君を愛しいと思った。幼かった時のことを、私はよく覚えていない。
分かっているのは、その朧気な記憶は私に愛することを教えてくれたということだけだ。
『愛することを教えてくれたのは』
涼しい秋の風の匂いがする季節。私とオクジー君は久々に会い、共に昼食を取っていた。
「君、奥さんとは順調なのか?奥さんと上手くやっていけないと家では穏やかには過ごせないぞ」
私はそう軽口を叩く。オクジー君は2年前に大学時代の彼女と結婚した。大柄な体ながら心は優しく思いやりに溢れているから、家庭内でも大した問題は起こらないだろうけど、なんだかそう言わずにはいられなかった。
「上手くいってますよ。彼女は気が強いから俺は尻に敷かれっぱなしですけど…」
なはは…と情けなさそうに大きな体を縮こまらせて笑う。なんだか、熊みたいだ。
「全く…そんな弱腰でどうするんだ…。仮に子供が産まれでもしたらもっと気が強くなるぞ」
「…きっとそうなりますね。間違いない」
「は?」
私はカチカチと皿にフォークを打ち付ける手を止めた。
「バデーニさん。俺、子供が産まれるんです」
人あたりの良さそうな柔らかな顔を綻ばせながら、オクジー君は私にそう言った。
「そうか…それでは祝わないとな」
少し微笑んで私はそう返した。しかし、内心は穏やかではなかった。オクジー君が、どんどん遠くに行く。変わっていく。私の知っている彼ではなくなる。
子供のことを教えてもらってからの記憶はほとんどない。
気がついたら目の前の皿が空っぽになっていて、ワインでも飲んだのだろうか。やけに気持ち悪かった。店を出る頃には、空は墨を落としたように暗くなりかけていた。
「バデーニさん大丈夫ですか?家まで送りましょうか?」
「いや…いい…。君ははやく奥さんのところへ帰ってやれ」
私の貧相な背中をさする大きな手の感触を感じる。オクジー君の、低くて優しい声が私の頭の中で反響してうるさく鳴り響く。
「そんなに酔ってたら危ないですよ…」
「タクシー拾うから平気だ。妻子持ちを連れ回す訳にはいかん」
「…じゃあ、そうします。でも、家に着いたら絶対連絡してくださいよ?それと、怪しい人にはついて行かないように…」
「私を何歳だと思ってるんだ!私は英傑だぞ!酔っていようがひとりで家に帰ることぐらい容易い!」
最後まで私を心配しながら帰っていくオクジー君の背中を見送りながら、私はヘビのように蠢きながらタクシーを引き止めた。
オクジー君の、子供。オクジー君と、別の誰かの、子供。
おもちゃ箱をひっくり返したような視界の中、タクシーに揺られて考えることはそれだけだった。
家につくとすぐにトイレへ駆け込んで、思いっきり吐いた。
(嫌だ…。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
おくじーくん。いかないで。わたしをおいていかないで。あんなおんなのものなんかにならないで。こどものものなんかにならないで。いっしょうわたしのことだけをみていて。
「っ……ふ……っ」
胃の中のものを全部吐き出すと、次は涙腺が刺激された。
「うわあああああん!!!」
私は大声を出して泣いた。それこそ産まれたての赤子のようにワンワン泣いた。体中の全ての水分を出し切っているのではないかというくらい、涙は留まることを知らず溢れ出る。
私はずっとオクジー君のことを思ってきた。異例の若さで准教授に昇格した私を助手として支え続けてくれた時から、ずっと。同じ学部というだけの尻の軽そうな女に取られていいわけがなかった。好きだった。私の方が先に好きだったのに。やけくそになって乱暴にシャツの前ボタンを引きちぎる。そこにはうすい男の胸板があった。柔らかさなど微塵もなかった。
「…くそっ…。くそぅぅ!!!」
私は男で、彼も男。最初から、私に勝ち目なんかなかったんだ。現に、私はずっとその場で足踏みしているのに対して、相手はオクジー君と結婚して、子供まで作っている。
オクジー君から結婚報告を受けた時の、横にいた彼女の勝ち誇った目を忘れない。おそらく、私のこの叶わない思いに気づいていたのだ。
自分の伴侶となったオクジー君を私に見せつけるのが嬉しくて仕方がないから。そして、いくら私がまだオクジー君のことを思っていても奪うことなど永遠に出来ないと知っているから。私とオクジー君がたまに会うことを許可している、悪趣味な女だ。
「…私はこれから、どうすればいいのだろう」
トイレの床にへたりこんで、私は力なく目を閉じた。
それから長い月日が経って、オクジー君の子供はこの世に生を受けた。暑い暑い夏の日だった。
親族でもなんでもない私がその子供に会えたのは、母子が退院して何週間も経った頃だった。
私は夏の陽射しに身を焼かれながら、朦朧とする意識の中でオクジー君の家を目指した。
「バデーニさん、来てくれてありがとうございます」
幸せそうな顔のオクジー君が出迎えてくれて、少しだけ心の風穴に冷たい風が吹いた気がした。
「○○~!バデーニさんが来てくれたぞ~。お父さんのお友達。ほら、こんにちわってして」
オクジー君の腕の中の赤子は、ガラス玉のような瞳で私を見ていた。全てのものを、そっくりそのまま映す鏡のような瞳。
「…ちいさいな」
やわくてもろい命を目の前に、私はその言葉しか出てこなかった。
「あぅあぅ」
「わっ、バデーニさんに反応してる。好かれてますね!」
何かを求めるように赤子は私の方へと手を伸ばす。ちいさな、ちいさな手だった。
「良かったら、握ってあげてください」
「細菌感染とか、大丈夫なのか…?」
「大丈夫ですよ。家に上がった時に手を洗ったでしょ」
にっこりと微笑むオクジー君。それはまるで聖母の笑みのようだった。
壊れ物を扱うように、私は赤子の手を握る。
もちもちで、しなやかで、生きている人間の、手。
(オクジー君の、いちばんは、もうこの赤子なんだ)
私はその時、それを嫌という程思い知らされた。
「バデーニさん。最近お疲れのようですね。どうかなさいました?」
赤子の鏡に私が映されてから数日後、大学の研究室で一心不乱に論文を書いているとそう声をかけられた。
「は?私はいつもと変わらないが?」
「変わりますよ。そんなに暗い顔をして、目に隅まで作って。助手として心配です」
ラファウ君は、オクジー君が大学を卒業してからの私の助手だった。オクジー君はもともと大学の間だけ助手をする約束だったのだ。
「何かお手伝い出来ることはありますか?僕にできることならやって差し上げますよ」
「良くもまあそんな綺麗事をいけしゃあしゃあと」
「綺麗事じゃないですよー。心配なだけです」
嘘つけ。絶対綺麗事だ。ラファウ君が誰かを心配するところなんて思いつかない。
「バデーニさんがそんなになるなんて珍しいですね。もしかして恋でもなさってるんですか?」
「は?」
「あ、そのは?は図星ですね」
なんでは?だけでそんなこと分かるんだ。私はたまにラファウ君が怖くなる時がある。
「まあ、人間生きてたら恋のひとつやふたつしますからね。僕ができる範囲で助言しますよ」
こいつに相談してはいけない。そんなこと分かってるのに、その時の私は赤子の目に射抜かれておかしくなっていたに違いない。つい血迷って尋ねてしまった。
「…大切でたまらない人間に、大切なものが出来てしまって、私の方を向いてくれない時はどうしたらいい」
ラファウ君は私の方を見て目をぱちくりと動かし、顎に手をあててはてなマークを浮かべた。そして大声で笑いだした。
「アッハッハッ!そんなの簡単ですよ。その大切なものを奪えばいいんです。出来れば、永遠に。そうすれば、きっとあなたの方を向く日が来ますよ」
ラファウ君の光の無い目を見た時、私の頭にはあの赤子の姿が思い浮かんだ。
何をしようってわけじゃない。ただ、赤子の顔をまた見に行くだけ。そう自身に言い訳をして、私はオクジー君の家へ向かった。
彼の家は人がいない時特有の静けさを醸し出していて、ガレージにいつもあるはずの2台の車もなかった。どうやら、夫婦揃って外出中のようだった。
平日の真昼間だから、オクジー君は仕事。でも、あの女は産休に入り今は働いていないはずだった。買い物にでも行ったのだろうか。
のっぺりとした玄関のドアが、私を見ている気がした。
最初から、オクジー君は家にいないことが分かっていた。あの女が彼がいない時に私をのこのこ家に入れ、赤子を見せてくれる保証もなかった。それならなぜ、私は引き寄せられるようにここに来てしまったのだろう。
何をしようってわけじゃない。ただ、ほんとに誰もいないのか確かめるだけ。
またそうやって言い訳して、私は玄関のドアノブに手をかける。
そこには奇妙な感覚があった。家を守る、硬い力がない。私が手に力を入れると、それに抵抗することも無くすんなりと…。
(鍵が、開いている)
ドアノブの冷たさが、少し半端開きになったドアが、私にもう二度と後戻り出来ないことを悟らせる。
何度か招かれたことのある彼の家は、ミルクの匂いや柔軟剤の匂い、そして人間が生活しているところ特有の匂いで満たされていた。
私の家にはないその匂いが、お前は場違いだと言うように私の鼻を満たす。いやいやをするように首を振って、ふらふらと赤子と初めて会ったリビングに向かう。フローリングはやけにひやりとしていて、その冷たさは私を責めているようだった。
広いリビングには、ベビーベッドが置かれている。
母親がいないのだから赤子だって当然いないはずなのに、私は反射的に息を飲んで忍び足でそれに近づいた。
「ふぇ…」
「は?」
何もいないはずのそこから、ギャアンギャアンと泣き声が聞こえる。ついに頭がおかしくなって、赤子の泣き声の幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。
恐る恐るベビーベッドを覗き込むと、そこでは確かに赤子が顔を真っ赤にして泣いていた。それはまるで助けを求めるような声だった。
あの女は、赤子を連れていかなかったのか?どうして?確かに車はなかった。家に人の気配もなかった。
私の頭がはてなで満たされていると、赤子の泣き声はいっそう大きくなった。
私は爆発物に触れるように、赤子に慎重に手を伸ばした。
私に抱き上げれると赤子は途端に泣き止んで、濁りのない目で私を見つめた。赤子の目はオクジー君にそっくりだった。あの女の面影なんてほとんどなかった。
その目に見つめられた途端、何故だか私はこの子を知っている。そして、この子も私を知っているのだと思った。
赤子の柔らかい頬におずおずと頬ずりすると、キャッキャと笑う。
―その大切なものを奪えばいいんです。出来れば永遠に―
ラファウ君の言葉が頭の中に響く。そうだ。結局私は最初からそのつもりでここに来たんじゃないか。オクジー君にとって世界一大切なこの子を、奪いに来たんじゃないか。でも―
赤子がもう一度私をまっすぐと見つめる。水晶のような瞳に私が映り込む。
私は私の中に、何か初めての感情が芽生えるのを感じた。
(ここにいるのは、ひとりの意志を持った人間なんだ)
ふとそう思う。そこにはオクジー君もあの女も関係ない。ただのひとりの人間。
だったら、見せてあげないといけない。この世界の綺麗なものを沢山。例えば、満点の星空やこの子の目のように澄んだ海。汚いものなんて見せたくない。
赤子をちゃんと抱き直して、小さな手をそっと握る。
柔らかかった。温かかった。ふわふわで、ミルクの匂いがした。
小さな手、小さな足、小さな頭。
この子が可哀想になった。詳しい事情は分からないが、この子を置いてどこかに出かける母親。そして、鍵さえかけることを忘れる母親。
かわいそう。私だったら、そんなことしない。ずっと君を大切にする。私だったら、こんなところにひとりきりにしない。私が守る。この世界の怖いものやつらいことから、全部。まもる。まもる。
私はもう何も考えられなかった。
腕の中の赤子は、私に向かって笑いかけていた。まるで、私を許すかのように。