雀がさえずる音が耳の奥に差し込んでくる。部屋に落ちる光がまぶしい。目を開けた鞍作は、しばし天井を見つめた。頭が重い。酒が残っているのだろう。舌が乾いて、口内がひどく苦い。
身を起こそうとしたとき、ふと胸元の感触に違和を覚えた。肌に直接あたる布の感触が、やけに少ない。視線を落とすと、上衣は腹のあたりで脱げ、下半身には薄衣が巻きつくようにして落ちていた。
見慣れぬ乱雑さで床に転がる、もう一つの衣。
葛城の、薄衣だった。
「……」
喉が鳴った。思い出せない。昨夜、どこまで酒を飲んだ。葛城が隣にいたことはかすかに記憶にある。だが、その先のことが、どうしても。
まさか。
嫌がる相手に。俺は。
絶望が、胸にしみわたっていく。血の気が引いた。こんなことがあっていいはずがない。起きてくれ、起きて叱ってくれ、殴ってくれ。鞍作は、隣にいる葛城を見やる。揺する前に、葛城が目を開けた。寝起きの、どこか呑気な顔。
「すまなかった!」
思わず声が出た。反射のように。なによりも先に、なによりも強く。
ぱちくりと、葛城が目を瞬かせる。
「……間違えたのか」
小さな声が落ちてきた。鞍作は即座に頭を下げた。
「間違えた、すまない!! 謝って済む話じゃないが、きっと俺はひどいことをした!」
息も絶え絶えに吐き出した謝罪の言葉に、しかし葛城の返答はなかった。恐る恐る顔を上げると、葛城は服を掴んだまま、真っ赤な顔をしていた。怒りとも、悲しみともつかぬ、熱を宿した顔だ。
「……誰と間違えた」
「え?」
「私の名前を呼んだくせに。うそつき」
葛城は、乱れた衣をとりあえず体に巻きつけて、ふらりと立ち上がった。襟元の合わせもろくにない。足元もふらついている。だが、その背に逃げる気配がある。鞍作は咄嗟に、後ろから葛城を抱きすくめた。
「放せばか、私じゃなかったんだろう!」
「ちょっと待ってくれ、話をさせてくれ」
「鞍作が欲しかったのは、私じゃなくて別の誰かなんだろう、放せ!」
身をよじる葛城を、鞍作は逃がさなかった。体格差のある腕の檻に、葛城の体が押さえ込まれる。
「すまないが分かるように言ってくれ、そうしたら放す」
「……鞍作が好きなのは、抱きたいと思っていたのは私じゃないんだろう」
静かに、観念したような声だった。
「それなのに、……最悪だ、浮かれてしまった……」
葛城は、両手で顔を隠した。
「葛城は、嫌じゃなかったのか?」
「言わせるな、惨めになる」
声は小さく震えていた。怒っているわけではないのだと、ようやく鞍作は理解した。
「……すまない」
「…もういい。鞍作は途中で寝たから、鞍作が思っているような間違いは起きていない。だから放せ」
「途中で寝たのか俺!?」
「うるさい。そう言ってるだろう」
「そうか……」
最悪の事態ではなかったことに、心底から安堵する。だが、それならなぜ葛城は。
鞍作はひとつの、あまりにも都合のいい仮説を、頭の中で転がす。
「もしかして葛城は、俺のことが好きなのか? そういう意味で?」
「っ、関係ないだろう私の気持ちは」
「関係ある。俺はそういう意味で好きだ。葛城に嫌われたくない」
「なっ」
振り向いた葛城の顔は、さっきよりもさらに赤かった。怒りでも、悲しみでもない目をしていた。
「謝り方を間違えていたことを謝る。だから帰らないでくれ」
「ちょっと、待て、整理させてくれ」
葛城が手を顔の前に差し出した。唇が震えている。
「叶うはずもないと思って言わないでいたが、こんなことになって葛城を傷つけたかと早合点した」
「待てと言うのに…!」
葛城は目を伏せたまま、もう何も言わなかった。ふたたび黙りこくった身体を、鞍作はそっと寝台へ導いた。黙ったまま、葛城も従った。
ふたりの体が並ぶ。葛城の肩を、鞍作の大きな掌が覆う。
「……いいよ」
か細い声とともに、ふたたび顔を伏せた葛城の額に、鞍作はそっと口づけた。何度も。耳朶に、頬に。触れるたびに葛城の体が小さく跳ねる。
目が合う。もう逃げる気配はなかった。
唇を重ねた。あたたかく、濡れて、やわらかい。どちらからともなく腕が絡み合った。葛城の指先が鞍作の背を探る。さっきまで怒っていたのが嘘のように、睫毛が静かに伏せられ、ため息がこぼれる。
衣の合わせが、また少し崩れていく。
窓から差す朝日が、二人の背を金色に染めた。薄い寝具の上に、肩と肩が寄り添い、影を落とす。
あまりにも眩しい朝だった。まるで全部を見透かすように、残酷なほどに。
――それでも、もう逃げない。
押し倒された葛城の頬に、鞍作がそっと髪を滑らせた。
唇が、ふたたび触れる。
光の中で、世界がゆっくりと溶けていった。