甘い苺の誘惑「あ、いた! くろっ……!」
俺の声に振り返った彼。その姿を見た瞬間、言葉がつまってしまったのどうしてだろう。少しも動けなくなったのは何でだろう。髪型も服装だって、いつもと変わらないはずなのに。
「……潔?」
「………………。」
男子高校生にしては小柄な背丈。ギザギザと尖った歯を、時折覗かせる小さな口。髪と揃いでピンク色の大きな瞳は飴玉みたいにキラリと光っていて……
『美味しそう』
まさか自分が人をそう思う日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
「よっちゃんはね。甘くて美味しそうなケーキさんなの。だから、気を付けてね」
昔から、母さんにそう教えられていた。それこそ耳にたこが出来るくらい、何度も何度も、同じ内容を繰り返し繰り返し。俺の身に染み渡るように、俺が決して忘れないように。
その時の母の目はいつも通り穏やかな色をしてたけど、何となくどこか悲しそうで。その度に「どっかいたいの?」なんて聞いていたことを今でも覚えている。
お母さんから離れないで。ずっと手は繋いでてね。外に行く前は、そんなことを言われながら指切りして約束までして。
勿論針千本なんて呑みたいわけないから、律儀にその約束を守ってた。……まあ毎回頑張ったご褒美にくれる、お気に入りの赤いドロップにつられたっていうのもあったけど。
おそらく母は俺の行く末を案じて心配してたんだろう。多分父さんと協力して、ずっと守ってくれていた。普通の人とは違う特殊な体質を持つ俺が、出来る限り傷付かないように細心の注意を払って。
だけど小さい俺は、母の言葉の意味を正確に理解してなかった。大好きなケーキと同じように、自分は美味しいから気を付けないと食べられちゃうんだと、本気でそう思っていた。母と離れてしまったら最後、ケーキ屋のショーケースに他のケーキと一緒に並べられて、買われて食べられるって。
実際、公園の隅っことかで『美味しそう』と呟きながら、爛々と光る瞳で俺を見つめる人間を何度も見たことがあったから。小さかったし、そう間違えても仕方ない。
結局自分が、生きるための食物ではなく、一部の人間にとっての嗜好品のようなものなんだと、“正しく”理解したのは小学生に上がってからだった。実感出来たのは、もっとずっと後。
不特定多数の人間から狙われるような存在だと分かっていても、それでも俺はそれをどこか楽観視していたんだと思う。『フォーク』に実際に襲われるまで、自分は多分大丈夫なんて、根拠のない自信を持っていた。
俺が比較的平穏に過ごせてたのは、周りの大人たちのおかげだったのに。もっとちゃんと真剣に考えなきゃいけなかったのに……。
俺は『ケーキ』だ。それもただの『ケーキ』じゃない。例えるなら、ふわふわのスポンジに程よく熟れて瑞々しいイチゴがのったショートケーキ。甘さも食感も絶妙で、その匂い嗅いだら最後、食べたくて食べたくて仕方なくなる……らしい。
自分の匂いなんてわからない。味なんてもっとわかるはずがない。だって、俺は人だから。サッカーが好きなだけの、ただの中学生だったから。
だから油断した。それまで実害がなかったからなんて、今思うと言い訳にすらなんないだろう。父と母の意識を掻い潜って、近づいてきた凶器に気づかなかった。まんまと騙されて、それ以来初対面の人と接するのが怖くなってしまった。
目の前にいる人だって、安全かどうかわからない。…………そんな世界で、今まで生きてきた。
俺をお菓子として狙っている奴がいる。そういう奴は、俺を見た瞬間、極上のスイーツを目の前にした子供……いや、餌を前にした腹すかせた動物みたいに、『食べたい』っていう欲に忠実に襲ってくる。
そんなのたまったもんじゃない。ただで食われてなんてやらねぇ! お前がオレを食うなら、その前に俺が喰ってやる! そう思えるようになった理由は、やっぱりサッカーだった。サッカーが俺を強くしてくれた。
チームの仲間に、相手チームの敵に、同じ目標に進むライバルに、俺を求める人間がいるかもしれない。それでも、いつまでもそれを怖がっていたら前に進めない。世界一のストライカーになんて、なれるわけない。
だから、俺はオレを利用することにした。その為の目だって鍛えた。全ては俺のために。俺の夢のために。
ーーフォークの群れを収めたこの檻が、それを教えてくれた。
だから『フォーク』は俺にとって、注意すべき警戒対象であり、時には利用できる有益な手段でもあった。だけど、どっちにせよ根っこの部分では相容れない存在で。ここに来てから、それはさらに加速して。
たくさんの人間に狙われてきたから、経験上『フォーク』かどうか何となくわかるようになってきている。それは一重に、人を観察してきた結果だと思う。いつまでも両親に守られてるんじゃダメだ。そう感じたときから、出来るだけ自衛できるように自分なりに努力してきたつもりで。
それでも、気を許せる人はごく少数だった。しかもここは敵だらけの監獄。期待するだけ無駄。今でこそ少しは安心できるやつも出てきたけど、やっぱり全然少ない。
だから。だから彼だって、俺の敵だった。只でさえ彼は、俺にとって凶器となり得る。そんな存在だった、はず。
「お前につくぞ」
味方がいなくなってそう言われたときだって、信頼できるなんて欠片も思わなかった。オレにつられて、オレを手に入れたくて、俺を選んだかもしれないって考えてしまったくらいなのに。
「確かに、俺はフォークだ」
お前の思惑はわからない。でもお前がそうするなら利用できるだけ利用してやろうって、そう思ってたのに……。
「でもお前を食べる気はない。絶対しない。誓う」
お前は、一生懸命我慢してる。
無表情で大体は隠せても、その目は確かに食べたいって訴えてんのに。無意識に伸びた手は、欲しいって叫んでんのに。
それでも手に爪をたてて、時には唇噛んで血まで流して。我慢して、我慢して。たえて耐えて堪えて。
「俺のせいで、潔が傷つくのはイヤだ」
本当にそう思って、自分の欲を圧し殺してまで俺のそばにいてくれるんだって。言葉で、行動で、何よりも真っ直ぐなその瞳で、一途に示してくれたから。お前の優しさは十分伝わってきたから。
俺の為にしてくれるその行動全てが嬉しくて。その姿が、次第に何だかかわいく思えてきて。
申し訳ないって気持ちもあったけど、この関係に最近では心地よささえ感じていた。
だからもしかしたら、お前と本当の仲間に、信頼できる友達になれるかもしれないってそう思ってたのに。
ーー俺は、食べられる側なはず、だろ?
「どうしたどうした? 何か用か?」
返事もしないし一歩も動かない、というか一瞬にして動けなくなった俺を心配して、彼がこちらに駆けてくる。その行動にすら反応できず、ただその姿を眺めることしかできなかった。
「潔? 大丈夫か?」
やがて近くにやって来た瞳は、正面から不思議そうにこちらを見つめてくる。照明を反射してキラリと赤く光るそれは、好きだったあの苺味のドロップみたいに甘く溶けているように感じて。
じゃあ、舐めたらおんなじ味がすんのかな。
ーーああ、『美味しそう』だなぁ。
自分の喉が大きく音をたてる。つい伸びそうになる手は、見えないように後ろに隠した。
こいつはこんな気持ちだったのか。だったら悪いことしたな。我慢すんのがこんなに大変だと思わなかった。……あー、どうしよ。困った、困った。
苺が、くいたい食いたい喰いたい!!
その日俺は、自分の内に隠されていた俺を思い切り抜き取ってしまったのだ。