摂氏26度 夜のハッコウシティは人通りが多い。私はモトトカゲをボールに戻し、人の流れに沿って歩き出した。
ふと私は、やけに過ごしやすいのが気になった。連日猛暑日を記録し、昼は茹るような暑さ、日が沈んでも超・熱帯夜のパルデアだったが、今は、多少暑さは感じるものの、汗ひとつかかずに人混みの中を歩いている。
(たしかあっちに……気温計があったな)
私は今何度なのか確かめようと思い、人の流れから外れた。
蝶番が緩んでずり下がる眼鏡を押し上げながら、気温計に向かう。小さなランプを敷き詰めた、デジタル気温計である。五メートルほど先に文字盤と、大きく表示された赤い数字が見えてきたが、数字は刺繍の裏側のようにぐちゃぐちゃとして、読めない。2メートルの距離に近づいて目をぐっと細めてようやく、読むことができた。
(2……6度)
「おや!奇遇ですね」
突然の声に驚いて立ち止まると、正面から金髪に黒いベストの男性が歩いてくる。
「ハッサク先生?こんばんは」
「はい。こんばんは」
真上から電灯の光を受けて、先生の眼窩や鼻の下、ほうれい線に濃い影が落ちている。その中で、琥珀色の瞳だけが、不思議に輝いている。
「今夜は涼しいですね。26度ですって」
「いや本当、助かりましたよ。毎日夜まで暑くて……」
実を言うと、今も少し暑いですがね……。先生はズボンの尻ポケットからハンカチを取り出すと、髪と首の隙間に差し込んだ。先生は体が大きいから、暑さに弱いのだろうか。寒冷な地にいるツンベアーは、リングマよりも体が大きい傾向にある。
暗い所で立ち話も何だからと、円形のバトルコートをぐるりと囲う通路まで移動した。デジタルサイネージの画像はせわしなく切り替わり、先生の片頬を色々に染める。
「ほら、以前授業にお呼びしたコル……コルサさんですよ」
私は眼鏡のブリッジを人差し指で押し込み、顎をしゃくるようにして、目を薄く開けて先生が指差す方を見た。緑の頭。紫の服。そしてしばらく間を置いてから、
「ああ、本当だ」と言った。
「もしや、眼鏡の度が合っていないのではありませんか?」
先生は少し考えるようにした後、私に尋ねた。
「そうなんです。実はあまりよく見えていなくて」
「やはりそうですか。なるほど、それで……。いえ、描かれる絵の、ディテールの具合が気になっていたのですよ。あまり描き込まない絵が好きなのやもと思っていましたが……」
「あはは、それもありますけど、ちゃんと見えてないところによるものが大きいですね」
「眼鏡を作り直さないのですか?」
「う〜ん、あんまり度を強くしたくないんです」
「なぜでしょう?」先生は目を丸くした。
「好きなお話の主人公が言ってたんです。眼鏡を外すとポカンとして、人と喧嘩する気も起きないで、優しくなれるって。それに、眼鏡をとった景色は、夢みたいにかすんで素晴らしい、人もみんな優しく見えるって」
「そうなのですね。小生には見ることのできない景色です」
「先生は、目がいいですもんね。なんでもよく見てる……」
本当に、先生はよく物を見ている。私の絵から傾向を見てとっていたのには驚いた。他の生徒達の癖も、きっと事細かに把握しているのだろう。
「それに、今もうだいぶ強いから、これ以上度を進めたくないんですよ。ほら」
両手で眼鏡を外し、先生の方へ腕を伸ばした。
裸眼の視界は、近くの街灯、遠くのビルの窓、あらゆる光が拡張して、寒天培地の上のように沢山の丸になって浮かんでいる。それらが、私の瞳孔の収縮に伴って、不規則に脈打っている。先生の不思議な爛々とした瞳も、その光のひとつだった。
先生は、「小生にはかけられませんよ」と笑って、私が差し出したままの方向で眼鏡を持ち、目にかざした。そして顎を引くようにうっと顔を眼鏡から遠ざけて、「たしかに、強いですね!」と、琥珀の双眼を数回瞬かせた。
眼鏡、お返ししますよ、と先生が言った。私が手をさまよわせていると、ああ、そうでした、と言って、差し伸べた私の手に自分の手を添え、眼鏡をそっと置いた。
「これでも、あなたにとっては弱いのですね……」
先生の頭が私と同じ大きさでも、先生の目が悪くても、私の眼鏡ではろくに物が見えなかっただろう。踏んづけたりぶつけて歪み、それを無理やり直すのを繰り返したために、いつの間にか私の顔にのみ合う眼鏡になってしまった。眼鏡をかける。メタルフレームのつるが、先生の体温を受け取って、熱いくらいだった。
だから、つい話してしまった。
「先生、さっき私、優しくなれるから眼鏡を作り直さないって言ったけど、嘘かもしれないです」
「おや?そうなのですか」
「私、全てを見たら疲れてしまうから、視界を悪くすることで、見たくないものを無いことにしようとしてるのかもしれないです。そういうことをして、エネルギーをセーブしている。私はずるをしている」
「それは……ずるいことでしょうか」
先生はきっと困っている。私は続けた。
「それに、例えば人を「本当は優しい人だ」と思う時って、相手のことを自分に都合よく改ざんして捉えて、相手が持つ都合の悪さとか、心の機微を無かったことにしている。それって優しさとは真逆で、薄情なことかもしれないって、思ったんです」
「そうなのですね……。ふむ……」
先生はしばしの間考え込むと、話し始めた。
「小生も、いえ、同じ経験では決してありませんが、似たようなことがありました。感じるもの全てが自分にとっては苦痛だったのです。悲しみ、怒り、喜びさえもです」
「そうなんですか……。知っていますか、喜びも悲しみも、良し悪しは人の決めたことで、全て心へのダメージなのだと」
「なるほど、合点がいきました。当時は、好きだったはずのものに触れる時ですら、辛かったのですから」
先生は懐かしそうな、寂しそうな顔をした。
「そういう時は、どうするんですか」
「心を閉ざして、鈍らせるのです。自分は何も感じないのだと。ですが、そうして認識の外に全てを追いやっては、自分が傷ついていることに気づけなかったり、知らず知らず人を傷つけてしまったり……そういう困ったことが起きますね」
「それに」先生は両手を腰に当て、上体をぐっと突き出した。
「あなた、モトトカゲに乗るでしょう!ライドの際はしっかり視界を確保しないと、とっても危険ですよ!」
先生はわざとらしく怒ってそう言い、それから頬の輪郭をふっと緩めた。
「……とまあ、色々申し上げましたが、必要な時だけ強い眼鏡をかけるのも、手ではないかと思いますですよ」
「……そうですね。そうしようかな」
「見るのが辛いなら、見なくたっていいと思いますです。いつか必要なくなるまでね。先ほど小生には見ることのできない景色だと言いましたが、あなたの普段描く絵は、確かに夢のように思われて、小生は好きなのですよ。ですが、いつかあなたがはっきりと世界を目に映した時、どのように見えるのか知ることができたら、小生は嬉しいです」
***
「ここからどのように帰るのですか?」
「ハッコウシティを抜けたら、モトトカゲに乗って帰ります」
「そうですか。では、街のはずれまで一緒に行きましょうか」
そこからは他愛もない話をして、南のポケモンセンターの前に着いた。
「気をつけて帰るのですよ」
「はい。さようなら、先生」
***
先生との会話を思い返しているうちに、ふと、眼鏡のレンズが汚れていなかったか、無性に気になってきた。モトトカゲを停め、顔から数センチ眼鏡を浮かせて、月の光にかざす。ぞんざいに扱っている眼鏡である。やはり、レンズは何かの汚れでぼやぼやと曇っていた。先生はこれを覗いたのだ。恥ずかしい。こんなことなら、普段から綺麗にしておけばよかった。
眼鏡をかけ直して、再びモトトカゲを走らせる。気づいてしまってからは、もやもやとして煩わしい。