寝起きの不機嫌出かける前にはキスしてほしい、そう言ったのはどっちだったっけ。
起きてそのままの姿でピアノに向かう背に投げキッスを送る。彼の頭の中は音楽でいっぱいで、彼の耳に入る音はピアノの音だけだ。
外で練習してくる、それだけの用事にキスが必要かと疑問に思う。けれどふたりのどちらかが言い出したことだ、守らねばなるまい。だから昨日までオレは、律儀に出かける前にキスをした。
しかし、昨日の彼は言った。「そんなにキスしたいの?」と。ぽつぽつと生えた髭をそのままに、むっとした顔で。
それからはあっという間だった。「じゃあ明日からはしない」と言って、それきり。
恋人同士となってから何年も経った。一緒に暮らし始めてからも何年か。一緒に寝て、起きて、起こして。何度も明日を迎えてきた。
迎える朝と、外に出る前のキス、その度に目の前に訪れる愛しい表情。
終わりは一瞬だ。
スニーカーを履いて扉を開き、朝の冷たい空気を吸う。もし、もしもこれが何年か前ならば雪祈は追いかけてきてキスをせがんだだろう。もう今はその気配がない。
「いってきます」
低く唸るように言って、鍵をかける。少し走って頭を整理しようと靴ひもを結び直す。そう、たかがキスひとつだ。
そう思うのに。もう恋をするには随分と年月を生きてきたのに。
振り返り、ピアノのある部屋の窓を見る。
昨日と同じ、むっとした顔の雪祈がこちらを見下ろしていた。
「バーカ」
聴こえるはずもない音を絵に描いたような不機嫌に投げて飛ばす。
昔と変わらない大仰なため息をひとつ、彼の右手がため息をついた口を塞ぎ、ひらり。こちらに向けられた指先の向こう、すこし尖った唇が見えた。
なんだ、なあんだ
「キスしたいんじゃねえか、毎日」
くるりと背を向ける雪祈の、髪の先が機嫌よく揺れた。