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    藤原千郷

    @fjwrcst_story

    ぶぜさに♀小説書く人

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    藤原千郷

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    『隣の部屋の豊前くん』
    お隣の部屋に引っ越してきたのは、たいへん整った顔立ちの青年だった。
    彼と過ごした日常の話。

    隣の部屋の豊前くん 本編完結済み5月中旬

     お隣に誰かが越してきたのは知っていた。なかなかいい間取りだし、ちょっと築年数があるだけで立地もそんなに悪くないところな上に、お隣は角部屋。オフシーズンとは言えすぐに埋まるのは当然だろう。
     私のひとときの角部屋気分が終わったのはある日曜日の夕方のことだ。外出から帰ってきたら隣の部屋に電気がついている。ここ数日物音がしていたからもうそろそろだろうと思っていたけど、とうとう入居したんだな、なんて考えていた。
     夕飯を作っている最中にチャイム。もしかしてと思ってみれば、「すみません、隣に越してきたものなんですが」との答え。あたったな~などと考えながら扉を開けてぴしりと固まった。
    「夜分にすみません」
     と申し訳無さそうな顔をしてこちらを覗き込んだ男が随分と整った顔立ちだったのでびっくりしてしまった。
     こんなイケメンがこんなアパートに住んでいいんかな。
    「こ……こんばんは」
     私が頭を下げると彼は少し表情を緩めて同じように会釈してみせた。
    「こんばんは。たまにうるさいかもしんねーんで、せめてお隣だけは挨拶をと思って」
    「ご丁寧にどうも」
     小さな紙袋を手渡される。こういうのは断るのも悪いので、とりあえずお受け取りだけする。
    「ーーと言います。なんか……うん、まあなにか分からないことあれば聞いてください」
     そう返すけれど、こんなに美形の人がたやすく見知らぬ人を頼ることはないだろう。
     社交辞令を伝えると彼はふっと笑って
    「ありがとうございます。江といいます。なにかあれば教えてください」
     と応えた。
     扉を締めてから、これからは眼福できそうだなぁなどと呑気に伸びをする。
     これが私と江さん……豊前くんの初めての出会い。次の出会いは、思いがけず2日後のことだった。






    5月中旬2

     私の日課……習慣のひとつ。ベランダに出て一日の反省をする。頭がスッキリ冷えるし、気持ちも切り替えやすいのでおすすめ。
     今はGWも過ぎた時期。肌寒いけど外に出るのはつらくないから、過ごしやすくて好き。
     最近お気に入りの紅茶を入れてベランダに出る。はぁーと大きく息を吐いて、今日一日を思い返した。仕事の反省、同僚との雑談、上司の言動、明日のお弁当、夕飯はどうしよう。
     思考を巡らせて数分もしたころお隣の部屋の電気がついた。角部屋の、……そう、江さんちだ。ちょっと遅めの帰宅ですね。
     バタバタと音がしたと思ったら、おもむろにベランダの扉が空いた音がして私は固まってしまった。人の気配が外に出てくる。
    「ーー……」
     という重い溜息。そして、プルタブの開く音、ごくごくという勢いのいい嚥下音、「ぁぁ」という感極まる声。
     ビール飲んでんな。
     彼の身体がベランダの柵に背中を預けた。俯いていた顔をあげるのがこちらからも見える。すーっという長く空気を吸う音と、ふーっという長く空気を吐く音。たなびいていく白い煙。
    「うーん……」
     彼は……江さんは右手にタバコ、左手に缶ビールを持って気怠げに唸り、身を翻して室外に目を向けた。
    「あ」
    「……どうも、お疲れ様です」
     身動きも取れなかった私は、当然ながら江さんと目が合ってしまう。彼は目を見開き、タバコを咥えると頭をかいて、
    「さっそく変なとこ見られちゃいました」
     と照れくさそうに笑った。






    5月中旬3

     お隣の江さん。まさかベランダで出くわすとは思っていなかったのでびっくりした。
     あのあと、江さんから飲み会でちょっと面倒なことがあったことだけ聞いて、私はすぐに引っ込んだ。たぶん女だなと思った。どう考えてもモテそうな人だから、飲み会の席ともなれば牽制が激しそう。それで疲れて帰ってきて女の私と話すのも億劫だろう。
    『お疲れさまでした。じゃあ私は部屋に戻るので、おやすみなさい』
     そうやって話を切り上げると、彼は『はい、おやすみなさい』と言ってタバコを挟んだ手を振った。そんなさりげない仕草がたいへん様になっていて、こんなのが職場にいれば万が一を狙いたくもなるよなあ、と痛感したりした。
     翌日。あくびをこらえながら家を出る。今日も労働だぁ、そうぼやきながらエレベーターで下に降りて、いつもどおり正面玄関の横にある駐輪場で自転車の鍵を外したところで、昨日見た記憶のあるイケメンと目が合った。
     一番最初に会ったのは日曜日。ラフな襟付きのシャツを簡単に羽織ったくらいの雑な格好だった。昨日の夜はあまり覗き込みはしなかったけど、ジャケットを脱いでワイシャツのままだったと思う。だから、今日のこのピシッとスーツを着こなしてる姿はたいへん目に毒だ。身体のシルエットがよく分かるから、スタイルの良さがとてもよく分かる。足長いな。これは悪すぎる。昨日の痛感なんてまだまだだ。これは女性陣も必死になるだろう。
    「おはようございます」
     挨拶された。ぺこっと会釈された。うーん、それだけなのに威力強い。しかし眼福。
     私は挨拶を返しそそくさと自転車にまたがってその場を離れた。彼も出勤なのだろう。彼狙いの女の子だったら一緒に行きましょうなんて言うのかなーなどと思いながら風を切り駅に向かう。
     駅に着きいつもの市営駐輪場に自転車を停めて、いつも通りに駅前のコンビニに寄ってお茶を買って、コンビニを出たところでまたイケメンに出会った。
     わざとじゃないんですけど。
     目が合った瞬間、江さんはふはっと吹き出すように笑い出した。
    「ははは、昨日から、すげえタイミングいいっちゃね」
    「ほ、ほほほ……」
     方言! と言いかけたのを誤魔化そうとしてお嬢様みたいな笑い声を上げてしまう。
     江さんはにこにこしている。
    「私自転車だったのに、早いですね……駅通勤なんですね」
     私が尋ねると彼はええ、と頷いて、
    「俺、足疾いんで、そんなつもり無かったんですけど追いついちゃいました」
     とにっこり。まあいい笑顔。
    「駅のホームまで一緒だったら笑っちゃいますね」
    「それはないでしょ、あはは」
     笑い合いながらなんとなくふたり並んで駅の構内に向かい、結局私達は同じ電車に乗ることになった。さすがに降りる駅は違ったけれど、ここまで一緒だと勘違いしそうになるのでこういう偶然は避けたいなあ。







    5月下旬

     お隣の江さん。あれから何度か朝一緒になることはあって、なんとなく会話をするようになったのは下心や打算などではなく当然の成り行きだろう。まさかあんな偶然に2日連続で何度も出くわすとは思わない。そこから会話を始めてしまえば、嫌でも会話する仲になる。
     そうして彼がやっぱり方言を話すこと、まさかの同い年なことを知った。こんな同い年が存在するとは。信じられないこともあるもんだ。それから彼は兄弟が多いらしい。初めて挨拶に来たときに「たまにうるさいかもしれない」と言ったのは、弟たちが遊びに来ることがあるかもしれないからだという。「騒がしい奴らでさ」と思い出すように笑う横顔を、兄弟のことが好きなんだなあと思いながら見やっていた。
     夜のベランダでのひととき。二度ほど一緒になった。私はだいたい毎日同じ時間帯に外に出るけれど、彼は帰ってきてからすぐにビールと一服をするのが好きらしい。基本的に帰宅時間が遅め寄りバラバラの彼が、たまたま私の時間と一緒になることはそんなに多くない。
     最初はまた驚いた顔をして
    「邪魔してわりーな」
     と言って彼はそそくさと中に入っていったけれど、次のときには
    「今日はこの時間だからいるかなって思ってたんだけど、当たったな」
     とはにかんでくれたので、私はもう、本当に、眼福を超えてしまったら困るので本当に勘弁してほしい……という感情で一杯になった。罪作りな男だ。この日は少しだけ話をして、私がくしゃみをしたところでお開きになった。
     5月も終わりの、肌寒さと温かさの交じる時期。
     ある日の帰り道。アパートの入口のところに中性的な美人が立っていた。アシンメトリーのボブヘアを揺らし、すらりとした身体の、顔立ちの整った美しいひと。女の人のようにも見える美しい顔だけれどたいへん身長が高い。遠目に見るとわからないけれど、同じアパートのおばあちゃんがたまたま出てきてその人を見上げていた。まるで江さんを見上げたときのような身長差だ。
     そこで少し脳裏に引っかかるものを感じたけれど、まさかね、と思いながらその人の横を通り過ぎた。その人はちらりと私を見て小さく会釈をする。私も小さく返した。青いネイルがきれい。

     たまねぎがない…………。
     今日は炒飯にしようと思って、先日の買い出しのときに具材を揃えていた。けれどあると思いこんでいた玉ねぎがなかった。すっかり忘れていた。たまねぎがなくても当然炒飯は成立するけれど、たまねぎは欲しい。たまねぎ好き……。
     私は渋々バッグを掴んで部屋を出た。ついでに明日買う予定だった食材を買うことにする。
     と、入り口に出たところで、先程のアシンメトリーボブの美人が立ち尽くしているのを見つけて思わずぎょっとして立ち止まってしまった。美人は私を見て何も言わないけれど、少しうろたえるように視線を彷徨わせている。
     私が帰宅してから一時間以上経っている。ずっとこの人はここでだれかを待っていたのだろう。
     驚いたけれど話すことはない。私がそのままその人を通り過ぎると、今度は道向こうから、見覚えのあるイケメンが走ってくるのが見えた。
     また出会ってしまった。彼は私に気づくと足を止めて、上気させた頬で私を見下ろしてくる。
    「おっ、お疲れさん! 買い物?」
    「はい、ちょっと買い忘れちゃったものがあって。江さんは今日は早いですね」
    「ちょっと弟待たせててさ……もう暗くなってるし、気をつけて行ってこいよ」
    「ありがとうございます」
     そんな会話をして、江さんは、やっぱりアシンメトリーボブの美人のところへ駆けていった。
     彼女かなと一瞬思ったんだけれど、待ってさっきあの人なんて言った?
    「遅いよ。何時間待たせるんだ、豊前」
     声ひっっっく。めちゃくちゃ不機嫌そうな声。
     あれは男だ。弟か、あの人。
    「わりーって、何度も謝ったろ! なん、お前ずっとここにおったんか、ばかだな」
     江さんは笑いながら美人……弟さんの背中を押しながらアパートの中へ消えていった。
     イケメンの弟は美人なんだなぁ。私はそんなことを思いながらスーパーに向かった。







    6月上旬

     今日は朝からしとしとと雨が降っている。いわゆる梅雨に入って青空は久しく見ていない。
     何の予定もない土曜日で、家事も終わらせてお昼を食べて、さてどうしようかなと思考を巡らせる。買ったばかりの本が目に入ってそういえばまだ読んでいないと手に取った。
     主人公がふしぎな喫茶店で出会うふしぎな出来事の話。
     喫茶店行こうかな。歩いて行ける場所にあって、老夫婦が経営している昔ながらの喫茶店。たまに行くけれどゆったりできて好き。
     本をバッグに入れ私は着替えるために立ち上がった。

    「お」
     そうきたか。
     喫茶店に入っていつもどおりに二人がけのテーブル席に掛ける。レトロなアンティークを惜しげなく使って、少しお高めだけど穏やかな素敵なお店。ゆったりとした音楽と、雨の粒が跳ねる音が心を落ち着けてくれる。
     というのに、注文したコーヒーが届いてさあ読もうと本を取り出したところで、見覚えのある人の来店。
     江さんはマスターに、私を指さしながら「同席しても?」なんて聞いている。私に聞いて欲しいなぁ。
     そうして、雨の日だと言うのに太陽みたいな笑顔の江さんは私の向かいに座った。
    「こんにちは」
    「ちわ。あ、一緒じゃダメだった?」
     今更の質問に笑ってしまった。本をバッグに仕舞いながら首を横に振る。
    「全然、大丈夫ですよ」
     メニューを渡すと彼は静かに目を通す。俯くとサイドのゆるい髪が顔を少し隠した。けれどそれでもよく分かる、長いまつげや、すっと通った鼻。
     うーん、嫉妬する気にもならないほどいい男。
    「なに飲んでる?」
    「え。今日は奇をてらわずオリジナルブレンド」
    「じゃあ俺もそれでいいや」
     彼はメニューを閉じるとマスターに声をかけた。
     今日の格好はグレーのインナーに濃いブラックの薄いジャケットを羽織っただけのシンプルなものだけど、それでも驚くほど目を引く。
    「ここよく来るん?」
    「たまに来ますね。近いし、落ち着いててゆっくりできるので」
     ふーん、と江さんは店内をぐるりと見回した。今日は雨だからいつもよりお客さんはいない。私達と、離れたところに一組。だから私も小声で彼に応じることができる。
    「そっか。良さそうなところだから来てみたんだけど……あんたとまた会うとは思ってなかったな」
    「確かに江さんとはこういう偶然多いですよね」
    「そうだよな。……ところでさ、俺たち同い年じゃんか」
    「そうですね」
    「こうやって話すようになってもう一月くらい経つじゃん」
    「はい」
    「そろそろ敬語やめてくれてもよくね? あと名前で呼んでって前にも言ったのに」
     マスターがコーヒーを持ってきた。
     会話が途切れる。私は自分のカップに口をつけた。
     少し前に出会ったときに確かに言われた。江さんって呼ばれるより下の名前……豊前と呼ばれたい、と。距離が近づきすぎてしまうのもなあと思った私は軽くスルーしていたのだけれど。
     私に追随するように彼もカップに手を伸ばして、熱さを窺いながら一口。「うま」と呟いた。
    「江さんって」
    「豊前。それか豊前くん」
    「……豊前くんて勘違いされやすいでしょ。苦労するよ、その距離の詰め方」
    「……」
    「心当たりありそうな顔する」
    「……あんたって鋭いな」
     諦めて彼が呼ばれたいように呼ぶ。豊前くんは気まずそうな苦笑いを浮かべて背もたれに思い切り寄りかかった。ぎしりと音がする。そのまま手を上で組んで体を伸ばしている。
    「ついやっちゃうんだよな。仕事でさ、そんなつもりはねーんだけど。……あんたはそんなことなさそうだから安心してたけど」
     変な信頼をしないで欲しい。
     それにしてもこの人はやっぱり仕事で言い寄られたりしてるみたい。
    「江さんって呼ばれると仕事の時みたいでムズムズすっから、下の名前で呼ばれる方が気が楽なんだよ」
    「ああ、そういうこと。モテる人は大変だね。まあ豊前くんはちょっと迂闊だと思うけど」
    「ダチにも言われた。がって来られても邪険にはできねーんだよな……」
     腕を組みながら豊前くんは苦い顔をしている。
     言い寄られても断りきれないって感じかな。彼にはなんでも受け入れてくれそうな包容力がある。それは感じる。それに期待してしまう人は多いだろうし、彼は実際受け入れようとしてしまうのだろう。
    「大変だね」
    「まあ、俺がうまくやれねーからいけねーんだけど」
     そこまで言うと彼は、やめだやめ、とかぶりを振る。
    「せっかくあんたと偶然ここで会えたんだからもうちょっと楽しい話しようぜ」
    「いや、うーんそういうとこかな」
     そう突っ込むと、豊前くんは一瞬キョトンとした顔をして、それからくしゃっと破顔した。
     やっぱり、こんな人は好きになりたくないな。苦労しそう。
     彼の笑顔に目を奪われながら私は肩をすくめた。







    6月下旬

     今日は朝からお隣さんががたがたしている。なにかをを動かすような音やボソボソとした会話が漏れ聞こえてくる。豊前くんの部屋にはお客が来ているみたい。ふたりくらいかな。豊前くんと、声の低い人と、それよりは少し高めの声の人。
     このアパート、リノベーションはしているけれど築年数は古めなので物音とかは聞こえる。ひとつひとつの動きが分かるほどじゃないけど。
     お昼前から来て、たぶんお客さんが帰ったのは日もとっぷり暮れた夜のこと。でかけたときに豊前くんの部屋に大きな段ボールがいくつか置かれているのを見たけど、一日ずっと荷物を運び入れたりしていたのかな。
     そうして私が夜いつものようにベランダに出て紅茶を飲み始めると、すぐにお隣から人の気配とからからとベランダの扉を開ける音がして豊前くんが顔を出した。相変わらずのビールとタバコを両手にして「よぉ」と、すっかり慣れたやり取りだ。
    「今日うるさかったろ。ごめんな」
    「でかけたりしてたし気にならないよ」
     ぷし、というなんだか聞き慣れた音。彼はいつもどおりに勢いよくひとくちあおって、「ふぃー」と息をつく。
    「なに、豊前くん、部屋に家具なかったの?」
     置かれていたダンボールは、収納ラックとか机とか、そういう梱包だった。
     豊前くんは「いや」と苦笑する。
    「ないわけじゃねーんだけど、弟たちが、ものが少なすぎるっていっていろいろ持ち込んできた」
    「へえ。こないだ来た弟さん?」
    「いや、それとは違うやつ。でもあいつが報告して、それを元に今日一式揃えてきたつー話」
     この時点で弟と思しき存在は三人。確かに多い。
     彼は自分の背後、部屋の中をちらりと見ながらぼやいた。
    「特に一番下のが……どえらい量の服と収納持ってきたから、部屋が一気に狭くなっちまった」
    「服」
    「人を着飾るのが好きなんだよ、あいつ。家離れてもこうなるとは思わんかったちゃ」
     なんだか話だけ聞いてるとなかなか豪快な弟たちみたい。そしてやっぱりとっても仲が良さそう。言葉だけ聞けば愚痴のようだけどその声色はとても優しい。もともと常に笑っているような人だけど、弟の話をしているときはとても雰囲気が柔らかくなる。
     豊前くんがすーっとタバコを吸う。口元では親指と人差指で摘むようにして薬指に乗せ、下ろすと薬指に乗せる。あまり見かけない吸い方だ。実家では父親と祖父が吸う人だったし、職場ではもう喫煙所が隔離されているから、久々にタバコを吸う人と接するようになった。
    「あ、タバコいや?」
     豊前くんが今更な質問をしてくる。私は首を横に振った。
    「家で家族が吸ってたし気にならない。ていうか変えた? 前とパッケージ違う?」
    「あ~、ちょっと軽いのにした」
    「なるほど」
     吸わないほうがいいとは思うし、軽いほうがまだいいと思うのでいいことですね。
    「そもそも俺がベランダで吸ってるのも、今日来たふたりがタバコ吸うと怒るからなんだよ。来るって言うからちっと軽くしようかなって」
    「怒るんだ」
    「そう怒る。吸うのは俺だけじゃねえんだけどさ。まあそれに、最近は」
     そこまで言ってちらりと私を見る。
     なんだろう、と思って首を傾げると、彼はいたずらっ子のように口の端をあげた。
    「あんたとここで話すようになったから、ちっとは軽いほうがいいかなと思って」
     ……。
     ……あぶねっ。あー、あぶねえ。こいつまじでこういうとこ。全然自分が迂闊なの理解してない。
     言う義理もないけれど、彼の悩みを知って言わないと即断できるほど情がないわけでもない。伝えたほうがいいだろうか。そういうとこ迂闊だぞ、と。
     そんな私の悩みを遮るように、豊前くんが思いついたように声を上げた。
    「ああ、そうだ、持ってきたって言えばさ、今日来たもうひとりの弟が、野菜をばかみてーに持ってきたんだけど、もらってくんね?」
    「野菜?」
    「農家やってて、今日も軽トラックに大量に積んできたん」
    「ああ、下に停まってたあれそうなんだ」
     確かに下の駐車スペースに見慣れない軽トラックがあったけれど、豊前くんの弟のものとは。ていうか農家なんだ。
    「俺料理しねえの分かってて持ってくるんだぜ。な、もらってくれると助かるんだけど」
    「え、くれるんならもらうけど……何があるの?」
    「たぶんなんでもあるよ。そうだな、見てくる。あ、ちょっと持ってて」
     豊前くんはそういうなり自分の吸っていたタバコを私に持たせて、部屋の中に戻っていった。まだ先の長いタバコは細い煙をたなびかせている。
     あー、ほんとにこの男距離が近い。タバコなんて咥えながら部屋に戻ればいいのに。匂いが少しでも部屋にいかないようにってこと? 吸ってたタバコを人に預けてくなんて。
     豊前くんがダンボール箱を抱えながら戻ってきた。私からタバコを受け取って、口に咥えながら下に置いた箱の中身を物色し始める。
    「じゃがいも、えんどうまめ、きゅうり、なす、桑名あいつどんだけ持ってきてんだ、トマト、なんかほうれんそうっぽいの、たまねぎ……」
    「たまねぎ」
    「っはは、たまねぎな。あとは? できれば全部もらってほしいくらいなんだけど」
     しまった、つい条件反射でたまねぎを選んでしまった。
     しかし弟がせっかく持ってきてくれたものを、全部あげてもいいだなんて。
    「豊前くん、ほんとに料理しないんだ?」
    「あー、まあ」
    「ん~、じゃあ、調理しないと食べられないようなものはもらってあげようか」
    「それは助かる」
    「トマトとかきゅうりとか、生で食べられるのは自分で食べなよ。せっかく弟が作ってくれた野菜。ものを無駄にするわけにいかないでしょ」
     そうやって言い含めると、彼は少し照れたように笑いながら私を見上げる。
    「そうだよな」
     その表情は年齢よりも幼く見えた。






    6月下旬2

     机の上に置いたタッパーを前に正座して、私はすでに30分ほど頭を抱えて悩んでいる。
     豊前くんからいただいた野菜の数々は思っていたよりも多く、彼が『どんだけ持ってきてんだ』と言うのも仕方ないほどだ。本当にたくさんあって私も途方に暮れてしまった。
     じゃがいもやにんじん、たまねぎとか、そらまめとか。他にも諸々。
     このまま置いておいても場所を取るだけだし腐ってももったいないので、私は野菜をいただいた翌日曜日、一日かけて彼らを料理に変えることにした。
     そうして変えきったわけなんだけれど。ジップロックも使い切って、普段使っていたものじゃ足らなくてしまいこんでたタッパーも総出で。結果、とても一人暮らしの冷蔵庫には入らないし、冷凍庫どころでもない量の料理ができあがったわけで。
     作りながら考えてはいた、それは認めるけれど。
     これを豊前くんにお裾分けすることは果たして許されるのだろうか?
     だって彼がお隣に越してきたのは先月のことで、まだ二ヶ月も経っていなくて、多少話をするようになって名前で呼ぶようになって、ベランダでちょこちょこ話をしたりするときもあるけれど、近所の人……友達……? みたいな間柄だ。いくら野菜をたくさんもらったからと言って、料理したからお裾分けしますって。しかもあんな、女性からのアプローチをたくさん受けてて、手作りの料理とかお菓子とかたくさんもらってそうな相手に、迷惑じゃなかろうか。かといって作り切ってしまったし食べきれないし、ものを無駄にするわけにいかないと彼に豪語したのは私。だとするなら彼には協力してもらう他ない。
     というところまでは結論が出ているのだけど、それを実行に移す勇気が出ない。
     今の時刻は18時。夕飯時といえばそうだ。お隣も……豊前くんも、いるのは分かる。たぶん筋トレだと思うんだよね。規則正しい音というか。たまに夜に走りに行ったりしてるし、部屋でも筋トレしてるらしい。
     そもそも料理をほとんどしないと言うからなに食べてるんだろうって感じだけど。ビール飲んで筋トレして。
     ……まあそれはいい。この眼の前のタッパーの数々。そろそろ覚悟を決めなければならないとは思う。

     私は渋々、本当に渋々立ち上がって玄関に向かう。
     薄手のカーディガンを羽織って外に出ると生ぬるい湿気が肌にまとわりついた。廊下を奥の方に向かい、お隣の玄関に相対する。
     ビーという古いチャイム音。リノベーションしたのにどうしてこの音なんだろう。数秒待つとインターホンではなく扉越しの向こうから低い「はい」という応えが聞こえ、私が名乗るとすぐに扉が開かれた。
     現れた豊前くんはやはり筋トレ中だったようだ。スポーツ用のジャージと汗ばんで上気した身体。シャツの腕で頬を伝う汗を拭いながら、彼は少し目を丸くしながら私を見下ろした。
    「なん、珍しい。どうした?」
    「あ、うん、あの」
     いろんな動揺が勝って言い淀んでしまう。けれど、モゴモゴしているのはかえってやましいように見えるかもしれない。
    「あのさ、昨日もらった野菜なんだけど」
    「おう。もらってくれて助かった」
    「今日全部料理にしたの。それでただでもらっちゃったし、豊前くんも料理してあれば食べるでしょ。だからお裾分けしたらもらってくれるかな、と。いや迷惑ならいいんだけど」
     早口なのは自覚している。緊張して逸る心臓をなだめつつそう吐き出す。豊前くんは迷惑そうな顔をしないだろうかと、そんな表情をしようものならすぐに帰ろうと思ってまじまじと見つめてしまう。
     そんな私の葛藤をよそに、豊前くんは私の言葉を最後まで聞くと
    「ちょっと期待してた」
     と呟いて、嬉しそうに口元を緩めた。
     うっ、すごいな。こちらの緊張などなんのその、受け入れるその度量その表情。だから苦労するんだよ豊前くん。そんな顔をされたら大抵の女は落ちてしまう。私? 私は大丈夫。大丈夫。
    「もらってくれるってこと?」
    「あんたが作ったんだろ、食べていいならすっげー嬉しいけど」
    「わ、私が作ったんだよ?」
    「? うん」
     私の懸念は伝わっていないらしい。だから苦労するんだよ豊前くん。でも、食べきれない量の料理をもらってくれるなら助かるし……。
     にこにこ笑う豊前くんを見上げて、胸に広がる安堵を感じながら、私はほっと息を吐いた。

     私が渡したタッパーの数とその量を見て彼は少し唖然としていたが、数日後
    「すっげーうまかった。また野菜持ってきたら作ってくれたりする?」
     と嬉しそうに言われまるで大型犬に懐かれているような錯覚を覚えた私は、自分が彼にしっかりと絆されていることを自覚するしかないのだった。







    7月上旬

     さすがに夏と呼べる季節になり暑さが私を責め苛んでいる。冬生まれなので暑さには弱い私としては、夏は嫌いではないけれど苦手な季節。
     今日はここ最近で一番の暑さで、私は本当にへとへとになってしまった。仕事中はまだいいんだけれどなにせ帰り道がしんどい。熱のこもったアスファルトに体力を奪われてしまう。会社から駅までの距離もいつもより遠く感じる。生ぬるい構内をトボトボと歩き、まばらに人が散らばる電車の中でようやく一息ついた。
     電車の振動に身を任せながら最近の自分について考える。といっても最近あった大きな変化といえばひとつしかなくて、知り合ったお隣の彼のこと。
     たいへんな美形で、それなのに人懐こくて、それだから少し損をしてしまう。あれだけの美青年ならもうちょっと器用に人をあしらえそうなのに、自分が不得意とする相手でも受け入れようとしてしまうちょっと不器用な人。というのが私の抱いた印象。その様子にかなり絆されていると思うのも事実。意識をしていないと言えば嘘になる、というのも、まあ概ね事実だろう。
     しかし彼を好きになろうものなら苦労するのは目に見えている。色んな意味で彼は厄介な相手だ。彼にはまだ私の知らない面も多いだろう。私はまだ彼をよく知らない、彼もまだ私をちゃんと知らない。だからまだ引き返せる。大丈夫、大丈夫。
     暑さに茹でられた思考。大丈夫、言い聞かせるようだと思う自分が薄い膜の向こうにいる。
     見慣れた車窓から見える風景。ぼんやりと考えている間に随分と時間は過ぎていて、降りる駅はもう次になっていた。

     電車から降りるとむわっとした空気が体を包んだけれど、感じる熱は少しばかり和らいでいるようだった。
     周囲の足並みより少しゆっくり歩いて駅を出た私はそのまま駅前のコンビニに吸い込まれた。このままコンビニでしばらく涼んでから帰ろう、ついでに冷たいものを買っていこう、という本能に従った結果だ。涼しい店内に、やっと生きた心地がする。
     帰ったらアイスでも食べようかな、溶けちゃうかな。そんなことを考えながらデザートコーナーをフラフラして、スナックコーナーで買いもしないチョコレートを眺めて、雑誌コーナーであまり読まないタイプの雑誌を手に取って、年齢的にこの辺を参考にしたほうがいいのかななんて考えていた、まさにその時だ。
     ガラスの向こうからこちらを見る、最近よくよく見慣れたその人と目が合った。朝はぴしりと締められているのに今は緩められたネクタイがたいへん目に毒な、夜の豊前くんだ。
     先程の自分の思考が脳裏にちらついた。いや、大丈夫だから。
     豊前くんはにっと笑うとコンビニに入ってきた。雑誌コーナーに立つ私にまっすぐ、長いコンパスでやってくる。
    「おつかれ」
    「お疲れ様……今日はなんだか、すっごい早い時間じゃない?」
    「俺だってたまには早く帰るちゃ。今日は出先から直帰だったからな」
     少しワクワクしているように見えるのは間違いではないだろう。彼は間違いなく夏の男なので、私とは逆にどんどんイキイキしているように見える。
     その私のげっそりした様子を感じたのだろうか、豊前くんは少し首を傾げるように私を覗き込んだ。近い。
    「疲れてる?」
     もう一度言うけど近い。距離。ああ鼻筋がすっと通っている。
    「暑いの苦手なんだよね」
    「冬派?」
    「どちらかと言えば」
     豊前くんの後ろから他のお客さんが入ってきたので、私達は自然と、どちらともなく一緒にコンビニの中を歩き始めた。
     ドリンクコーナーの前で足が止まる。
    「飲み物かアイスか、どっちにしようかなーって」
    「どっちも買えば?」
    「誘惑しないで」
     ビールの陳列されている扉を開いている豊前くんにそう言うと、彼は愛飲している銘柄を2本手にとってニコニコしながら一言。
    「誘惑されちまえよ」
     ……。
     自分が我慢しないからって人を巻き込もうとしないでほしい。
    「炭酸飲みたいけど、飲みきらないんだよね」
     暑いと炭酸を飲みたくなるのはあるあるだと思う。けれど半分も飲めば満足してしまうのでペットボトルを買うのはいつもためらってしまう。そんな私のぼやきに対し豊前くんは、
    「飲みきらなかったらもらってやろっか」
     と悪戯げな一言。
     ……。これで狙ってるんじゃないんだから、この男は相変わらず、学習もせずに本当に迂闊。
     私は右手の拳をぎゅっと握って、
    「買わないよ」
     そう言いながらスポーツドリンクを手に取った。

     結局レジでは豊前くんが私の分もすべてのお代を支払ってしまった。一緒のレジに持ち込まれてしまえば抗うことも出来ず、店員さんに迷惑をかけるワケにもいかず、唯々諾々と。
    「いつも世話になってるし、こんくらいたいしたことじゃねーよ」
     私の分まで片手にぶら下げて、豊前くんはお礼も受け取ってくれない。まあたしかにこの間彼の弟の野菜を大量の料理に変換したけれど。
     夏の月の光と、街灯の光に照らされる豊前くんとふたりで歩く帰り道。
     なんだか夢のようだ。
    「きれいだな」
     豊前くんがぼそっとこぼす。彼を見ると視線は遥か上空に注がれている。鮮やかでくっきりとした夏の月。
     なぁんだ。太陽だけじゃなくて月も似合うだなんて、ずるいやつ。
    「そうだね」
     月も、君も、きれい。






    7月中旬

    「えーっ、江さんも行きましょうよぉ」

     嬌声が走ったのはサラリーマンのための飲み屋が集まる町だ。がやがやと賑わう夜の町並みに、若い女性の高い声が響き渡る。
     会社の飲み会、その2次会までお付き合いしたから今日はもう終わり。3次会に向かう面々を見送り、私はひとりで酔いを覚ましがてら少し遠回り。ほろ酔いで駅に向かって歩いていた。
     そんな私の耳になんだか聞き覚えのある名前がすこんと届いて、思わず足を止めてしまった。
     声の方向をそーっと見るとそこにはやはり最近とみに見覚えのある男と、すがるように彼を引き止める女性の姿がある。
    「いや、俺は明日早いからさ」
    「でもあと一件くらい大丈夫ですよぉ」
    「それは俺が決めんだよなぁ」
    「ふふ、大丈夫ですって」
     なるほどこういう感じかぁ。断りきれないんだ。本気で断るならきっぱりと言えばいいのに。
     それにしても女性の方もなんとも押しが強い。きれいな人だ。豊前くんと並んで見劣りはしないと思う。きれいな長い髪、すらっとした体だけど、おっきい。
     それにしてもこんなところでまた豊前くんと出くわしてしまうとは、まったく何の因果だか。見つかる前に逃げようかな、そう思ったまさにそのときだ。
     困ったように首を撫でていた豊前くんは不意にぐるりと首をこちらに向けた。彼の吸い込まれるような、少し赤みを帯びた目と出会ってしまう。はっとして私に気づいた彼は、ついでほっと安心したような表情を浮かべた。
     なに。そう思ったときには、豊前くんは目の前の女性をするりとかわして私に駆け寄ってくる。
     えっやめて。きれいな人が唖然としてこちらを見ている。
    「迎えに来てくれたんだ?」
     その人にも聞こえるような通る声で豊前くんが私に声をかける。
     豊前くんが何をしたいのかはすぐに分かった。私、巻き込まれてる。
    「っ、やめてよ」
    「頼むって」
     小声で拒絶するが同じく小声で懇願される。その弱々しい声。きっと彼も酔っているのだ、目尻や耳が赤いのが分かる。
     豊前くんは私を隠すようにしながら自分の懐に抱き寄せた。大きな手が私の腰に添えられぬくもりが私を包む。香水は好まないという彼から香るのは、洗剤と酒精と、彼自身のにおい。
    「ごめん、迎えが来たから行くわ。みんなによろしく」
    「えっ、あの、江さん、」
     きれいな女性の戸惑う声を背中に聞きながら、豊前くんがぐいぐいと進むのに合わせて私も歩き出す。彼は私の腰から手を離すと、私の手を自分の腕に絡ませた。まだきっと彼女が私達を見ているだろう距離。だから私はやむをえず、豊前くんと腕を絡ませたまま歩いている。
     私達は無言だった。なにも言わず……少なくとも私は何も言えずただ彼に腕を任せて歩いている。豊前くんのぬくもりを今までで一番間近に感じている。それが気恥ずかして彼を見ることも出来ない。
     しばらく歩いて、横断歩道をわたりきったところでやっと私は声を上げた。
    「……ねえ、もう、いいでしょ」
    「もうちょっと。見えなくなるとこまで」
    「もう見えてないよ」
    「わかんねーだろ」
     そんなわけがない。もう随分と歩いた。それにもし仮に見ていたとしたら、今までお互いに一言も交わしていないのだから違和感に気づくはず。こんな工作は意味がない。
     腕を外そうとすると、彼は視線をこちらに向けて私の腕が去っていくのを見た。そして流れるように私の顔に目を向ける。
    「残念」
     彼の目と一瞬だけ、邂逅する。
    「……残念、じゃないよ。ちゃんと自分の言葉で断りなよ。私をカモフラージュにして断るのは不誠実」
     目を合わせ続けるのが怖くて私は彼を置いて歩き出す。足のコンパスの違う豊前くんはすぐに私の横に並んだ。彼は苦笑いしながら
    「ほんと言うとおりだよな」
     などと言っている。本気でそう思ってるのかな。
     私を利用したこともあのきれいな人に対しても不誠実。距離が空いて冷静に先程のことを思い出すにつれ、私は結構本気でムカついてきた。
     引き離すように大股で歩き出すと、豊前くんは少し驚いた顔をして歩を早め私の顔を覗き込んでくる。
    「……なあ、もしかして怒ってる?」
    「別に怒ってないけど」
     そう返すけれど語調が硬い。怒ってると伝えているようなものになってしまった。
    「怒ってるじゃんか。な、悪かったよ……」
     困ったように話しかけてくる豊前くんをちらりと見やる。声色と同じ表情の彼は、背も高い青年男性だと言うのに小さく縮こまっているように見えて、子どものようだ。


     電車を降りてふたりでとぼとぼと深夜の道を歩く。私も引っ込みがつかずに黙っているし、彼も時折私の様子を窺っては微かに唸って黙る。
     アパートまであと少しの、近所の公園の入口で。
    「なあ。まだ怒ってる?」
     豊前くんがそっと私の手首に触れた。掴むのではなく、触れるだけ。それがまた子どもの遠慮のような触れ方で、私は驚いてしまった。
    「怒って、ないよ」
    「ほんと?」
     彼の表情は暗がりでも分かる。困ったような、笑み。
    「……ちょっとさ、そこで話してかねえ?」
     豊前くんが目で示したのは公園。端から端までが一望できる、ちょっとした遊具とベンチがあるだけの本当に小さなこども公園だ。
    「はなし?」
    「いつも俺、あんたのことばっか聞くけどさ。たまには聞いてくれよ。俺のこと」
    「……聞くだけなら」
     その日起こったことやちょっとした日々のことのほか、彼は私のことを聞きたがった。あまり自分のことは話したがらない。そういう人なんだと思っていたから私もあえて聞こうとはしなかった。
    「つっても懺悔みたいなもん」
     公園内に入って一番近いベンチに腰を掛ける。互いに横に座って、開口一番そんな事を言う。
    「懺悔?」
    「あーいうの、断れないってこと」
    「ああ……」
     彼は長い膝に腕を乗せて、指を組みながら話を始める。
    「昔っから俺、誰かがやりたいこととか目標とか、そういうのを断れねーんだよな。頼られることも多かったし、それに応えるのには慣れてる。だから、ああいう風に女子たちが俺のこと気になってるのは分かるんだけど、それに付き合ってると、収集つかなくなっちまって」
     ぽつぽつと、考えながら話しているのはきっとそれなりにお酒が入っているからだろう。時折ベランダで一緒に話をするけれど、ビールをあおる彼とは酔う前に別れていたから。
    「だから誰かにああいう感じで来られても断りたいんだけど、今まで断るのってしてこなかったからなかなか慣れなくて」
     実体験に基づいているのだろう。なるほど、来る者拒まずだったということかな。でもそれで大変な思いをして、断ろうとしてるけど、断り方を知らないし強く出るにもその塩梅を知らない。
    「ほんと、豊前くんは不器用だね」
     私がそうやって長いため息とともに吐き出すと、彼は自嘲するように乾いた笑いをこぼした。 
    「俺さぁ、弟いっぱいいるって言っただろ。ほんとは弟じゃないんだよな」
     とんでもないことを言う。
     いきなり衝撃発言では?
    「え。こないだのアシンメトリー美人も?」
     きれいな見た目の、ド低音の人。
     豊前くんは少し楽しそうに笑った。
    「はは、松のこと? みんな従兄とかはとことか。いろいろあって俺の弟になったんだけど。いきなり弟がいっぱい増えたから、そいつらのこと守ってやんなきゃ、頼られる兄貴になんなきゃって思ってたらさ」
     彼は立ち上がり、うーんと伸びをする。
    「別にそんな自分が嫌なわけじゃねえんだけど、あんたのこと利用したのは確かにまずかったし不誠実っていうのは……事実だよなって思う」
     振り返り私を見下ろした。
    「本当にごめん。許してくれる?」
    「……今日は随分、饒舌だね」
     弱いところを見せられて、私は緩くなっているタガを感じている。
     豊前くんはうるんだ目で私を見つめる。嬉しそうな声で、ほころぶような笑みを浮かべた。
    「あんたは俺にはどっかで気を許してないから、安心してあんたに甘えられるのかも」
     酔った彼の言葉は本音だろう。
     はあ。ひどい男だ。
     私は少し彼を知ってしまったけれど、彼はまだ私をちゃんと知らない。だからまだ大丈夫。







    7月中旬(番外編)

     俺には兄弟が多いけど、血の繋がりで言うなら従兄弟やはとこが正しい。
     いろいろあって従兄弟たちほとんどが兄弟になって。もともと一番元気でみんなを引っ張ってくれてた豊前が俺たちの兄ちゃんになってくれたから、俺たちはひとまとまりにいられた。
     でも豊前はたぶんいろんなことを諦めたんだと思う。俺たちは小さい頃は気づかなかったけど、成長するにつれてそれに気付いた。だから俺たちは豊前が気になって、一人暮らしをするって言ったときにみんなで頻繁に会いに行こうって決めた。
     それで今日は俺。この間篭手くんと桑名が行ったときに野菜を引くほど持っていったけどあれはどうなっただろう。豊前は料理ができない、本当にできない。なんでも卒なくこなすけれど料理だけはなぜか出来ない。桂剥きはできるのに。まあ俺たち兄弟は全員桂剥きできるけど。
     ビーという古いチャイムの音がまぬけだ。俺が鳴らしてすぐに、ばたばたと音がして確認もしない内に扉が開けられる。
    「雲!」
     俺たちの長兄は扉を開けるなり俺の肩を抱きすくめた。相変わらずの距離感だ。今更名残惜しくはないが、懐かしくなってしまう。
    「ひさびさー。元気」
    「たりめーだろ。ほら入れ」
     そうやって俺を部屋に引き入れる。
     部屋の中は実家の頃のようにきれいなものだったけれど、プラごみの量はやっぱりすごかった。弁当買ってきたりしてるんだろうなぁ。
     それでも意外なのはタッパーがいくつかあることだ。カラカラだろうと思っていたシンクに洗った食器を乾かすやつがあって、そこにタッパーがひっくり返しにされている。
     豊前に限って作り置きするようなことあるか? ありえない。女でも出来た? でもあの豊前に、こんなタッパーに料理を保存するような女ができるわけない。来る者拒まず去る者追わず、見栄え重視みたいな女としか付き合ってこなかったこの男。いや、断れなかった男だぞ。
     俺はあとで探りを入れようと考えながら、桑名から預かった野菜をどさりと床に置いた。
    「うわ、また持ってきたな」
    「ほんと重たかったよ。どうなの、ちゃんと食べてる?」
     俺のその言葉に、豊前は苦笑しながら頭をかいた。
    「食えるのは食ってるよ。それに、あー。まあ野菜をあげて、そのお礼に料理したのもらったりしてるし」
     はぐらかすような言い方をする。これは……どっちだ? 女か? 近所のおばちゃんか?
    「まあ食べてるならいいけど」
     今攻めるのはまだ早いかな。今日は夕方までいる予定だから、それまでにタイミングを見計らおう。
    「昼まだだよな? ちょっと早いけどピザ取ろうぜ」
    「昼からピザかぁ。いいけど」
    「ピザ屋のチラシはいってたから食いたくってさ」
     そうやって机の下に無造作に放られた、少ししわしわのチラシを見ながら俺たちはピザをデリバリーした。
     懐かしい、豊前はあんまり変わってないみたいだ。
     一人暮らしをすると言い出したとき反対したのは篭手くんだった。料理のこともあるけど、豊前がどこか行っちゃうんじゃないかと、豊前がいないところでみんなにメソメソ泣きついていた。篭手くんは豊前に一番懐いていたから。俺たちがまだ兄弟になりたての頃、豊前が一番目をかけていたのも篭手くんだった。
     でも豊前はここに足をつけて生きてる。俺はそれが分かって、今日来てよかったとほっとした。

     ぐだぐだと喋りながらピザを食べて、一息ついたところで俺たちはベランダに出て一服をはじめる。
     ベランダに出ようとしたとき豊前は少し挙動不審だった。俺に
    「お前はそこに座って吸え」
     とベランダの入り口を示して、自分は手すりにもたれ掛かってお隣さんをチラチラと見ている。タバコを吸ってると文句でも言われるのかな。時代的に仕方ない。
     雨さんが今どこにいるのかと聞かれて、俺は知らないと応える。季語を探すカメラマンの雨さんは年中あちこち飛び回っているから、俺ももう居場所を特定するのは諦めている。その代わり電話は絶対に出てもらう……うぅ、思い出してお腹痛い。雨さんに会いたい。
     俺が雨さんに思いを馳せていると。
    「あれ、豊前くんいるの?」
     と、急に声がかけられて俺は心底びっくりした。お隣さんだ。若そうな女の人の声。
     豊前は気安そうに笑って、身を乗り出してお隣さんとの仕切りの向こうに顔を向けている。
    「おー。すまん、タバコ吸ってる。なんか干す?」
    「ちょっとクッション干そうかと思ったけど……10分くらい待ってあげるから、それで吸い終わる?」
    「でーじょぶ。な、今また弟が来ててさ、野菜もらったんだけど、また作ってくれる?」
    「もう……え、弟さん居るの? アシンメトリー美人さん?」
    「ちげーよ。松ばっかだな。今日は違うやつ」
    「ふぅん。じゃあお邪魔しちゃいけないね。……ねえ本当に野菜あるの?」
    「たくさんある。なあ、頼むよ。あんたの料理うまいんだよな」
    「ふー……分かった。あとで頂戴。タッパーその時に返してね」
    「ありがと。じゃあ今日の夜話そうぜ」
    「あぁ……うん。いいよ。じゃあまた」
     俺は体中に鳥肌が立っていた。
     あの豊前が。俺たちに甘えまいと、誰にも頼ろうとしないで無理ばかりして、人のことばかり考えていた豊前が、甘えられる人を作った。夜話せるってなんだ?
     お隣さんの気配が消えるまで待つと、俺はタバコを押し潰して火を消して豊前を部屋の中に引き込んだ。目を白黒させている豊前は俺にされるがままだ。
    「な、なんした」
    「豊前、お隣さんとどういう関係なの」
     つい食い気味に質問してしまう。あのやり取り。日常的に交流を持って料理を作ってくれるのはお隣さんだった。
     あの豊前の言葉。あんな風に誰かに頼るように話す豊前は久しぶりに見た。本当に子供のころだ。
     豊前はキョトンとしたまま素直に答えた。
    「どういうって。普通の隣人……まあ友達か。同い年の女子なんだけど、良いやつなんだよ」
     頭が殴られたみたいな衝撃。
     こいつ! あれだけの会話でも俺には察するものがあったのに、自覚ゼロ!? 信じられない!
    「普通の隣人は、ただの友達は野菜もらっても料理のお裾分けなんか常にしないんだけど!? もしかして豊前、自分が今の人にどれだけ甘えてるか分かってないの?」
    「あ、甘えてるって……いや、頼ってるなとは思ってるけど」
     少し目を伏せて照れくさそうにしている。これは多分、甘えてることには少し自覚がある。
     俺はお腹の痛みよりもずっと激しく腹が立ってきて、豊前の左胸に軽く拳をぶつけた。どん、という音。豊前は驚いて俺を見ている。
    「ねえ豊前、想像してよ。お隣さんが、彼氏に悪いからもう料理はできません、今までみたいには付き合えませんって言うところ」
     俺がそう言うと豊前は目をまん丸にして、信じられないという表情を浮かべる。
     信じられないのは俺の方だよ。お腹が痛い。
     豊前は変わってない。いつまで経っても周りを優先する。
    「もう俺たち大丈夫だよ。そろそろ人のことじゃなくて、自分の感情でものを考えなよ」
    「村雲、」
    「俺ですら分かるのに豊前が分かってないなんておかしいからね」
     恋人なんて誰でも良かった豊前があの人に甘えて、自分からお願いをしていることも。……お隣さんの、あの様子も、たぶん。そうであってもそうでなくてもどちらでもいいけれど。俺は豊前に、自分の感情に気付いて欲しいだけ。
     唖然としている豊前から拳を離して、俺は自分のバッグを手に取った。
    「お腹痛いから帰る」
    「な、おい雲」
    「今日の夜お隣さんと会うまでに、俺の言ったこと考えて。自分の感情を優先して」
     豊前が後を追ってくるけれど俺は無視して玄関まで行く。今日はもう嫌だ。お腹痛い。
     玄関まで付いてきた豊前に、「また来るから」と告げていーっと顰め面をして俺は扉を締めた。
     お腹痛い。俺はアパートの外の道路まで出ると振り返って豊前の部屋の方を見上げた。そこにはやっぱり豊前が立っていて、なんとも頼りなさそうな顔で俺を見下ろしている。
     俺が手を降ると、豊前もまた手を振ってくれる。
     道路の角を曲がると俺は携帯を取り出し、画面も見ずにコールする。コールは2回で途切れ、『どうしました』という声。
     俺は痛む腹を撫でながら「雨さん、聞いてよ!」と大声を出してしまった。







    8月上旬

     いよいよ本格的な夏が始まってしまった。暑さに弱い私は今日も家でゆっくり涼んでいる。
     一日中クーラーの効いた部屋でゴロゴロしていたけれどさすがに不健全な気がして、日が落ちてようやくベランダの戸を開けた。生暖かい風がふわっと入ってくるけれど、冷えた肌には逆にちょうどよいくらいかもしれない。
    「お、生きてるか」
     嗅ぎ慣れたタバコの匂いと、もう随分と聞き慣れた声。
    「豊前くんいたんだ」
     気配を感じなかったから今日は出かけているのだと思っていた。サンダルをつっかけて顔を出すと、彼は部屋の床に腰を下ろしベランダに長い足を投げ出している。
    「俺だってたまにはゆっくりするよ。一服してた」
    「珍しいね」
     最近の彼は少し様子がおかしくて、前よりも少し迂闊なところがなくなった。いやそれが正常といったほうが良いのか。距離も適正、やたらと目を合わせることもなくなったし、思わせぶりな言動は減った気がする。おかげで私は大変穏やかな気持で過ごせている。このまま彼には迂闊なところを改めてもらいたい。そうすればきっと、彼の見た目や思わせぶりな態度に騙されないすてきな人と出会うだろう。そうすればきっと、私の勘違いも終わる。
     豊前くんはのっそりと立ち上がり、うーんと高く伸びをする。そして手すりに背中を預けてタバコをふかした。
     はじめてここで会った時もこの体勢だった。あのときは仕事終わりの着崩したスーツ姿で、少しうなだれながらビールを飲んでたっけ。たったの3ヶ月前のことだけど、随分と、物理的ではなく精神的な距離が縮まってしまった。
    「やっと涼しくなってきた。今日は暑かったな」
    「部屋開けてたの? そりゃ暑いよ」
     ずっと窓を開けていたのなら、そりゃあ暑い。エアコンはあるのだから適宜使うべきだ。私がそうやって笑うと、彼はなぜか私を恨めしそうな目で見る。
    「なに?」
    「別に」
     体調管理、環境管理は自分の責任でして欲しい。暑いのは私のせいではないので拗ねられても困る。
     目線の意味がわからない私に向かって、豊前くんは少しためらいがちに口を開いた。
    「あのさ」
    「なに」
     さっきから、いつもより様子が変。豊前くんが体ごとこちらに向いて、タバコを挟む手で自分の口元を隠すようにして、でも目線を私じゃなくて町並みに向ける。
    「今日、花火あるんだろ。一緒に見ねえ?」
    「……ん?」
    「今から出かけるのはもう遅いけど、こっからでも見えるって聞いたぜ」
    「……?」
    「……黙るなよ」
     はっ。ちょっと意識が飛んでいた。
     今彼はなんと言った?
     花火あるんだろ。一緒に見ねえ? 言ったな。言ってたな。なんで? そんな風情のあることする必要ある?
     もう暗い、町並みの明かりを見ていた豊前くんがこちらに顔を向ける。困ったように眉をハの字にして、まるで照れているような顔。目が合うと唇を少し尖らせた。
    「嫌なら良いけど」
    「あ、ごめん。あの、別に嫌ではないけど」
    「じゃあ一緒に見よ。8時からだったかな。もうちょい時間あるし、花火が上がるまで酒でも飲もうぜ」
     彼は「酒持ってくる。なんか飲みたいのあればやるよ」と言いながら部屋に引っ込んだ。あれよあれよと言う間に決まった彼との花火鑑賞に、私は呆然としながら立ち尽くしてしまう。
     ついさっき豊前くんの適正距離が治ったなんて思っていたけどとんでもない。急に真横に来るレベルで近寄ってきたので頭のてっぺんから足の先まで全部が驚いているみたいだ。
    「今日は買い出しに出たからな、いっぱいあるぜ。何が良い? ビールもハイボールも、甘いのもある」
     豊前くんの声が遠くから聞こえてくる。冷蔵庫を見ながら話しているのだろう。
     驚いてる場合じゃない。会話、会話しないと。
    「最初は豊前くんに合わせてあげる」
    「ほんと? やさしーの。じゃあビールだな」
     楽しそうな声だ。私とお酒を飲んで、花火を見て楽しめるなんて楽しいのハードルが低い。
    「……私もなんか用意しようかな」
     冷蔵庫の中を思い出す。キャベツの浅漬と、ああキャンディチーズがある。あと、と考えたところで、食欲を触発された胃袋がきゅうと鳴った。そもそも夕飯をまだ食べていない。
    「ねえ、豊前くん、夕飯は?」
    「ん? まだ食ってないけど、つまみはある」
    「仕方ないな……」
     冷蔵庫の中身はもう思い出した。材料はある。豊前くんに聞こえるように声を上げた。
    「焼きうどん作るから、それ食べよう」
     豊前くんの嬉しそうな応えが返ってくる。胸がむずむずした。

     ***

     お互いがお互いの部屋のベランダで、夜の町並みを眺め立ちながら食べる焼きうどん。初めての経験だ。
     冷凍麺の手抜き焼きうどんを、豊前くんはうまいうまいと食べてくれた。私も食べたけど味は普通だ。けれど料理だけはできない彼からすればありがたいものなのだろう。
    「あんたの料理はほんと、何食べてもうまいな」
    「どーも」
    「なんだよ、気のねえ返事。本当にそう思ってるぞ」
     私は応えずにビールを飲んだ。ぐび、ぐびとあおると豊前くんは「お、いい飲みっぷり」と一言。
    「っふう、」
     飲まないとやってられない、そんなやさぐれた気持ちだ。飲み干してからになった缶を足元に置く。
    「あんまり飛ばすなよ、花火はこれからなんだから。でも次は何飲む?」
    「缶チューハイあるって言った?」
    「あるって言った。ちょっと待ってて」
     食べ終わってすぐにタバコに火をつけた彼は、タバコを咥えながら部屋に戻っていく。たぶんお酒を飲んで少し自制が効かなくなっている。あんなに室内にはタバコを持ち込まなかったのに。
     冷蔵庫から自分のビールと私の缶チューハイを手にして戻ってきた彼が、
    「そろそろ時間だな」
     と告げた。私が自室の時計に目を向けると確かにそんな時間になろうとしている。豊前くんから缶チューハイを受け取りながら手すりに寄り掛かると、豊前くんも同じようにして夜の町並みに目を向けた。
     しばらくの間私達は黙っていた。遠くに聞こえる日常の音、車の音、風の音、どこかの人の声。それらを豊前くんと共有するようになって3ヶ月。時折こうやって過ごした私達の、長いようで短い時間は緩やかに流れていた。
    「……なあ、すごい今更の話するんだけど」
     豊前くんが私を見た。
    「なに?」
    「あんたって彼氏、いないよな?」
     は?
     絶句した私の様子を見て、豊前くんはどう思ったのか少し慌てている。
    「いや、ちがう、ほら俺、なんかあんたに随分世話になってるから、いたら悪かったなって」
    「……いないよ。いたらこんなことしてないよ」
     その答えを豊前くんはどう受け止めたのだろう。タバコを挟んだ手でまた先程みたいに口元を覆いながら
    「よかった、もしいたら……その、彼氏に悪かったもんな」
     とぽつり。
     まったく、少しよくなったと思った彼の悪癖はまだ治っていない。
    「……なあ、」
     急に彼が、仕切り板越しの私に接近した、そのとき。
     ひゅう、という風を切る音。
     意識がそちらに向いて、
     ーーパン、と夜の空に花が開いた。
    「花火始まったね」
     私が外に身を乗り出すと、豊前くんも
    「そうだな」
     と言って、花火に目を向けた。
     それから私達は、言葉少なく花火を見ていた。ばかみたいに薄い板を間に挟んで、鮮やかで、大きい夜の花を。

     ****

    「じゃあ、おやすみ」
     花火が終わった私達は、そう言葉を交わしてそれぞれの自室に戻った。
     花火を見終わった豊前くんはなぜか凪のように静かになっていた。けれど目だけは熱をともしているように見えたのは、私の勘違いだ。
     そう、勘違い。
     ……ああ、もう。久々のこの感じ。
     勘違いしそうになる。心が叫びそうになる。でも大丈夫。
     彼の悩みを私は知っている。誰に対しても距離が近くて勘違いさせてしまうことが、彼の悩みだ。
     大丈夫。私は、私は彼に気を許してない。ちゃんと一線を引けている。

     ーーだからこの時間はもう少し続く。







    8月中旬

     平日の夜、アパートに着き自分の部屋の玄関が見えたところで、その奥の廊下片隅に人影を見つけて私はぎょっとしてしまった。壁に沿って直立不動の男の人が居る。この時間に住人じゃない人が立っているのは怖い。なんでもない顔をして自分の部屋に向かうけれど、彼は私に気づいていて、私が鍵を滑らせようとしたとことろで
    「すみません」
     と声をかけてきた。
     一歩近寄ってきた彼はまた随分な美青年だった。怜悧という一語がよく似合う切れ長の目でスッと見られて、もうそれだけで、もしかすると弟のひとりかなと思ってしまう程度にはイケメンだ。
     しかしそんなのは関係ない。一応若い女なので、夜に見知らぬ男に話しかけられるのはどうやったって警戒する。
    「なんですか」
    「怖がらせて申し訳ありません。ここの、江の身内のものなのですが」
     そう言って豊前くんの部屋を示す彼は頭を下げた。
     やっぱり、と少しだけ警戒を解く。でもまだ怖いのは怖い。
    「ぶぜ……江さんでしたら、多分まだ帰りませんよ。いつもなにも無ければ9時とか10時に帰ってくるので。連絡取れないんですか?」
     兄弟なのであれば連絡を取り合うものだろう。私がそうやって言うと、彼は緩く頭を横に振り、
    「連絡はしてないので。なるほど、豊前はいつも帰宅が遅いのですね」
     ふうんと言わんばかりに鼻を鳴らしながら何度か頷いている。そして、
    「実は先日雲さんからあなたの話をうかがいまして」
     と私をじっと見つめてきた。まるで見透かそうとするみたいな試す目をしていて、私はとても居心地が悪い。
    「わ、私、ですか? 雲?」
    「先日来た豊前の弟です。私もですが。雲さんから話を聞いて、あなたに会えればいいなと」
     なぜ。
    「なぜ」
     そのまま声に出る。なぜ豊前くんの兄弟が私と会いたいなどという感想を持つというのだ。
    「豊前の食生活を支えていただいているとか。ぜひともお礼をと」
    「あ、ああ……そういう……」
     その理由は筋が通っているように聞こえるけれど、どこか違うような気もする。理由はないけどそう思った。
     弟くんは豊前くんの部屋の玄関口に置いてあったビニール袋を手に取り、私に手渡してくる。
    「こちらを」
    「え、え?」
    「豊前への野菜の仕送りです。お隣さんが料理をしてくれるとうかがいました。もう最初からお渡ししても?」
    「それはさすがにおかしいのでは?」
     受け取らずに両手を横に振ると、彼は小首をかしげている。
     いやほんとにおかしいでしょ。段々分かってきた。この人、かなりマイペースだ。たぶん豊前くん以上のマイペースかもしれない。
    「今回は調理しないと食べられないものばかりなので、放っておいても豊前は食べないでしょう。あ、豊前はいつもお礼を渡していますか? ただ野菜を渡すだけではなく、料理していただいているお礼は」
    「え、私も半分はただで野菜をもらってるので別に……」
    「……」
     弟さんが黙る。そして、またあの見透かすような目で私を見つめた。
    「ただで野菜をもらうから、何度も料理を作ってお裾分けしてくれるのですか?」
    「……そうですよ。量も多くて、食べきれないから」
     私の答えを聞いた弟さんは、「そうですか」と淡々と返すと私の部屋の前に袋を勝手に置く。いやだからおかしいでしょ。
    「来週の金曜日、豊前は誕生日なんです」
    「は、え?」
     彼のマイペースに私はついていけない。
     誕生日? え、豊前くん来週誕生日なの?
     混乱する頭で言葉を拾う。
     彼は淡々と続ける。
    「豊前は誰でも良いからお祝いしてもらいたいというタイプではないですし、ああ見えて寂しがりなので兄弟の誰かが来ようと言っていたのですが、生憎全員予定がありまして。お隣さんにお任せしてもいいですか」
    「いや、待っ……てください? それはおかしいですよ。ただの隣人ですよ、私」
     慌てて言い募ると、弟さんはフフと初めて笑みを浮かべた。
    「誰でも良いからお祝いしてもらいたいというタイプではないので。お願いします、おめでとうと一言言ってくださればそれでいいです」
     そして彼は「いや、でも」という私の反論を無視して、「夜分にすみませんでした」と頭を下げて去ってしまった。

     取り残された私は、野菜の入った袋を眺めながらしゃがみ込むしか出来ない。
     兄弟揃って私のことを勘違いさせようとするひどいやつらだ。
     来週の金曜日? 誕生日? 私はどうすればいいの? だって誕生日をお祝いするなんてそんなの、どう考えたって一線を越えてる。
     そうしたら認めなければならない。認めちゃいけない。
     それを越えてしまったらもう今までのような、彼の友達にはなれなくなって、ベランダでのひとときなんて過ごせなくなるのだ。






    8月下旬

     誕生日を迎えるまではまるで落ち着かない日々だった。
     豊前くんに誕生日の確認することも出来ず、弟くんから貰った野菜のことを告げることも出来ず。
     貰った野菜は自分一人で消化しきれる量だったけれど、彼の弟から預かった豊前くんへのおみやげという事実によってお裾分けの料理を作るざるを得なかった。かといってなんと言って彼に料理のお裾分けをしていいのかも悩んだし、誕生日を知ったことをこちらから言及したら”そう”思われるんじゃないかと、とにかく頭を抱えることになり。
     結局何も言わず「貰い物の野菜で料理をした」と言ってタッパーを押し付けた。口をもごもご言わせながら受け取った彼は、どんな顔をしていただろう。なにを思っただろう。彼の弟の野菜という理由のない、料理のおすそ分けに対して。
    「あ、ありがと……」
     という言葉だけを聞いて、私はそそくさとその場を去ったから分からない。

     認めるわけにはいかないという言葉の裏など自分ではとうに分かっていて、ただこの状況を手放すのが惜しくてあがいているだけだ。
     すでに私はあのとき彼に言い寄っていた女性と同じだ。その違いは彼が私を警戒しているかいないか。けれど豊前くんは私が彼に恋愛感情を抱いていないから警戒していないだけなのだ。
     だから私から誕生日のお祝いなどできるわけがない。
     金曜日の夜といえば豊前くんは比較的帰宅が早くて、ここのところ毎週一緒にベランダで過ごしている。なにごともなければきっと今週もそうだろう。誕生日である今週の金曜日、私はどうするべきだろう。
     もうどうこうなれる関係ではないのは分かっている。豊前くんがいつか心を許せる人と出会うまで、それかどちらかがこのアパートを出ていくまで、ここで隣人として一緒に過ごすことだけが今の望みだ。

     *******

     金曜も話せる? と聞かれたのは水曜日の出勤時に出くわしたときのことだ。
     そう尋ねる彼は誕生日だとかそういうことは言わなかった。その時に言えばよかったのだろうか。『誕生日に私と一緒に居ちゃだめでしょ』と。でも弟が来たことを言えずに料理を渡した時点でその選択肢は潰えていた。
     結局ずるずると拒否もできない私は今こうして、彼を待ってベランダでぼんやりとしている。
     この関係はなんだろう。知人。隣人。友人。『友人』とはなんだろう。待ち合わせて夜中に話をすることは男女の『友人』としてありなのだろうか。けれど豊前くんは、彼の言動を見ても話を聞いても人との距離が近いから、きっとありの範囲も広いのだろうと思う。それが人に勘違いをもたらすわけだけれど。
     冷静になりたくていつもの時間より早くベランダで外の空気を吸っていたから、少し小走りで帰ってくる豊前くんの姿が見えた。私の姿を認めた彼はスピードを緩めると私に向かって手を降る。私は小さく振り返した。

    「お疲れさん」
    「お疲れ様」
     ベランダに出てきた豊前くんはいつも通りビールを片手に、タバコを咥えていた。火をつけるとネクタイを解いて部屋の中に投げ捨てる。
    「付き合わせて悪い」
    「いつものことだし全然」
     いつも通りだ。なんとなく金曜と言えばお互いに時間を合わせて話をした。約束をしたのが今回初めてなだけ。それも、彼の弟くんが言っていたように『豊前は寂しがりだから』誰かと一緒にいたいだけなのかもしれない。それだけ。
    「まだあっちーな」
     ビールをごくりと嚥下し、ゆらゆらと揺らしながら豊前くんがぼやく。
    「そりゃ8月だもん」
    「そうだけど、さすがに今年は暑い」
     今年は例年より暑い猛暑だ。今日だって大変暑いし、今もうだるように暑い。
    「あんた、暑いの苦手だもんな。でーじょぶ?」
     首をかしげながら覗き込んでくる豊前くんから目をそらし、「このくらいなら大丈夫」と返した。人の気も知らないで、本当に迂闊な男だ。
    「俺夏生まれだから暑いのは得意なんだよな」
    「へえ、そんな感じはするね」
    「……うん。あのさ」
     まごついたように言葉を詰まらせた豊前くんは、タバコをすーっと吸い、長く長く吐き出した。私はただそれを見るだけ。
     肺の中の空気を全部吐き出したんじゃないかと思うほど長く煙を吐き出した彼は、手すりに肘を付き、手のひらで額を支えながら私を見つめた。
    「俺、今日、誕生日」
     部屋から差し込む明かりが彼の顔を照らしているけれどその逆は暗い。
     光と影をないまぜに浴びる彼の、耳の縁の赤く見えるのは。
     そしてまるで照れているような。その表情を私はどう受け止めればいいのだろう。その目の奥にあるものを私はどう受け止めればいいのだろう。
    「……お祝いしてくれん?」
     彼から伝わってくる期待と、切望と、……でも、あとは私の勘違い。
    「そうなんだ、おめでとう!」
     私はつとめて明るく彼にお祝いの言葉を伝える。その言葉自体は本当だ。誕生日をお祝いしたいという気持ちはずっとあった。
    「自分から言うのもなんだけどさ、あんたが祝ってくれたら嬉しいなって思って。ありがと」
     とはにかむ豊前くんは嬉しそうだ。
    「なにかプレゼントとかほしい?」
    「そんなんいいよ、あんたにはいつもうまいもん作ってもらってるし、十分」
     探るように尋ねると豊前くんは首を緩く横に振った。やっぱり彼は誕生日に誰かといたかっただけだ。弟くんたちが来ないから私を頼っただけ。
     グラスを持つ手に力が入っていることに気付いて、手の力を意識して抜く。
    「時が経つのは早いよ」
     また暗い町並みに目を向けながら豊前くんがぽつりとこぼす。
     本当に早い。彼と知り合ってからの3ヶ月は瞬く間に過ぎていた。最初はただの隣人だったのに。
    「今はこんなに暑いけど、あと一ヶ月もすりゃ涼しくなって、あっという間に寒くなるんだろうな」
    「そうだね。私は早く涼しくなってほしいよ」
    「はは、あんたはそうだよな」
     と、からりと笑ったはずの豊前くんは、不意にタバコをぐりぐりと灰皿に押し付け「う~ん」とうなりながら手すりに突っ伏した。
    「な、なに」
     突然の行動に動揺する。豊前くんはそのままの体勢で呟いた。
    「今も夜はすっげえ暑いしさ、じきに涼しくなって、寒くなるだろ」
    「うん」
    「……んで、ベランダで一緒に話すよりさ……」
     そこでしばらく彼は黙った。私は彼が何を言おうとするのか、分かるような気もしたしまったく分からないような気もして立ち尽くしている。
     バッと体を起こした豊前くんが私を見る。その表情は真剣そのもので、今まで見たことがない。
    「ベランダで話すんじゃなくてさ。俺は頑丈だけどあんたが風邪引いてもいけねえし。……だから俺、あんたの部屋、行ったらまずいかな」
    「え」
    「あ、こっち来てくれてもいいんだけど。別になんもしねーよ、しねーけど、あんたともっと話がしてーなと……」
     言いながら彼の語気は次第に弱まっていく。
     私が何も言わないからだろうか。彼に捉えられた私の目は、彼の方から逸らされる。
    「……あー、部屋は警戒するか。わりぃ、やっぱ忘れてくれ」
     頭をかき困ったように自分の首元をさすりながら、豊前くんは缶ビールを一気に飲み干すと、
    「ほんと、あの、忘れて。祝ってくれてありがと。おやすみ」
     そう一気に言い放って、部屋に入っていってしまう。
     結局私は一言も発することが出来なかった。
     置いたグラスを放ったまま部屋に戻った私は、整理もつかず理由も分からないで溢れ続ける涙を抑えきれず布団に飛び込んだ。
     明日からどういう顔で豊前くんに会ったらいいんだろう。
     ちらりとそんなことを悩んだけれど、翌日の土曜日から豊前くんは隣の部屋に帰ってこなくなってしまったので、私のそんな悩みは意味のないものになってしまった。







    9月上旬

     9月になった。月が変わったからと言って気候が変わるわけではないけれど一応は季節が秋になって。豊前くんが隣に帰ってこなくなってしまってから、一週間が経っている。
     気にならないわけがない。
     あれはなんだったの。どういうつもりだったの。どういう意味だったの。
     聞きたくて仕方ないけれど、どんな顔をすればいいのかと思って悩んでいたのに、帰ってこない。
     毎日が苦しくて仕方がない。
     私の態度がいけなかったのかな。それだけで帰ってこなくなるなんてことある? あの豊前くんに限って? 私のことを嫌いになって? 想像しただけで落ち込む。
     でも彼が言ったのだ。
    『あんたは俺にはどっかで気を許してないから、安心してあんたに甘えられるのかも』
     そばにいていたいと思ってしまった。それはもう認めるしかない、この苦しさに耐えるには。だからそれを守っていたのに。
     それとも事故にあってしまったとかそういうこともあり得るだろうか。

     毎日が憂鬱で家事も疎かになっていて料理をする気にもなれない。特に今日はまだまだ暑く、少し日が落ちてから近所のコンビニに出かけるのが精一杯だった。
     夏から秋にかけての夕方は物寂しい。私の気持ちが落ち込んでいるからだろうか。携帯に手を伸ばし時間を確認して、そのままじっと見つめる。
     私は豊前くんの友達ですらない。だって私は彼の連絡先も知らない。元気なの、とか。どうしたのとか。そんなことを聞く手段すら持たなかった。それでも十分だったのだ、だって毎日のように顔を見ていたから。職場の女性にまた言い寄られたと言われて曖昧な態度だからだよと返して、今日は暑かったなとか明日は雨だよとか、そんな他愛無いことを話して、そうやって一緒にいられることが嬉しかった。
     でもそれは片方が切ろうとすれば簡単に切れるもの。私はその刹那的な時間にすがっていたと気付かされてしまった。
     数えるのもうっとうしいくらいの、何百回目のため息が出る。
     そうして自分の部屋の階まで着いてバッグから鍵を取り出し、玄関まで後数歩というところで、奥の部屋の扉が開いた。
     鍵を手にしたまま立ち尽くす。
     豊前くんがいる。
     そう叫んだ私の心臓は大きくドクンと跳ねたけれど、豊前くんの部屋から出てきたのは見覚えのない若い青年だった。高校生か大学生くらいに見える彼は、私の姿を認めるとなぜか目をまん丸に開いてぴょんと飛び跳ねた。
    「お隣さんですか?」
     元気な声で尋ねられて、私は素直に頷いてしまう。すると彼はなぜか嬉しそうに笑った。
    「あのっ、りぃっ……んん、江の身内のものなのですが、いつも兄がお世話になっているようで、本当にありがとうございます」
     すっと伸びた背筋で頭を深々と下げる。美しい所作で驚いた。初めて見たブルーのアシンメトリー美人も、この間話をしたミステリアス美青年もそうだけどこの一族は揃いも揃ってなんなの? アイドル一家か?
     それにしても世話になっているとかそれもツッコミどころなんだけれど、先程の扉を開いたときの衝撃で頭がうまく働いていない。
    「ええと……お世話なんて言うほどのことなんてしてないし」
    「いえ、私達が一番心配していたのが食事なので。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ないですが、私達はほっとしていて」
     一人称まで美しいのね。彼は顔を上げてにこにこしている。
    「お隣さんのおかげです。ありがとうございます」
    「いえ、そんな……それにしても、兄弟、本当に多いのね」
     この子にアシンメトリー美人、ミステリアス美青年に農家の人。あとこの間タバコを吸っていたのはまた別の人なのかな。言葉では聞いていたけれど、実際に弟を何人も見ると実感する。弟くんは、はいと頷いた。
    「りいだあが私達の兄になってくれたんです」
    「りいだあ」
    「……あっ、」
     聞き慣れない単語を繰り返すと、「それがなにか?」という顔をしていた弟くんは急に頬を赤らめる。かわいいなおい。
    「あの、兄の……豊前のことです。もともと従兄弟だったのでそのときの呼び方が抜けなくて」
     そうなんだね。従兄弟にりいだあ? まあいいや。
     ふっと、弟くんは私の目を見た。豊前くんとは違うやわらかな雰囲気の彼だけど、目の強さだけはよく似ていた。そんな目で見られれば私は逸らせない。
    「りいだあは本当に優しくて、私達のわがままを聞いてくれて自分のことを後回しにするような人で」
     弟くんは体中から喜びを発している。彼は一体何を勘違いしているんだろう。
    「りいだあが頼れる人を作れたのは本当に嬉しいんです」
     だから、本当に感謝しているんです。その言葉は膜をまとったようにおぼろげに聞こえた。
     それを言う相手は私ではないのではないだろうか。急に体中の体温が下がった気がした。
    「……弟くんは誰かと勘違いしているみたいだけど、私と豊前くんはそんな仲じゃないよ」
    「え、」
    「だって私、豊前くんの連絡先も知らないし」
     弟くんがまん丸な目をこれ以上なく見開く。本当のことだもの。
    「豊前くんがなんで今いないのかも知らないし、なんだか申し訳ないんだけど、ただの隣人なので」
     言いながら目の奥がきゅうと苦しくなって目を強くつぶった。
     ため息にもならない息をふうと吐いてから目を開くと、たぶん私以上に青ざめている弟くんがいた。
    「……豊前くんは元気?」
    「あっ、えっ、あの、は……はい、あの、りいだあは本当に急な出張で今アメリカに行っていて」
    「っはは、アメリカ? 喋れるの?」
     出張。急な出張ね。それを知ることも出来ない間柄。それが私達だ。
     空笑いをする私を見た弟くんはどうしたことか真顔になる。
    「りいだあは来週には戻ってくるので。水曜か……木曜と言っていました」
     質問はスルーされてしまった。彼はそうしてまた頭を下げる。
    「りいだあが帰ってきたら話を聞いてあげてください。お願いします」
    「あの、」
     最後まで言うなり弟くんは「すみません、失礼します!」と続けてそのまま行ってしまった。歩くのがはやいのは兄弟揃って似ているようだ。
     来週の水曜日か、木曜日。豊前くんが隣の部屋に帰ってくる。
     ならば私はベランダには出ない。







    9月中旬

     絶対に出くわさないように気をつけよう。
     心の準備など、豊前くんが帰ってくるという水曜日になっても整わない。そもそもどう覚悟すればいいというの? 嫌われていないということだけは分かった。
     けれどあのときの言葉。『部屋に行ってもいいか、それともこっちの部屋に来ないか』なんて、そんなことを言っていいはずがない。そしてあの去り方。その理由を勘違いしてしまいそうになる。最悪の一言と行動だ。
     もう二週間近く、豊前くんのあの数分の出来事に悩み狂わされている。絶対に会えない。会いたくない。
     だというのに。

    「……よぉ」

     まだオレンジ色の夕日を浴び、子ども公園の防護柵に腰を掛けて長い脚を投げ出している。こちらを見てなんとも決まり悪げな顔をした豊前くんが、そこにいた。
    「な……んで?」
    「ここでならあんたと絶対会えるから。こないだ……篭手切にめっちゃ怒られて。あんた、俺と会ってくんないかもって思ったから」
     よ、と立ち上がり豊前くんは私に近寄る。バレてる。彼は私の様子をうかがって息を吐いた。
    「正解だろ」
     返事はできないけれど答えは伝わったようだ。彼はおでこを抑えながら、ううんと唸り声をあげる。
    「俺が悪いのは分かってんだけどさ。あんたが怒るのも当然だし」
    「別に怒ってなんかないし……」
    「そうは見えんちゃ」
     私はようやく少し冷静になってきて、やっと豊前くんの姿を一瞥することができた。少し疲れたような顔をしているのは海外に出張に行っていたからだろう。
     そして、表情が硬いのは。
    「俺は怒ってて欲しい。俺があんたに甘えすぎてたんだから、怒っていい」
    「甘えてなんか」
    「なあ、あの話してもいい?」
     私の否定の言葉を豊前くんは遮る。真剣な眼差しで見つめられて私は戸惑いを隠せない。
     そのとき。遠くから笑い声が聞こえ思わず居住まいを正した私達の横を、学生の自転車集団が通り過ぎていった。ちんたらと過ぎていく楽しそうな学生たちを、豊前くんはなんとも形容しがたい表情で見つめたので、笑いをこらえる羽目になってしまう。自転車たちが通り過ぎてから豊前くんはぽつりと呟いた。
    「……帰りがてら」
    「……そうだね。帰ろうか」
     どんなに会わないと誓ったって、いざこうやって会ってしまえば私はやっぱり彼の横に立ってしまう。
     私と彼が帰る場所は今ひとつしかない。私が見上げると、彼は久しぶりに会ってから初めて、安心したようにわずかに笑った。

     ふたりで並んでこの道を歩くのは何度目だろう。こんなに緊張して歩くのは、初めてだけれど。
    「俺、人から言われるまであんたに甘えてたの気づかなかったんだよな」
    「さっきから言うけど、甘えてるってなに?」
     歩き出してすぐ豊前くんは口を開いた。私は先程から彼が私に甘えていると何度も繰り返していることにようやく言及する。いったい彼は誰に何を言われたというのだろう。
    「俺のこと考えて距離おかないでくれたし、無理聞いて料理してくれたし、仲良くしてくれて」
    「そんなこと……」
    「あんたと過ごすのすげえ好きでさ。でも俺とあんたの関係だとそれが当たり前じゃないって気付いてなかったんだよな。だからあんたのこともっと知りたいって思って、……ああやって誘ったんだけど」
     私は顔をあげられない。顔が熱くてたまらない。急にとんでもないことを言い出すので。こうやって勘違いさせるような……勘違い!? なにが!? もう分からない。
    「でもあんたが固まっちゃったから、言うべきじゃなかったのかって逃げちまってさ」
     と、ここで彼は大きくためいきをひとつ吐いた。
    「……明日っからどうしたら良いだろうって思ってたら仕事で結構やべーエラーが起こってさ、行かなくちゃならんくて、そのままついでとばかりに色んなとこ……アメリカまで行くとは思わんかったけど。あんたに会えなくなって……」
     アパートの前に着いて、私達は自然と顔を見合わせた。
     彼の顔は真っ赤だった。頬も目尻も、耳まで全部。
    「会えなくてつらかったよ。なんで俺、あんたの連絡先も知らないんだろうって毎日思った。あんたに会いたいって思ってたら篭手切から電話かかってきてしこたま怒られて、あんたの様子を聞いて俺、もう本当に……」
     自分たちのアパートの前なのに、彼の言葉が止まらない。
     こんなの勘違いしてしまう。こんなことを言われたら期待してしまう。 
    「豊前くん」
    「うん」
    「……な、中入ろう」 
     彼の目に灯る熱に耐えられなくて私は先にアパートの入口に入る。彼はすぐ私の横に追いついて、揃って階段をあがった。声が響くからか豊前くんも何も言わない。
     そうして私の部屋の前まで着いて。豊前くんは赤い顔のままもごもごとしながら私を見下ろしていた。私も何も言えない。
     と、不意に彼は私の手を取って自分の部屋に向かって歩き出す。骨ばって大きな男の人の手に手首を取られて、それが豊前くんの手で、私はなされるがままだ。
    「玄関開けたままにするから。ちょっとだけつきあってちゃ」
     そう囁いてポケットから出した鍵を挿そうとした豊前くんだったけれど不意に鍵を取り落としたーーそして「くそ、」と漏らされた彼の言葉を聞いたとき、そもそも私の手首を掴む彼の手が震えていることに気づいてしまった。
     扉を全開に開け放した豊前くんは、鍵を棚に放り投げると廊下の電気を点けて私に向き直る。
     掴んだ手はそのまま。真っ赤な顔もそのまま。潤んだ瞳と出くわした。

    「部屋に来てとか行きたいとかもうそういう、まだるっこしいことはもう言わん。俺、あんたのこと、す……好き。好きなんだよ」

     バサッと音がした気がして、何の音だろうと遠くの私が疑問符を浮かべたけれど、それは私がバッグを取り落とした音だった。
    「待ってなに」
    「あんたのこと好きって言った」
    「いや、……え? だって。なんで?」
    「理由なんて分かんねえよ。でも会えなくて寂しくてたまんなかった」
     気づけば私は玄関の外に一歩下がっていたけれど、私の手首を掴む硬い手が私を引き戻そうとするように少し握りしめられる。
     逃げたい気持ちが体中にひしめいていた。今度は豊前くんが勘違いしている。こんなこと。今度は意識してもう一歩下がる。
    「豊前くんは、私なんかよりもっと豊前くんの心を理解できる、素敵な人にこれから出会うと思う。私なんかよりもいい人が絶対いる。たまたま息の合う女友達……知り合いができたから、そう思うだけで、」
     追うように豊前くんが一歩詰めてきて。バッグを落として自由になったもう片方の手も抑えられた。面白くなさそうな表情を浮かべながら噛みつくように口が開かれる。
    「なんかってなんちゃ。それに仮にいたとして、そんな仮定の話でなんで今の俺があんたを諦めなくちゃならないんだよ。今の俺はあんたを絶対に逃したくない。逃げられたら追い詰めたくなる」
     なんだか雰囲気が違う。
     誰でも転がせそうな美青年なのに、押しに弱くてどこか不器用。黙っていれば美しいのに、喋ると可愛い、そんな人。
     でも今私のことをぎらぎらとした目で見下ろしているのは。
    「俺ってもともとそういう奴だった。弟がいっぱい出来て、いろんな人たちに頼られてそいつらに合わせて忘れてたけど、欲しいと思ったものは絶対手に入れたい。思い出させてくれたのは周りの奴らと、今俺から逃げようとしてるあんた」
     ひゅ、と息を飲んだ。
     豊前くんの初めて見る顔。
    「あんたも俺のこと好きだと思ってるけど違う?」
     焦れたような熱を灯した目で私を見て、口の端を吊り上げて。
    「ち、ちがう」
    「なあ、俺ってうぬぼれてる? ほんとのほんとに俺のこと好きじゃない?」
     玄関は開いている。逃げれば良い。豊前くんの拘束も解こうと思えば解ける。私は動けずに彼の顔が間近に迫ってくるのを見るしか出来ない。
     けれど。
    「だって、私は絶対に豊前くんに気を許さないって決めたのに、なんでそう思うの」
     私が絞り出したその言葉で、豊前くんの動きはぴたりと止まった。
    「私が豊前くんに気を許してないから私に甘えられるって、あのとき君はそう言ったじゃない。だから私はずっと、それを守って、」
     言いかけた声は詰まってしまって、泣きたくない私はそこで押し黙る。
     ずっと心につっかえていた言葉。この言葉があったから私は彼に近づかないようにして、でも出来ずに苦しんだというのに。
     豊前くんを見る目は睨みつけるようになってしまうけれど、彼は私を見下ろしながら先程までの表情を一転させて困り顔を浮かべ、私の両手を離した。私はすぐに豊前くんから距離を取る。
    「俺はあんたが、自分の気持ちを俺に押し付けないって言いたかっただけなんだ。でも、ごめん。俺の言葉選び本当にダメだな……」
     首筋を撫でながら豊前くんが謝罪を口にした。
    「怒っていいよ、でも俺が今あんたを好きなのは、ほんとにほんとなんだよ。どうしたら分かってもらえんだろ」
    「そんな、だって、私達電話番号だって知らないんだよ。好きとかそんな……」
     呻くように私が呟く。
     と、豊前くんはなぜか『それだ』と言わんばかりの顔をする。なにその反応、おかしくない?
    「そうだよ、俺たちまだ連絡先も知らない。知りたいことばっかだ。始まってすらないんだよ。だから……」
     そうして豊前くんは私の前に立って真顔になる。なにを言い出すつもりなんだろうと身構えた、けれど。

    「絶対俺に惚れさせるから、俺と、恋人を前提に友達になって」
    「ひぇ、」

     なんて? 待ってなんて? 恋人を前提に友達?
     泣きそうだった涙も引っ込んでしまう。身構えたけれど耐えられなかった。
     豊前くんは私が絶句していると反応のなさに急に自信をなくしたように唇を尖らせながら少し俯く。
    「……なってください。なって欲しい。絶対なってもらいたい。俺、諦め悪いから。絶っ対に諦めるつもりねーし、逃がすつもりもないのは本音。……だから今の俺はお願いしかできなくってかっこつかねーんだけど、チャンスが欲しい」
    「チャンス」
    「本気であんたにアプローチするチャンス。今諦めたら覚悟決める前に振られたことになるから絶対イヤだ。覚悟決めて努力してそれで振られたらやっと諦めもつくけど、俺は俺のせいでそのチャンスをふいにしかけてるから、今必死であんたにすがりついてる」
     私よりも高いところからちらりとこちらを見やる。
    「……友達からならいいだろ?」
     そうやって豊前くんが漏らした言葉。今まで私が断ることのできなかったいつものお願いをするときの顔で。
     結局私は彼に絆されてしまっている。
     彼の一言に一喜一憂して、大泣きして苦しんで、それでも彼のことを思って、彼の一言にドキドキして。これが人の心というものなのならば。苦しみながら喜んで、彼の横にいながら後悔する方がまだいいのかもしれない。
    「友達から……はじめようか」
     そう言うと、豊前くんはバッと顔をあげて嬉しそうに笑い、よしと拳を握りしめた。
    「絶対諦めねーし、今までの分の信頼取り戻せるようにすっから、見てろよ」
    「こわい」
     恥ずかしくて俯く。そんな私を豊前くんは笑い、落ちたバッグを拾い汚れを落とすと私の手を引いて玄関を出る。私の部屋の前に来ると手を離した。
    「ほんとは俺の部屋に呼んで話したいんだけど、まだ荷物散乱してるから。だから、またいつもの時間にベランダで会ってくれる」
    「……時差とか。眠くないの」
    「俺頑丈だからでーじょぶ。会ってくれる?」
    「分かった、よ」
     鍵を開けて自分の部屋に入る。
     豊前くんはにこにこしたまま私を見ていて。名残惜しむように玄関を閉めた私はへたり込んでしまう。
     これからどうしよう。私はこれから先の豊前くんとの未来に思いを馳せて、胸の疼きや顔の火照りが収まらずしばらくそのままでいた。

     そしてそのとき豊前くんは、私が玄関を閉じた瞬間に連絡先を交換するのを忘れていたことに気付いて崩折れていた、とベランダで聞かされて笑ってしまった。
     笑いながら私はやっぱりこの人と一緒にいたいなと痛感してしまって、やっとついた「友達」という関係性をすでにじれったく思ってしまったのだった。
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