Nムルヒス『口移し』 かつては家の一部だった瓦礫にもたれながら小槌ヒースクリフが項垂れているのを大槌ムルソーが発見した。
そのまま寝落ちしてしまったかのように頭を下げたきり、ぴくりとも動かない様子に嫌な予感が脳裏をよぎり、ムルソーは反射的に息を飲んでしまう。
落ちこぼれだと指をさされていた小槌を見つけた際の反応を他の金槌に見られていないかと周囲を見回してからムルソーは、改めて彼を見つめ直す。
返り血だったら良かったことかと思わずこぼしたくなるほど顔のほとんどが赤く染まっているのは、異端から強く殴られたか何かで出血しているのだろうか。
続いて、移動手段を奪う目的で切られたらしき片方の太腿には大きな切傷があり、足元に赤い水溜りを広げてしまっていた。
確実に多量出血によるショック発作を起こしてるなとムルソーは分析する。
彼に大怪我を負わせたと思われる異端は彼の近くで物言わぬ鉄クズと化していた。
もし後から誰かに見つかったとしても、苦痛を感じながら最後まで浄化していったと解釈してもらえると思うと幸いというべきか。
どんな結果であれ、今の彼に足りない部分を補わせるための”教育”を追加する必要はない。
こうして観察している間でも相変わらず動く気配を見せないヒースクリフに合わせて自分も膝を地面につけ、耳をすませるとひゅー…ひゅー…と微かに聞こえた。
呼吸音は弱いながらも、辛うじて命は手放していないことが確認できたムルソーは両瞼を静かに伏せる。
しかし、このまま放っておいては失血で命を落とすだろうし、足手まといだと判断した金槌にトドメをさされる可能性もある。
そもそも放置する考えは初めからなかったムルソーは、マスクに似た口元の機械を弄ると両頬が僅かに膨らんだ。
口内に溜めた”モノ”をこぼさぬよう慎重に機械を外すと小さな切り傷だらけの唇が露わとなる。
硬く閉じた口の隙間からこぼれた緑色の液体…生命水を親指の腹で拭い取ってからムルソーは、半ば意識を飛ばしたきり反応がないヒースクリフの後頭部を掴んだ流れで上を向かせる。
教育と称した暴力に晒され続けた影響で既に紫色の瞳は光を失っているが、風前の灯火の如く、覗き込んだムルソーの顔が映らないぐらいに更に鈍く濁っている印象を受けた。
彼の瞳をしばらく見つめた後、ムルソーは互いの唇を重ねさせた。
半開きな口を更に開かせるよう残った手で相手の下顎あたりを掴みながら、顔の角度を細かく調整する。
そして口に含んだ”生命水”を相手の口内へ流し込んだ。
一度に全てを飲ませると気管に入ってしまう危険があり、逆に吐き出してしまう恐れもある。だからこそ手間が掛かるのを承知の上で少しずつ飲ませるべきだ。
そんなムルソーの狙い通り、数回に分けて口移しされた生命水はヒースクリフの舌の上を滑り、喉奥へ流れていった。
口の端からこぼれた分を指や舌で拭い取っては、隙間を埋めるかのように彼の唇を己の唇で喰む。
その間も淡々とした表情を浮かべてはいるが、深緑色の瞳は真っ直ぐとヒースクリフを捉えていた。
情欲に駆られてするキスより艶かしい行為を今している自覚があるか否かは本人に聞かない限り分からないだろう。
こうして流し込んだ生命水は食道や胃を経て吸収されていき、大量に失った血液の代わりに血管の中を駆け巡っては損傷された部分へ向かっていく。
ちゃんと吸収された証拠として裂けた傷口の端からは新しい皮膚が生え、じゅくじゅくと面積を広げていく。
幸い、拒絶反応らしきところは見られないようだ。
数分も経たないうちに初めから傷など存在していなかったように、新しい皮膚で埋まっていく経過をムルソーは黙って見届ける。
「う…あ、あぁ……」
飲ませた生命水は、傷口を塞ぐだけじゃなく失われた血液を補う役割もしっかり果たしてくれたようでヒースクリフの顔色が少しずつ良くなっていく。
やがて、開きっぱなしだった両目もパチパチと瞬きを繰り返すようになる。
素顔を晒したムルソーの顔が紫色の瞳に一瞬だけ映るも、ショックから完全に立ち直れていないヒースクリフは相手が誰かはまだ把握できていないようだ。
大きな手で後頭部を掴まれ上を向かされた体勢のまま、ぼんやりと意識を彷徨わせている彼をムルソーも黙って見つめる。
常に教育に怯えており、目が合っただけでビクつくような彼にもう少し落ち着きをと思っていたが、いざ反応が薄いとなると逆に物足りない気持ちになるのは初めての感覚だ。
信仰に染まりきれていないゆえかヒースクリフを最初は憐れみの目を向けていた。
しかし、最近は失うには惜しい存在だと認識するようになり、できれば教育から遠ざけたいとの考えも芽生えている。
これまでの自分にとって有り得ない変化だと驚きつつ、不思議と納得している部分もある。それが何故かは理由は不明のままだが。
ともかく彼は生き延びて、自分の近くにいるべきだ。
そう至ったムルソーは、握る者の命に反するのを理解したうえでヒースクリフに生命水を分け与えた。
辛うじて生命の危機から立ち直らせたとはいえ、ここに放置するのはよくない。
しばらく考えた後、自分の部屋に先に戻る案を取ることにした。
ほとんど浄化は終わっているので、先に帰還したといっても別に間違ってはいないだろう。
色々と考え巡らし終えたムルソーは、ヒースクリフを肩に担いで帰路を辿る。
数時間後、目を覚ましたら何故か完治していたのに加え、大槌様がいる部屋だったのにヒースクリフがパニックになったのは言うまでもない。