ムルチコーレは咲いていた 目覚まし時計よりも早く目が覚めた。まだ起床時間までは一時間ほどあった。あくびをすると、手のひらに触れた鼻先がひんやりと冷たい。ベッドから降りてカーテンを開けると、冷えた窓ガラス越しに柔らかく日が差していた。まだ下の階の生徒は眠っているだろう。私は物音を立てないように静かにクローゼットへ向かった。
今日は朝から美化委員会の仕事があった。卒業式に向けて、プランターの移動や、花の植え付けをする。私にとって、卒業前最後の仕事だ。本当は卒業生は式の準備をしなくてもいいのだけれど、参加させてもらった。色とりどりのパンジー、ベルの形をしたカンパニュラ、フリルのようなカーネーション……。それらが卒業式を飾るのを想像する。
「よし」
制服のネクタイを締める。ずいぶん早いけどもう出てしまおう。朝食は委員会の後でいいだろう。昨日買ったパンを鞄に入れて、私は部屋を出た。
この時間のエントランスホールはひっそりとしている。清潔な朝の空気に靴音がよく響いて、私はなんとなく足音を立てないように歩いた。受付の人が何か書き物をする音が聞こえてくる。ゲートを抜け、グラウンドに到着した。長袖のシャツ一枚では少し肌寒かったけれど、きっと動いているうちに温まるだろう。
グラウンドにも人気はなく、いつもの喧騒と打って変わって静まりかえっていた。聞こえるのは、たまに池のコイキングがちゃぷんと水を跳ね上げる音だけだ。なんだかドキドキするのを抑えようと、深く息を吸い込む。冷たい空気が喉を通るのが分かる。
さて、委員会のみんなが来るまで何をしようか。息を吐いてぼんやりしていると、視界の端で何かが動いた。
昨日のうちに肋木の足元に集めて置いていたプランターや苗を、誰かが見ている。金色の髪、新緑を思わせるジャケット。
「ハッサク先生!おはようございます」
先生は驚いて私の方を振り返ると、立ち上がった。まだ低い日差しに、先生の影が長く伸びた。
「こんなに早くからどうしたのですか?」
「委員会の活動があって。あ、でも、集合時間はもっと後なんです」
「そうですか。朝からお疲れ様ですよ」
白い太陽の光が、先生の片頬を照らしていた。笑うとほうれい線が深くなって、影がくっきりできた。いつもの優しい笑顔。
「ハッサク先生も、いつもこんなに早く出勤してるんですか」
「ああいえ、普段はもっと遅くに来ておりますよ。今日はなんだか早くに目が覚めてしまって……。たまにあるのですよ」
歳ですかね……。先生は肩をすくめて、困ったように笑った。
「私も、今日は早く目が覚めちゃって。だからこんな早くに来たんです」
「おや!そうなのですね。一緒ですね」
先生はなんだか嬉しそうだった。
「はい、一緒です」
なんでもなく言ったつもりだったけれど、噛みしめるような響きが出てしまった。
「何かお手伝いしましょうか?」
「いえ、他の委員が揃ってから作業するんで、まだやることがないんです」
私と先生は、肋木の足元にしゃがみこんで一緒に花を眺めた。
「綺麗ですね。このカーネーションなど、とても可憐で可愛らしいです」
「ですよね。すごく可愛いって思います」
「まるで重なったフリルのようですよ」
「そう!そうなんです。フリルみたいですよね」
私が思っていたぴったりのことを先生が言ったので、胸がどきりとした。
「パニエを見上げたみたいだなって思うんです。昔好きだった本に、おしゃれな魔女が出てきて」
「おや、魔女のお話ですか」
先生はにこにこしながら、私の方に少し身を乗り出して続きを促した。
「ほうきで飛んだ時、下からスカートの中身が見えるのはダサいからって、おしゃれな魔女はふわふわのフリルがたくさん重なったスカートを履いたんです。左右の靴底に、それぞれ左右のビビヨンの翅を描いて」
「へえ、翅を、ですか」
「下から見上げると、大きな花にビビヨンがとまっているように見えるんです。その花、こんな感じなのかなあって」
カーネーションはちょっと小さいけど……。少し長く喋りすぎてしまった。気恥ずかしくて、尻すぼみに口を閉じた。
「それは素敵なお話ですね!ビビヨンに見えるということは、足をぴったり合わせてほうきに乗っているのでしょう。魔女のおしゃれに対する美学が垣間見えて、格好いいですよ」
先生は、私の話をしっかり聞いてくれた。それが無性に嬉しくて、私は膝を抱える手にぎゅっと力を入れて、首をすくめた。
「一つのお花についても、あなたの中には沢山のイメージがあるのですね。美化委員のお仕事は楽しかったでしょう」
「はい。大変なこともあったけど、楽しかったです」
大変なこと。美化委員の仕事は花の世話だけではない。大掃除などの行事には主体となって取り組まないといけないし、普段も、朝早くに登校して清掃活動をしたり、ごみの収集をしたり、掃除用具の管理なども美化委員が行っていた。
一昨年、こんなことがあった。
美術の授業中、体調を崩した幼い生徒が吐いてしまった。周りのみんなが生徒に大丈夫?とか手を洗いにいこうとか声掛けをしている時、私は美術室の外に駆け出して、一番近い掃除用具のロッカーから雑巾とバケツにモップ、消毒のスプレーを持ってきて、ハッサク先生に渡した。先生は当時まだ赴任して日が浅かったから、すぐに取りに行けないだろうと思ったのだ。
一緒に掃除をしようとすると、先生は私の手の雑巾を持ち、
「小生が片付けますから、大丈夫ですよ。あなたは優しいですね」
と笑いかけた。
私はなんて打算的でずるいのだろうと、その時思った。だって、本当に優しいなら、嘔吐した生徒の背中をさすってあげたり、保健室に付き添ったりしていたはずだ。私はただ、先生に気に入られたくてこうしただけだ。先生のこととなるとずるくなってしまう自分が気味悪かった。
そんなことを考えている間に、先生はてきぱきと掃除を終えて、綺麗になった床に消毒スプレーを吹きかけているところだった。
目の前の苗のポットをいじくる。こういう気持ちって、もっと綺麗なものじゃないの?そもそもゲロをきっかけにしているくせに、そう思うのもおかしな話だけれど。
「熱心に活動に取り組まれていましたね。花壇を見に来るとよくお会いするので、印象に残っておりますよ」
まだ他の委員が来るまでしばらく時間があった。私たちは近くのベンチに移動した。
「最近ではムルチコーレが見事でしたね。美術の授業で、小さなひまわり畑のようだと生徒からも好評でしたよ」
「それはよかったです」
美化委員として好きな花を育てることができたので、私はグラウンドの花壇に、ハッサク先生が喜ぶような、絵画に映える大ぶりで鮮やかな花を植えていた。中でもムルチコーレは、種から育てたので思い入れがあった。
そのムルチコーレの花は、私の卒業を待たずに枯れてしまいそうだった。
「あなたが育てたお花には、よく助けられていましたよ。授業や、疲れて立ち寄った時にも」
先生と花壇で会う時間が大切だった。でも、それももう終わってしまう。
私がいなくなった後の学校を想像する。花壇は後輩に引き継がれて、何事もなく綺麗に保たれていく。枯れたムルチコーレは別の花に植え替えられる。新しく生徒が入学して、そして先生はいずれ私のことを忘れてしまう。
「あーあ、卒業したくないな」
冗談めかして言ったつもりだった。でも自分の声が震えているのに気付いた瞬間、喉がひくひくして、目がかっと熱くなった。私は泣いていた。拭っても拭っても、次から次へと涙があふれてきた。
「本当に……よくがんばっで、いばじだね」
見ると、先生も泣いていた。
「すびばぜん、小生、もらい泣きしてじばっで……。うぼぉおおい、おいおいおい……」
いつもの特徴的な泣き声で、先生は泣いた。きっと先生は、私が学校生活を懐かしんで泣いたと思っているのだろう。
私が本当に思っていることを知ったら、先生の涙引っ込んじゃうかな。大きな泣き声がぴたっと止んで、濡れた目を丸くしてこちらを見て、固まりながら二、三度しゃくりあげるのだ。そんな姿を想像していたら、笑いが込み上げてきた。
「ふ、ふふっ」
「な、泣きすぎでずが?」
先生は、自分の泣く姿を見て私が笑ったと思ったらしかった。
「あはは、おかしい」
ほんとにおかしい。私たちは違うことを思いながら、一緒に泣いた。でもそれでよかった。涙で滲む視界に、ハッサク先生の髪の黄色が鮮烈に見えた。
ムルチコーレの花。開ききって不格好で、それでもまだ咲いていた。