押し入っては怒られるだけですとさっきとは真逆の意見を唱え、どうかにして止めようとする。
しかし、昨晩から続けて飲食を断ってる状態のまま放っておくわけにはいかないとドンキホーテが挙げた正論には勝てず、結局イサンの希望通りに看病の案が決定された。
いつ思い返しても、生まれや育ちについての詳しい情報を本人の口から聞いたことがあまりない。
それどころが、酒による酔いでどんなに気分を良くしても、人から聞かれると高確率で顔をしかめては口を閉ざしてしまうので、イサン以外の囚人もほとんど知らない方であった。
グレゴールやシンクレアがそうだったように、故郷に関する情報そのものがトラウマとして心の奥深くまで根付いてしまっている可能性も高いので、好奇心に任せて聞きまくっては逆に信頼を失う恐れもあるというのが今の答えだ。
己の経験や優れた観察力を活かした戦闘に状況を突破するための閃きなど、どこでどう培ってきたか?と色々興味を引くような面をいっぱい持っている"朋"だけど、一から全て聞くよりは機会を見つけては少しずつ聞く姿勢で進んでいこうとイサンは考えていた。いつかは古傷についても聞きたいものだ。
ホカホカと湯気が立った粥に水が入ったポットを載せたトレーを持ったイサンは、ヒースクリフがいると思われる部屋へ繋がるドアの前に立っていた。
風邪といえば温かいスープが恋しくなる頃だろうと何人かが言っていたが、自分が暮らしていた巣では粥が定番だったので、鶏肉が入ったレトルト粥を持っていくことにした。肉料理を好む彼なら喜んでくれるはず。
ヒースクリフ君、と名前を呼んでからコン、コンと数回ノックする。
しかし返事はなく、ドアノブをひねる音も聞こえない。
聞こえないといえば、ドア前を横切るたびに聞こえていた雷の音が今は聞こえないのに気づいた彼は、むむっ…と短く唸る。
ヒースクリフ君は風邪をひきたれば今は寝込めるに違ひなし。
自分に言い聞かせるように心の中で呟いてから、もう一度ドアをノックするけれど反応は返ってこなかった。
試しにドアノブを捻るとドアの隙間から雨音が聞こえた。
それはヒースクリフの部屋に繋がった証であり、彼が入室を許した証でもあるのに嬉しくなり、自然と口角が上がる。
しかし、部屋に入った途端、嬉々とした気持ちは疑問へと切り替わった。
はて、此処はヒースクリフ君の室なべき。
イサンを迎えたのは白い壁紙に濃い茶色のフローリング床の綺麗な部屋で、失礼なのは承知の上であの独房に近い部屋とは正反対の印象を受けた。
戸惑い半分、好奇心半分で、よく観察しようと黒い瞳だけをぐるりと動かす。
鉄格子の窓越しに見えるのは、青みのかかった灰色の雲で覆われた空に黒いシルエット程度にしか捉えることのできない島らしき存在。
続いて、耳をすませると壁を叩く雨粒の音が鼓膜を震わせた。大音量の落雷がドア越しに聞こえることが多かったイサンにとって、ざぁぁぁぁ…と降り注がれる音は逆に静かだと感じた。
そして、壁に沿うように設置された大きめの本棚には、本が一冊もしまわれていないのがなんとも勿体無い気分にさせ、寂しい気持ちにもさせる。
他にも、引き出しがついた木のテーブルにクッション付きのチェアも置かれているが、やはり本も筆記用具も何もない。
それでも勉強を嫌がる言動が多い彼にしては珍しい家具が並んでいるとイサンは考える。
だが、得た情報を元に調査を進める任務が主なセブン協会の人格との適正が高いことを前提に考えると、かつては何かを学ぶのに強い興味を持っていたのではないだろうか。どっちにしても本人から聞かない限り、ただの考察止まりになるが。
そして、いくつかの枕が添えられた木製の大きなシングルベッドにかけられた羽毛布団並にふかふかそうな掛布団の上にヒースクリフは横たわっていた。
二人掛けの座席に大股気味で腰掛けていた姿からはギャップのある寝姿で、胎児みたいに軽く体を丸めながら静かに寝息を立てていた。
どこか幼い寝姿に和んで表情が緩みそうになったところで、あることに気づく。
待ちし、何もかけで寝たらずや。
熱を出して寝込んでるはずのヒースクリフの全身には、掛布団どころがブランケットすら何もかけていかった。
よも昨晩よりそのかたちに…、との考えが脳裏をよぎる。
毛布をかけずと風邪が悪化しぬ。と声をかけようと思うも、知っている彼の部屋とはかけ離れた静かな空気に圧されたのもあり、イサンは言葉に詰まった。
「……ん、あ…あぁ……」
粥を乗せたトレーを持ったまま立ち尽くす人の気配を察したらしく、ヒースクリフが呻いだ。
ベッドの上で軽く伸びをしてからヒースクリフは顔だけを相手の方へ向けたと思いきや、驚いたように肩がはねた。
「うおっ…!げほっ!ごほっ…あーー…イサンか…」
完全に風邪にやられたガラガラした声で名前を呼ばれ、イサンは慌てて首を縦に振る。
ノックをしてから入ったとはいえ、直前まで眠っていた相手を驚かせてしまったという罪悪感が込み上がる。
このまま黙り続けるイサンを前に、あー…うー…と何かを言いたそうに口を開けては閉じての繰り返しをしてから寝癖だらけの後頭部を荒っぽく掻き毟り、ヒースクリフは大きくため息をつく。
どうやら、無意識で部屋に招き入れてしまったことを後悔しつつ、今更追い出すわけにはいかないといった葛藤がぶつかり合った結果、追い出さないことにしたようだ。
諦めたように再び横になったヒースクリフを追いかけてイサンも彼の横まで移動する。
「申し訳なき、昨晩よりすがらに食をとりたらぬがおぼつかなく…」
「あー……」
粥に入った鶏肉の香ばしい匂いで鼻腔をくすぐられるも、特にテンションが上がった様子はなく、逆に憂鬱といった反応をヒースクリフは見せる。
「悪ぃ…今食える気分じゃないんだわ」
「ふむ……今食はせずと冷めぬ…」
風邪をひいてるのに加えて、いつもと違う部屋の時点で彼の精神状況が良くない方だとは感づいてはいるが、まずは体力をつけてほしい。
そう主張するイサンにヒースクリフは強く出れず、黙って見つめ返す。
自分を追い出す気がないと確信したことに調子に乗ったのか、イサンは粥を枕元に置いてから、ベッド付近まで動かした椅子に腰掛ける。
しかし、ここに来るまでの間に復帰を願う言葉のいくつかを考えてきたのに、うっかり消しゴムをかけてしまったかのように何の一言すら思い出せなくなってしまった。というか考えてきたことをそのまま言っていいかどうか分からなくなった。
顎に手を添えてはうんうんと唸るイサンより先にヒースクリフが口を開く。
「正直さ、俺の部屋じゃねぇな…って思うだろ」
「……しかり」
下手に隠すと逆に傷つけてしまうかもしれない、と判断したので正直に答える。
何事も善意の前提で動いている彼の性格を何となく察していたヒースクリフは返ってきた答えに怒ることなく「だろうな」と短く呟いた。
「だからさ、見せたくなかったんだわ」
見せたくなかったモノを見られたことに拗ねてるような言い方をされた気がして、イサンは気まずそうに目を伏せる。
裏路地育ちを仄めかすような言い方が多く、育ちの悪さをネタに皮肉を言われることも少なくなかった彼の精神状況から発生した部屋が、まさかの都市育ちを思わせる綺麗な部屋だったのに驚嘆したのは紛れもない事実だからだ。
かつて子供の頃、流行り病にかかり数日も寝込んだことがある。
冷たくて新鮮な酸素を取り込もうと息を吸うので精一杯なぐらい死にそうで苦痛だった記憶は薄れることなく脳に染み付いた結果、この部屋にまでしっかりと影響を出してしまっていた。
気持ちが荒んでいる日ほど雷雨に囲まれた殺風景な独房になるくせに、体調を崩すと逆に綺麗になってしまう俺の部屋が好きではなかった。しかも昔のとそっくりではないか。
こうして目の前に現れるたびに、俺を拾ってくれた父の顔を思い出し、”あの人”の手を引きながら荒野を走り回ってきた日々も思い出してしまい、どう処理していいか分からない色んな感情でぐちゃぐちゃになってしまう。
搾り取れるだけ搾取していっては惨めな思いばかり与えてきたクソ野郎どもに対する怒りに憎悪が湧き、後から追いかけてくるようにどうあがいても取り戻せる気がしないあれこれへの嘆きや恐れなどが次から次へと湧いてきては頭の中でいっぱいになり、最終的には起きて何かをすることすら億劫になる繰り返し。
こうやって現れるのは、なにかも奪われた俺を嘲笑う以外に理由はないはずだ。
そして、学も品性も何もない人間からこんな部屋が生まれたと知れば、大体の人は信じられない顔で見るか鼻で笑い飛ばすかのどちらかだろう…。
完全に拗ねて口を尖らせたヒースクリフを見つめることで気を持ち直したイサンは表情を引き締め、真っ直ぐと黒い瞳を向ける。
「…されど、ヒースクリフ君が雨やうに晒さるるよりはよき方と思へり」
失礼ながらさっきは驚いてしまったが、鉄格子をすり抜ける勢いで降り注がれる雨に強風に囲まれた閉鎖的な環境に朋を放置させるぐらいなら、体調が戻るまでの間はこちらの寝床を譲る気でいたのも本音だ。
続けて本音を打ち明ける。
「この室ならば安心し寝かせらる。安心したまへ、余所には言はず」
「……」
一度も笑わず、冗談を言ってこなかった相手から、ここなら大丈夫だとか誰にも言わないとか気にかけるような言葉を受けて紫色の瞳が僅かに揺れる。
「なれど、さほどは契らせて。風邪のおこたるまでの間の介抱を我にさせなむ」
「…つまり、これからも出入りさせろってことか」
「うむ」
次に言おうとしていた内容を先に言われたことを喜ぶかのようにぱっと表情が明るくなったイサンにヒースクリフはつい口をへの字に曲げた。変なところで喜怒哀楽がハッキリしてるから、こういう時ほど調子が狂う。
「断る…つってもさ、ぜってぇ来るだろうな」
「然るべし」
普段はぼんやりしてそうなくせに、一度でも主張し始めたら譲らない頑固な面を最近思い知らされているヒースクリフはますます言葉に詰まる。
仮に看病を突っぱねても、また部屋に入れさせてもらおうとドア前にずっと居続ける可能性が高いだろうと考えると、すっぱりと諦めてくれそうな言葉が出てこない。
数秒ぐらい黙ってから、二度目の大きめなため息をつく。
「……分かった、誰にもバラさねぇってんなら好きにしていいわ…」
「うむ」
それが聞きたかったと言わんばかりにイサンは目を細めた。